清沢満之と親鸞の接点を求めて

今秋、真宗大谷派宗務所から発行された2002年版冊子『真宗の生活』の文章の核心的な部分に、

「この言葉が、〈今現在を生きているという事実に目覚めよ〉と呼びかけています」(3頁)、

あるいは

「私たちは、生活の中で、実は重大な事実に思いをめぐらすことをしないで生きています。それは、我が〈思い〉に適わない事態が進行しているからといって自殺をしたいと思うような時にも、その思っている私は、その〈思い〉よりさきに存在しているという事実があるということです」(17頁)

という記述がある。
私も若い頃、大谷派の先輩たちより〈思い超えて存在しているという今ここの自己事実に目覚めよ〉と繰り返し聞かされたのであり、それは大谷派真宗教学における〈真宗信心の領解〉に大きな影響を与え続けてきた視点であると思う。
ただ愚鈍な私のとまどうのは、〈思いよりさきに存在しているという事実に目覚めよ〉という意味表現にそうような言葉が、浄土の三部経はもとより親鸞の著作の中に、どこにも見いだすことができない点である。もし見いだそうとすれば、かなり強引な解釈をしない限り、意味の連なるところを見いだせないのである。

では〈思っている私は、その思いよりさきに存在しているという事実がある〉とか〈今現在、すでに生きているという事実に目覚めよ〉という大谷派真宗人の発言が出てくる元はどこからな のであろうか。私は、その淵源は清沢満之の 「自己とは他なし。絶対無限の妙用に乗托して、任運に法爾にこの現前の境遇に落在せるも の、即ち是なり」 という、よく知られたこの言葉あたりではないかと思う。

この「自己とは他なし。絶対無限の妙用に乗托して、任運に法爾にこの現前の境遇に落在せるもの、即ち是なり」をどう解釈するかであるが、私は、 『真実の自己とは、〈現前の境遇〉としての今ここに、〈落在せるもの〉すなわち一切の思念に先だって存在している事実、それは絶対無限の働きによって成り立っている純粋事実そのものとしての自己存在である』 と理解したいし、それは大谷派でもほぼ同様に解されてきたと思う。
この「自己とは他なし。云々」は、近代における宗教的自覚を語る言葉として、普遍性をもった非常に勝れた表現であることは言うまでもないが、先ほど述べたように、親鸞の著作の中にこの自覚内容にストレートに繋がる言葉を見いだすことはできないのである。
このことに関わる発言として、金子大栄師が

「〈絶対無限の妙用に乗托〉せる境地は、〈身をも心をも放ちわすれて仏の家に投げ入れて、仏の方より行われて、これにしたがいもてゆくとき、力をも入れず心をも費やさずして、生死をはなれ仏となる〉といった道元のさとりを思いあわさしめる」(春秋社『真宗聞思祿』333頁)

「法力を強調するものは、結局、本願も大悲もただ言葉だけのものとなり、帰するところは仏力であり、絶対力であり、自然力であるということになるのである。それこそは最も生活に即せぬものといわねばならぬ」(文栄堂『「真宗領解集』289頁)。

なおこの文章に金子師は註をして、

「絶対他力は清沢先生の信念であったことに於いて、私には捨て難いものがある、しかしそれは何となく道元的であり、この道元の思想も親鸞と一つであるという人がある。自分はそうはなれない」(『真宗領解集』307頁)

と述べられている。このことから思われるのは、満之の「自己とは他なし。云々」は親鸞的というよりむしろ道元的、禅的ではないかということである。
この点について、現代の道元禅の第一人者である内山興正師の多くの著作の中に、〈一切の思念から落在せる事実としての自己〉を彷彿とさせられる多くの言葉がある。たとえば『自己』(柏樹社)に

「(私は)そこに尚ある自己を見いだしつつあったのです。つまり〈思いでつかまなくとも尚ある自己〉〈思いでつかみきれないところにある自己〉といったものを」(219頁)

「つまり〈思い〉を自分とキメこまず、〈思い以上〉を自分とする」(253頁)

また『生命の働き』(柏樹社)には

「たとえば心臓が動いているのは、わたしが〈動いている〉と思っているから動くのではない。思う思わないに関係なく動いている。心臓だけのはなしではなく、われわれが手放しで生きる、思いを超えたところに在るのが生命の実物であり、自己の実物なんだ」(69頁)

「あなたを生かす力は私にも働いて私を生かしている。この生命の力はわれわれの思い以上のところで働いて私を生かしている。この思い以上の生命によってあらゆるものが存在している」(230頁) などなど。

これらは内山老師にとって禅的安心の核心に触れる言葉であるが、私は〈現前の境遇に落在している自己〉という表現と極めて似かよっていると感じる。いな内実は同じであるとさえ思うのである。しかも「自己とは他なし。云々」の内容を理解する助けになると思われるほど易しくて明快である。
こうした禅者である内山師の言葉は、満之のこの自覚表現が道元的であるという傍証とは言えないだろうか。

さて、〈宗祖親鸞の真宗〉の大綱は、夢告和讚に

「弥陀の本願信ずべし
本願信ずるひとはみな
摂取不捨の利益にて
無上覚をばさとるなり」

と端的に示されているごとく、「本願を信じ念仏をもうさば仏になる」(歎異鈔)教えである。そして弥陀の本願とは 「弥陀如来の御ちかいの中に、選択摂取したまえる第十八の念仏往生の本願を信楽するを、 他力と申すなり」(親鸞消息) と述べられているように「念仏往生の願」(第十八願)であることは言うまでもない。信心とはこの誓願を信受する信心である。

こういう〈宗祖親鸞の真宗〉と「自己とは他なし。云々」の実存的自覚表現とがすぐには重ならない、ズレるのである。ここにズレを感じない人はいるかもしれないが、少なくとも私はズレを感じてしまうのである。
ただ、このズレに無自覚なまま、満之のこの実存的自覚表現から〈宗祖親鸞の真宗〉を解釈すると、当然無理があり、そのように解釈された〈真宗〉は、親鸞が表わしたものからややもすると逸脱しかねないと、私は感じている。この逸脱する部分を現代真宗学の創造的成果と見るか、それとも〈宗祖親鸞の真宗〉の後退と見るか、識者の見解の別れるところかもしれない。ただ愚かな私には、今のところ〈宗祖親鸞の真宗〉の素晴らしい特質を見失う可能性があると思っている。
なお、内山老師はそういう〈思いに先立つ自己存在の事実に目覚める行〉として坐禅を説くのであるし、老師にしてもこうした自己発見は十年間の厳しい坐禅修行あっての〈さとり〉であった。だから、これら実存的な自覚の言葉をただ頭で聞いて〈なるほど〉と思っているのと、老師のように〈体験的に目覚める〉との間には大きな溝がある。

この溝を心得ておかないと、「自己とは他なし。云々」と語り、こういう〈自己の事実に目覚めよ〉いう言葉を核に真宗の教化がなされるなら、親鸞が「いずれの行もおよびがたき身」という限界、ここでは〈存在の事実に目覚めることのおよびがたき身〉という限界、その限界内に押し留められるだけになりかねないのである。
すなわち、人間の方から思想的あるいは内観的訓練によって、〈絶対無限の妙用〉や〈自己存在の事実〉に目覚めようとすれば、愚鈍なるわれらは不可能のカベにぶつかるだけに終わりかねない。
むしろ絶対無限の妙用が誓願力としてわれらに働きかけ、本願の御言葉として表現回向され、具体的に名号として与えられて初めて、愚鈍なるものも絶対無限の智慧と慈悲にふれ且つ満たされるのである。

先ほど「自己とは他なし。云々」に表されている実存的自己表現から真宗を語ることは〈宗祖親鸞の真宗〉から離れていくきらいがあると述べたが、それでは〈清沢満之〉を真宗の教えにそってどう読めばよいのであろうか。
その読み方の一つとして、絶筆の『我が信念』(満之四十才)あるいは『万物一体』(満之三十八才)などの文章に示された内容表現の中に、伝統せる真宗にふさわしいものを読みとることが出来ると、私は思う。ことに『我が信念』の 「無限大悲の如来は、如何にして、私に此の平安を得しめたまふか。外ではない、一切の責任 を引き受けて下さるることによりて、私を救済したまふことである」 などは真宗に重なる表現であると思う。この言葉は法然の

「心の善悪をかえりみず、罪の軽重をも沙汰せず、ただ口に南無阿弥陀仏と申せば、仏の誓いによりて必ず往生するぞと決定の心を発すべきなり。その決定の心によりて往生の業はさだまるなり。」(浄土宗略抄)

とか、『歎異鈔』における親鸞の仰せとして、

「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」(歎異 鈔)

あるいは蓮如の 「阿弥陀如来のおおせられけるようは、〈末代の凡夫、罪業のわれらたらんもの、つみはいかほどふかくとも、われを一心にたのまん衆生をば、かならずすくうべし〉とおおせられたり」(御 文四帖目第九通) に連なる浄土教的表現内容である。  また満之の『万物一体』には 「真正の宗教は、是と異なり、苦痛を訴えればその救済の道を教え、罪悪を云えばその生滅の法を授く。すなわち阿弥陀仏の摂受につきて之を見よ。〈汝等衆生、一心正念にして我に来たれ、我汝等の善と悪と智と愚とを問わず、一切汝等のためにその責に任じて、汝等を摂受すべし〉と。この徳音を信受する者、誰かまた自己の善悪智愚につきて迷悶憂苦するものぞ」 という言葉があり、これも重要な真宗的表現である。
このような満之の表現は〈宗祖親鸞の真宗)に重なり合うものだと思う。しかもこれらの浄土教的表現は「自己とは他なし。云々」(満之35才)以後の、満之の更なる信境の展開から現れたものと言えよう。

最後繰り返しになるが、親鸞を宗祖と仰ぐものは〈満之から親鸞を読むのではなくて、親鸞から満之を読む〉姿勢が大事であろう。これを逆にすると〈宗祖親鸞の真宗〉はあらぬ方向へいきかねない。
「自己とは他なし。云々」という実存的自覚を〈宗祖親鸞の真宗〉に統合していくことによって、真宗教学を発展的に展開するつもりが、ちょうど法然の高弟が法然教学を展開させようとして聖道門の諸行を引き込み、〈諸行本願義〉を立てて返って法然以前に後退してしまったが、その轍を踏むおそれなしとしないのである。

(了)
*丹山順芸著「称名信楽二願希決」は金子大栄校訂『宗典研究』(文栄堂)に収録されており、引用文は一七〇頁。

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