なぜ信心において往生が定まるのか

●仏語を信じる信心 なぜ信心において往生が定まり、命終の時、成仏するのであろうか。  従来、「汝はなぜ浄土に生まれることができるというのか」との問いに対して、「本願成就のアミダ仏が浄土に生まれさせると仰せ下さっているから」としばしば応えられてきた。
すなわち、法蔵菩薩は「十方衆生、もし生まれずは正覚を取らじ」との誓願を成就して「必ず助ける」の仰せとなって南無阿弥陀仏と喚びかけたもう。その仰せを聞いて仰せのままに信じる信心が真宗の信心である、と。
このように真宗の信心とは、仏語を仏語のままに信受している〈唯信仏語〉の信心であると伝統的には領解されてきたのである。

●摂取によって定まる信心
ところで宗祖の『ご消息』(真宗聖典・五九〇頁)に、

「往生の心うたがいなくなり候うは、摂取せられまいらするゆえとみえて候う」 「信心のさだまると申すは、摂取にあずかる時にて候うなり。そののちは、正定聚のくらいにて、まことに浄土へうまるるまでは、候うべしとみえ候うなり」

とあり、摂取せられることによって「往生の心うたがいなくなり候う」と仰せられている。
摂取されるから、「往生させていただける」という、往生の心に疑いが無くなる。すなわち、摂取せられることによって真実の信心が定まる、と仰せられている。

「往生させる」というアミダ仏の誓いを信じ、「往生させていただける」という信心が定まるのは、その人が〈アミダ仏に摂取せられたから〉であると、ここで聖人は仰せられている。これは大事なことである。

先程、真宗の信心は唯信仏語(ただ仏語を信じる)であって、本願を成就したアミダ仏の「助ける」という仰せをその通りに受け入れるのが信心であると従来からいわれてきたと述べた。
それはその通りであるが、そういう唯信仏語の信心が可能なのはアミダ仏に摂取されるという経験があって〈仰せを信じる信心〉が成立するといえるのではなかろうか。そういうことがこのご消息から伺われる。

●大悲を知るは如来を知る
では、アミダ仏に摂取せられるというのはどういう事であろうか。
アミダ仏の摂取不捨の救いとは、第十八願の「乃至十念・若不生者・不取正覚」の誓願の大悲心に助けられることである。「乃至十念・若不生者・不取正覚」は「ただ称えるばかりで助ける」という如来の誓いであり、それは私たちの一切の悪業煩悩にさわりなく、「そのままなりで助ける」「引き受ける」と仰せ下さる広大な大悲心である。
この仰せを聞き、無碍の仏心大悲に触れ、仏心大悲を知るところに大悲の心は凡心に離れなくなる、いわば仏心凡心一体(仏凡一体)となる。これが摂取不捨の利益にあずかるということである。

こうして仏心大悲を感じる人は、我と離れざる大いなる慈悲を知る。我に於いて我ならざる大悲の働きを知るとき、我ならざる働きを己の根底(あるいは背後)に感知するであろう。この働きは大悲なるゆえに、我ならざる働きは「大悲する実在」、すなわち〈ともにまします如来〉と感じるのである。大悲を知ることはアミダ仏の実在を知ることになる。
このように大悲の心を感じる人は常にともにいたもうアミダ仏の実在にふれている。真実の信心は、「如来、われらとともにまします」ということを感知している。
真実の信心は、単に「浄土に生まれさせて下さる」という言葉を聞いて、そのように「信じこむ」ことでもなければ、「固く信じて疑いません」と力むことでもない。今ここにアミダ仏がましまして私を抱き取って下さっているという実感があり、それゆえ自然にアミダ仏の〈仰せ〉を聞いて「ああ有難い」と素直に信受するのである。

●存在と場所の関係
そこで人が如来に摂取されるということはどういう事態であろうか。それは宗教哲学者の八木誠一の言葉に準じて一言でいえば「自我―自己―如来」の関係といえよう。ではその実際の内容はどうであろうか。以下に考察してみたい。

私(自我)は「今ここ」という場所をいつも離れえない。今ここにいるという場所は、私(自我)が設定したものではないし、しかもそこを私は一瞬たりとも離れえない。今ここの「状態は常に変化しつつ」も、「今ここにいる」という場所は決してなくならず、〈私〉は今ここにおいていつも成り立っている。それぞれがそれぞれであるまま、今ここの場所にいる。

そして、今ここの場所は、それぞれの個物もまたそれぞれに被決定的に与えられている。今ここは万物に与えられている。そこを離れて万物は成立しない。
無数の個物の今ここの場所がある。
では私の今ここの場所、あるいはそれぞれの個物がいる場所は、さらにどこで成立するのであろうか。それは西田幾多郎のいう「絶対無の場所」に於いてであるといえるのではなかろうか。何らかの形ある場所ではない。限定された場所ではない。一切の個物の存在する場所をして場所たらしめているような絶対的な場所、無限定な場所である。それは有限ではないし、限定された形では無いゆえに、「絶対無の場所」といえよう。

絶対無の〈場所〉といっても、場所というなんらかの形があるのではない。そういう意味で〈無〉の場所といえる。
私は今ここにいるという単純にして常にある場所は絶対無の場所に於いてある。絶対無の場所は「今ここの場所の場所」である。
個物は絶対無の場所にあるということは、大空にさまざまな雲が浮かんでいるようなものとしてイメージできよう。個々の雲は流動しつつ、しかも一々の雲は大空を離れては成立しない。空は雲を成り立たしめている。雲は空から生まれ、そこで存在し、そこへと帰る。大空はそういう〈場所〉である。大空とは絶対無の場所のごとしといえよう。

ある哲学徒が哲学者の西谷啓治に「空(くう)――絶対無――とは何ですか」と問うたとき、西谷は「空(そら)のようなものだ」と応えたそうである。
西田幾多郎は絶対無の場所を〈世界〉といい、次のようにいっている。

「現実の自己は却って此世界に於てあり、此世界に於て働くものでなければならない。我々の自己は此世界から生まれ、此世界に於て働き、此世界に死に行くものでなければならない」 (『西田幾多郎全集第十卷』岩波書店・一四三頁)

●人と寿命無量の関係
さて、絶対無を象徴する〈大空〉は、仏教の言葉では〈虚空〉といわれ、『涅槃経』には、

「如来はすなわちこれ真実なり。真実はすなわちこれ虚空なり」(真宗聖典・二二七頁)

「虚空はすなわちこれ仏性なり、仏性はすなわちこれ如来なり、如来はすなわちこれ無為なり」(真宗聖典・三〇四頁)

とあって、虚空は如来を表す。如来は寿命無量・光明無量である。だから大空のごとき〈絶対無〉は絶対無限であり、寿命無量(はかりなきいのち)と言い得るであろう。
そうすると私たちは寿命無量に於いて、その中に生まれ、その中で生き、そこへと死んでいく、といえよう。
一遍上人は、人と寿命無量(阿弥陀)との関係を、

「名號は寿の號なり。故に阿弥陀の三字を無量寿といふなり。此寿は無量常住にして不生不滅なり。すなはち一切衆生の寿命なり」(『一遍上人語録』岩波文庫・七二頁)

「無量寿とは、一切衆生の寿、不生不滅にして、常住なるを無量寿といふなり」(『一遍上人語録』岩波文庫・七二頁)

と、端的に語っている。また、人と寿命無量(阿弥陀)の関係は、浄土教においてだけではなく、たとえば『臨済録』には、

「赤肉団上に一無位の真人有り、常に汝等諸人の面門より出入す。未だ証拠せざる者は看よ、看よ」(『臨済録』岩波文庫・二八頁)

とあって、寿命無量を私たちの肉体的ないのちに出入し貫徹している〈真人〉といい、

「心法無形、十方に通貫す。眼に在っては見と曰い、耳に在っては聞と曰ひ、鼻に在っては香を嗅ぎ、口に在っては談論し、手に在っては執捉し、足に在っては運奔(うんぽん)す。本是れ一精明、分かれて六和合と為る」(『臨済録』岩波文庫・四四頁)

といって、十方に普くいきわたっているとともに、人にあって見聞覚知しつつある形なき心の働きとして寿命無量が表示されている。

●清沢満之の人と如来
ところで清沢満之は『我が信念』に、このような寿命無量である如来と人の関係を、

「私の自力は、何等の能力もないもの、自ら独立する能力のないもの、其無能の私をして私たらしむる能力の根本本体が、即ち如来である」(「清沢文集」岩波文庫・九九頁)

といっている。これを先ほどの「自我―自己―如来(仏)」の関係で言えば、「無能の私」が自我にあたり、今ここに「私たらしめられてあるもの」が自己にあたり、私たらしむる「能力の根本本体」が如来である。
如来(アミダ仏)と人の接点は、今ここという限定された場所として、つねに流動しつつあるままが、真実の自己であるといえよう。清沢満之は『臘扇忌』に、

「自己とは他なし、絶対無限の妙用に乗托して、任運に法爾に此の境遇に落在せるもの、即ち是なり」(『清沢文集』岩波文庫・一八五頁)

といい、〈現前の境遇に落在しつつあるもの〉それが真実の自己であると表現している。真実の自己は、おさえてみれば絶対無限の妙用(如来)の外にはない。そしてこの自己の機能として自我の働きがある。この絶対無限の妙用なる如来の働きにであうと、そこから照らされて自我はその本質が知らされ、自我は自己の一機能としての分限を知らされる。

●妄執が流転する
生死(生まれて死ぬ)というも寿命無量の〈場所〉が無くては生死はない。生死流転も寿命無量に於いて可能である。しかし、なぜ有情は迷いの存在として生死流転するかといえば、人(衆生)は寿命無量の中におかれている個物(身)でありながら、無明によってそこから意識的・無意識的に切りはなし、切りはなされた個物としての身を自己として盲目的に執着(有身見)するからである。
そういう盲目的な執着を一遍上人は妄執といい、

「自己の本分は流転するにあらず、妄執が流転するなり」(『一遍上人語録』岩波文庫・六四頁)

といって、妄執している心(業識)が流転するといわれている。ただし、妄執としての識心と識られている世界(迷いの境界)とは一体不離であって、境界を離れた霊魂というような空間的な形あるものが流転するのではない。
生死流転している凡心(業識)が寿命無量に出あい、寿命無量こそ真実の自己であると〈知る〉と流転は止んで涅槃する(寿命無量と一体になる)のであろう。これに関して、『安心決定鈔』には、

「しらざるときのいのちも、阿弥陀の御いのちなりけれども、いとけなきときはしらず、すこしこざかしく自力になりて、〈わがいのち〉とおもいたらんおり、善知識〈もとの阿弥陀のいのちへ帰せよ〉とおしうるをききて、帰命無量寿覚しつれば、〈わがいのちすなわち無量寿なり〉と信ずるなり」(真宗聖典・九五九頁) という。

●信知ありて如来あり
一切衆生はアミダ仏の寿命を離れてはない。そういう意味からいえば、どんな人もすでにアミダ仏の摂取の中にあるといえよう。しかし、それに気づいているかどうか、それが問題である。気づく人は、摂取不捨の〈利益〉にあずかるのである。気づく人は、阿弥陀仏と人は不可分であるという摂取の原関係が大いなる恵み(功徳)として活性化する。 世の中には人が認知しようがすまいが現実的に働いているものがある。たとえば太陽の働きも万有引力の働きも、それを知ろうが知るまいがいつも働いている。
一方、音楽や絵画などは、その美しさを感知する心なければ、無きも同然である。バッハの音楽もレンブラントの絵画もそれを感じる心がなければ、その人にとってそれこそ単なる原子・分子の活動にすぎないであろう。如来の大いなる功徳は、知らなければその人にとって無きに等しい。
生きとし生けるものはすべて、寿命無量・光明無量(如来浄土)に於いてある、あるいは中にあるといわれている。『往生要集』にも引用されている『摩訶止観』(天台大師智顗著・岩波文庫)には、

「魔界即ち仏界なり、しかも衆生は知らず、仏界に迷って横(よこさま)に魔界を起し、菩提のなかにおいて煩悩を生ず。この故に悲を起す。衆生をして、魔界において即ち仏界、煩悩において即ち菩提ならしめんと欲す。この故に慈を起す」(下巻・二三四頁)

とある。こういう意味から云えば、現在すでに私たちは仏界(浄土)の中にあるといえよう。しかし、目覚め(信心)がないと、現在に浄土の功徳は少しも感じられず、たとえ死して浄土に生まれても浄土は覚知できず、浄土の功徳は顕現しないといえよう。 「人はみな浄土に帰る」などといわれることがあるが、しかし信心(仏智)なくしてはたとえ浄土に帰っても浄土は閉じられたままであろう。
仏智(真実を知る心)に於いて浄土は知られるのであり、仏智において浄土は顕現するのであろう。浄土の真相は信心(仏智)の証果において知られるであろう。信心の智慧なくしては浄土は顕現しないから、死しても浄土に生まれたとはいえないであろう。

●心と心の出遇い
ではいかにして、摂取不捨というアミダ仏と人の原関係に気づくことができるであろうか。
それは、人の側から阿弥陀仏にあおうとしてもそれは不可能であろう。このことは「自力無効」とか「出離の縁あることなき身」と詳しく教えられている。
にもかかわらず、アミダ仏に出遇うことができるのは、アミダ仏そのものが南無阿弥陀仏という「摂取不捨の真言」(名号)となって喚びかけて下さることによってである。衆生は「摂取して捨てない」という大悲の言葉(本願の名号)によってアミダの大悲に出遇う。南無阿弥陀仏は、私たちの一切の自力の計らいを否定するとともに摂取するという不可思議な大悲の働きである。
そして、この場合の出遇いは仏心と凡心との出遇いである。

「仏心光は、すなわち阿弥陀仏の御こころにおさめたまうとしるべし」(「尊号真像銘文」真宗聖典・五二三頁)

「真実信心をうれば、すなわち、無碍光仏の御こころのうちに摂取して、すてたまわざるなり」(「一念多念文意」真宗聖典・五三五頁)

といわれ、凡心が仏心によって摂取されるのが信心である。摂取したもうのは仏心であり、摂取されるのは凡心である。こうして心(仏心)と心(凡心)との出遇いによって、摂取不捨の如来の離れたまわぬことを知り、その利益にあずかる。アミダ仏と心が通いあうようになる。そうすると、「私はアミダ仏とともにあり、アミダ仏こそが私の真実主体」とほのかに知られるようになる。

●心を救う心の働き なぜ心と心との出あいで摂取不捨の救いが語られるのであろうか。  人間は、肉体として物質であるが、同時に心として意識である。その点が単なる物質としての個物とは違う。どのような個物も寿命無量において今ここに存在するが、寿命無量に於いて今ここにいると知り得るのは心あるもの(有情)、ことに人間に於いてである。
目の前の机は単なる物質であるが、物質は〈知る〉働きがないから、存在をして存在たらしめているはかりなきいのちを知ることはできないであろう。

人間は心的存在であるゆえ「私は如来に於いてある」ということをほのかながらも知ることができる。心は〈知る働き〉であるからである。アミダ仏のいのちの中に私のいのちがあると〈知るのは心〉に於いてである。心においてこそ〈救い〉も〈助かる〉も知ることができる。物質はアミダ仏の中にあっても、物質がそれを自覚をすることはできないであろう。アミダ仏の働きを感知するのは心である。

よく〈アミダのいのちにであう〉とか、〈アミダのいのちに帰る〉とかいわれるが、私たちがはかりなきいのちに出遇うことができるのは〈心〉に於いてである。
凡心が仏心に出遇うことを通して、アミダ仏のはかりなきいのちへの気づきも生まれてくる。
だから宗祖は、アミダ仏の救いを語られる場合、アミダ仏の〈いのち〉と私たちの〈いのち〉との関わりで表されず、仏心と凡心との〈心の関係〉で救いが語られる。如来大悲の心は〈仏の心光〉として説かれている。宗祖は、寿命無量を本としながら、光明無量の働きを中心に語られるが、阿弥陀仏の光明は『正信偈』にも、

「摂取の心光、常に照護したもう」(真宗聖典・二〇四頁)

とあるように、衆生の救済は〈心光〉の働きとして説かれている。

●結語
摂取の心光は、「助からぬ者を助ける」の仰せである南無阿弥陀仏となって、私たちに喚びかけたもう。それを聞き開く一念に仏心大悲は凡心に至り届いて信心となり、私たちは摂取不捨の利益にあずかるのである。
アミダ仏の摂取の大悲におさめられているとの信心の智慧はおのずから「阿弥陀仏のいのちの外に自己は無い」と知るであろう。宗祖が「信巻」のはじめに、

「大信心はすなわちこれ、長生不死の神方」(真宗聖典・二一一頁)

といわれるのは、信心の智慧のゆえといえよう。
それゆえ信心の智慧によって、信心の行者は寿命無量におのずから帰一せしめられていくという、いわば「寿命無量の浄土への往生まちがいなし」という、そういう「往生の心」に疑いがなくなる。
こうして「なぜ信心において往生が定まり、命終の時、成仏するといえるのであろうか」は、アミダ仏の摂取不捨による信心の智慧のゆえといえよう。

タイトルとURLをコピーしました