こころは脳に納まるか

バッハのマタイ受難曲を聴く。
この出来事を自然科学ことに脳科学の説明では、演奏される器楽からの振動(原子の活動)が空気中を伝わって内耳に入り、それは神経細胞を媒介し、電気的化学的な分子活動として脳に伝えられ、それが脳の聴覚野を興奮させて神経インパルス(衝撃)として発火する。それによって脳の中枢において「ああ美しい」と感じる心が生じる、と説明される。  いわば脳内の神経細胞の活動という現象が本にあり、その付随現象として〈美しい〉という心が起こるのだという。
しかしマタイを聴いている私が実際に直接経験している事実は、楽曲の美しさにいたく感動しているという極めて内容豊かな出来事である。発生した空気の振動が耳に届いて起こす脳内での物質的な反応現象と、感激しながら聴いている心的な直接経験とは、大きな質的差異がある。  物質現象を観測し、分析し、それを因果的な法則として数式で表す手法によってこの世界を解明するという科学的方法論が非常に進んで、ある意味では輝かしい近代科学の成果となった。

しかし、そのような科学的な方法でもって心の現象を解明しようとしても、心そのものは対象化して外から直接に観測して捉えることはできない。  そこで「心のすべての現象は要するに物質である脳の働きである」と仮に前提して、その仮定の上で、脳のシステムを研究して心的現象を解明しようとする脳科学が起こってきた。
そしてこうした心へのアプローチはおのずと心的現象は物質的な脳内現象における随伴事象であるとの見方になり、現代ではそれが通説となった。  心の現象ではない物質現象を、科学的な操作によって、すなわちAという物質現象とBという物質現象との関係を科学的に観察し分析することによって、それを原因と結果として記述することは、同類の物質現象間ならできもしよう。

しかし、直接に経験される心的現象と脳内の物質現象とは全く質が違う。この二つの現象を一方の物質現象にのみに還元し、それを自然科学の方法論によって取り扱おうとすることは大きな無理があるのではなかろうか。  しかも、心を物質現象として科学的に理解するという場合、そうした科学的思惟そのものが心なくしてはできない相談である。「心は脳から生じた」と言うが、そういっているのはとりもなおさず心がそう判断しているのである。脳の解明作業そのものが心において成立しているとするなら、むしろ心の方が本であるともいえる。
もし〈心が脳から生じ、心は脳の働きに付随した現象に過ぎない〉という脳科学の知見が、心と脳における唯一の真理とされるなら、脳死は当然心の死滅でもあるから、脳死は人の全き死であって、死んだら灰になるとしか言い様はない。そうすると、真宗でいう仏になるとか浄土に至るとか、そういう話は一種の幻想、いわば茶番にしか過ぎなくなる。  けれども〈心は脳の働きの随伴現象に過ぎない〉という説は一種の仮説あるいは推測に過ぎず、〈心と脳は質や領域が違い、心は脳に納まらない〉という説もあり得る。であれば脳死は必ずしも心の死滅とはいえず、心は存続する可能性があるといえよう。

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