ものとこころと流転

●物質と心の関係
「人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。  彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙はなにも知らない」

「空間によっては、宇宙は私をつつみ、一つの点のようにのみこむ。考えることによって、私が宇宙をつつむ」
(「パンセ一」二四九頁。中央公論社)

これは物理学者であり思想家であったパスカル(一六二三~一六六二)の言葉であるが、ここで重要なことを彼は言っている。
人間は物質的には小さな一本の葦のような存在であり、一滴の毒で死んでしまうような甚だ頼りない弱い存在である。宇宙の小さな一点に過ぎない。 しかし人間には心がある。心は知る働き、考える働きである。それゆえに人は宇宙を包む、いわば宇宙を知ることができる、というのである。
宇宙というと広大すぎるなら太陽と考えてもいい。人間は太陽と比較すれば、余りにも小さくて見る影もないが、しかし人間は太陽を認識し太陽の形を知ることができる。しかるに太陽は太陽自身がどういう形をしているかを知らない。

物質的宇宙も同じである。「宇宙はなにも知らない」と彼はいう。 物質はどれほど巨大であっても、物質には知る働きはない。物質は物を対象化して認識する働きはない。人間も物質としての肉体だけなら肉体としてあることは分からない。物質を物質と認識できるのは意識(心)の働きがあるからであり、人も己の肉体を肉体と知るのは心があるからである。
ロボットが他の物を認識するのは、それがどれほど精密にできても、あれは膨大なデータの蓄積による反応であり作用であって、人の心が認識するのとは質が違うのではなかろうか。しばしば「心は要するに脳という物質の働きである」といわれるが、「心は脳の働きである」と考えている当体は心である。だから心が脳から生まれ脳の働きであるというのは独断である。
意識と物質は異質なものであろう。しかも、それらが人間的存在に於て離しがたく結びついている。心(意識)は脳(物質)とは離れがたい関係であろうが、はたして心は脳から生まれるのだろうか。
それとも心は脳と関係があるけれども心は脳を超えているのではなかろうか。心は物質(脳)の中に収斂せられず、脳を超えているから、脳を認識することができるのではなかろうか。もし心が脳を超えていなくて、心が脳という物質の働きに属するなら、物質と一体だから、心という物質は物質を知ることはできないのではないか。
ただ、自然科学者は「心は脳の働きである」と「仮に前提」した上で、脳の働きを観察する。それによって心の内容を知ろうとする。 しかし、脳をどれほど分析観察しても、心の内容を知ることは心の表面しかできないであろう。
ベルクソンがいうように、指揮者の指揮棒の動きをどれほど観察し分析しても、そこで演奏されている音楽の内容を知ることはできない。音の強弱、高低などはある程度理解できても音楽の中身は知れないように、脳の働き(ニューロンの活動)を外から観察しても心の内容を知ることは殆どできないであろう。
心と物質について更にいえば、知る働きである心は知る心自身を対象化できない。対象化されたものは心そのものではなく、対象化され、限定された心である。〈霊魂〉などというものは、心を対象化し空間的物質的にとらえたものである。その極りが「心は脳である」という考えである。
心は知る働きそのものであって、〈知られたもの〉は心のはたらきそのものではない。むしろ知りつつあるところに生きた心の働きがある。

●流転の生と往生の生
では脳という物質活動と心の活動はどこから生まれてきたのであろうか。  意識と物質、心と脳の働きの根拠はなにかといえば、量りなき「いのちそのもの」「実在のはたらき」と理解してもよいのではなかろうか。
そしてこのいのちから物質界と意識界との二面が現れてきたといえないであろうか。だから物質から意識が生まれたのではないし、意識から物質が生まれたのではない。
物質界と意識界は、どちらか一方から一方が生まれてきたのではなくて、根源的な普遍的ないのちいわば実在そのものの働きの二面ではなかろうか。
ところで、浄土の往生は「無生の生」といわれるが、生死流転はどのように説かれているかといえば、一遍上人は

「唯妄執が流転するなり」(「一遍上人語録」六四頁。岩波書店)

といっている。先に述べたように自己を対象化して捉えてそれに執する妄執、それが流転するといわれるのである。  西田幾多郎は『場所的論理と宗教的世界観』(西田幾多郎全集第十一巻。岩波書店)に、

「我々は、対象論理的に、我々の自己を対象的存在と見る所から、何処までも生死するのである。無限に輪廻するのである。そこに永遠の謎があるのである。
私は対象論理を迷いの論理と云ふのではない。場所が矛盾的自己同一的に、自己に於て自己を限定すると云ふ時、それは対象論理的でなければならない。唯、対象論理的に限定せられたもの、考えられたものを、実在として之に執着する所に迷いがあるのである」(四二一頁)

「迷と云ふことは、我々が対象化せられた自己を自己と考えるから起こるのである。迷の根源は、自己の対象論理的見方に由るのである」(四一一頁)

という。自己を対象的実体的に見て、それに執着するところに迷いがあり、無限に流転するといっている。
意識する我(自我)と我が物としての肉体、いわゆる我と我が身を自己であると執する、それを迷いといい、この自己が死ぬと無くなるという考えを無見といい、霊魂などとなって続くと見るのを有見という。有無の邪見といわれるのである。 そして真宗では、霊魂が浄土に生まれるというような生まれ方が浄土往生ではなく、〈無生の生〉としての生まれ方が浄土往生の生まれ方であると説かれるのである。
西田博士は、

「私は我々の自己の奥底に、何処までも自己を越えて、而も自己がそこからと考へられるものがあると云ふ所以である。そこから生即不生、生死即永遠である」(四二一頁)

といっているが、無生の生とはそういう生即不生の生といえよう。
自己を超えていながら自己の根柢で在り、自己がそこに於て在る、そこに於て意識界も物質界も現れてくる。 そういう〈場所〉は無量無辺のはたらき、いわゆる壽命無量といえよう。こうした壽命無量の外に真実の自己はない。 そういう智見が「無生の生」と知る智見であろう。〈無生〉無滅なるいのちの働きの外に真実の自己の〈生〉はないという智慧である。これが信心の智慧の内質であろう。 こういう智慧によって感得される境界が真実の浄土であろう。浄土に生まれるとは、この智慧が全開し、新しい世界が顕現することといえよう。

●変化すれども消滅せず
流転も輪廻もサンサーラという梵語の訳語であるが、サンサーラの原意は「移り変わっていくこと」である。物質現象も心的現象も変化し流れつつあるものであって、消滅しないのではなかろうか。肉体としての物質的現象も常に変化しつつあり、その変化の過程に死という事態がある。物質としての遺体は焼けば骨と灰とガスに変化するのであって、物質そのものが消滅するのではなかろう。
心も同じで心的現象も変化しながら流れていくのであろう。人の死においても、死して心的現象がなくなるのではなくて、変化しつつ連続していくのではなかろうか。ただ心は現在も見えないし、死して見えるはずもない。人が死して、心はどのように流れていくのであろうか。勿論心の知る働きと知られる境界とは離れないので、心の流れとともに世界も流れていくであろう。

●流転発生の相状
さて、人間には「知る」という働きがあり、これが人の本質であるといわれる。「知る」があるから世界がある。知るがあれば知られるもの(世界)がある。逆に知られるものがあるのは「知る」があるからである。
知るを意識界とすれば知られる世界を物質界ともいえよう。この「知る」と「知られるもの」との関係を仏教では「識と名色」で表す場合が多い。識は知る側であり、名色は知られる側であって一切のもの(一切法)である。 だからこの場合の名色の意味は「名色は識の対象、六処の機能によって識に認知される一切法とする」(仏教学辞典。四三〇頁。法蔵館)である。
そして識と名色の関係は長尾雅人『摂大乗論上』(二〇一頁。講談社)によれば、

「識と名色は識と名色との間には、相互に相依るという関係がある、としばしば説かれている。すなわち〈名色を縁として識あり、識を縁として名色あり〉といい」

といわれている。識と名色いわゆる主観と客観は相依り相待って不可分であり不二である。
にもかかわらず西田博士が、

「対象論理的に、我々の自己を対象的存在と見、対象論理的に限定せられたもの、考えられたものを、実在として之に執着する所に迷があり無限に輪廻するのである」

というように、識と不可分な名色を対象的に限定して分け、それを実体的に深く執着する。それが迷いの姿である。 こうして、意識の世界に〈無明・行〉が働くと衆生の存在が現れてくる、といわれるのである。  無明は無知であるが、〈行〉とは何であろうか。中村元『仏教語大辞典上』では「潜在的形成力」「我々の存在を成り立たせること」「意志作用」「無明から生じた、意識を生ずるはたらき」などとある。これは要するに「衆生の存在を形成しようとする潜在的な意志的な意識」といえよう。

識と名色の関係、あるいは主観と客観の関係に於いて、無明・行が働くと、識の対象である存在において、識に知られている存在を一つの個物として分離し形成しようとする。言うなれば、存在を限定し、個物として〈我〉〈我がもの〉であると捉えて執着していく。
この因果を基本的な縁起系列で表して、無明・行があれば「愛→執→取→生」の四支となって生死を繰り返すとされる。(上野順瑛『無我輪廻の論理的構造』参照)  識によって対象化された存在を愛し執着する(愛→執)。それが縁となって、それを〈我・我が身〉として掴み取る(取〉。そこに形態としての生存が現れてくる(生)。心身としての個物という具体的な形を取ってくるのである。そこに衆生の心身が生まれ、そこから生老病死の苦が起こる。これを無限に繰り返すのを流転輪廻といわれるのではなかろうか。  無明・愛・執という心的な妄執が起こると、それが縁となって物質的な形が応じてくるといわれるのである。いわば見たいという意志が縁となって眼が現れ、聞きたいという意志が縁となって耳が生まれる。縁となってというのは、対応して現れてくるということである。なぜそうなるのか。それは不思議としか言い様はない。
ショーペンハウアーが『意志と表象としての世界』(「中公クラシック」)に、

「わたしの身体がわたしの意志の客体性である」(二二七頁)

「身体の諸部分は、この理由からいっても、意志の自己表明がおこなわれる主要な欲望に完全に対応していなければならないし、身体の諸部分が意志の、具体的に目に見える表現でなければならない。つまり歯、喉、腸は客観化された飢餓であり、生殖器は客観化された性衝動であるという具合である」(二四〇頁)

という。彼は衆生の身体は「生きんとする盲目的な意志」が客観的な形として表現されたものだという。彼のいう意志とは、仏教に於ける無明・行にあたるであろう。

(了)

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