染人百話

『染人百話』                                                   禿 義 峰 著

冷暖自知なるべき信仰は、学問では得られない。げに、信仰の門戸は一派学頭にも一介の野翁にも平等に開かれ、昔と今の変わりなく同じように味わわれる。それ故、野翁の一言に仏語にも等しい千古の金言があり、その半句が滔々百万言の縷説にも勝れた警策を与えたりすることは、敢えて怪しむに足らない。そは不惜身命の血と涙とで求め得た信仰の宝珠だからである。その披瀝せる告白や述懐が人々の胸をえぐるというならば、それは真実なるが故である。世に真実ほど力強いものはない。  本書の編者はかって「香樹院語録」と「安心百話」を編述した人、そしてこの種の語録や逸話には未だ紹介されて居らぬ先覚者の言行や、隠れた妙好人の逸話に真実を味はんとして輯めたのが本書である。(沼生)

○惠空講師曰く。かまえて学匠沙汰せさせ給わで御念仏候べし。 (叢林集)

○香巌院講師曰く。妻子にまつわり浮き世を渡るは心やすきに似たれども、さまざまの異縁ありて、年久しく無事にすなおに暮らしがたし。その中に法義を聞き、物まなびなどして、一巻の聖教を心静かに見るほどになることは大なる事なり。軽く思うべからず。     (学問十規)

○亀陵講師の手記録の中に、慧然師曰く、一生造悪のしれじれしき凡夫、臨終苦にせめられ称うる暇なきものは心に思うばかりなり(観経下中品)。づつなき中から南無阿弥陀仏と称えたれば来迎にあづかり往生をうる。一期に一度の善心なきものの臨終について回心すれども、手水つかう暇も口すすぐ間もない。起こせば命が終わるゆえ、そのまま称えて往生する。然るに、それは臨終の機、平生はそうはゆくまじと疑うものがある。弥陀の方に臨終はこうして助けよう、平生の機はこうしてと仰せらるる差別はない。臨終が助かれば平生もその通り、臨終の命がもし延びぬれば平生となり、平生の命が縮まれば臨終となる。何ぞ差別あらん。そのご恩思わば南無阿弥陀仏々々々々と称うべし。
《大浜の吉右衛門婆》

○江州東淺井郡大浜の吉右衛門婆は宮川の妙仲尼と稻葉のこう女と並べて湖北の三幅対といわれた篤信者であった。若い時吉右衛門へ嫁して来た時から、寝所の上に一本の傘を吊って置いた。時々その姪にあたる稻葉のこう女に、「私はね、聴聞や談合に出るのが夫の気に入らぬというので、もしや暇でもだされるなら、何時でも出て行かれるように、一本の傘を用意して置くのじゃ。おまえもそれ位の心がけしていなされや」

○八木浜の嘉右衛門が尋ねて来て、これまで聴聞したことをかれこれ話し合うと、婆曰く、嘉右衛門さん、おまえさんのはねぐそうなってあるねい、妾のは今貰いたてでぽつぽ々と湯気がたってある。

○或人、老婆に遇うて胸のもやもやを話すと、婆の曰く。妾もそうぢや、沢山にあるが、そのまま積んで置く、天にもとどくだらうと思う。それをどうするかと尋ねると。何をいうぞい。今死んでゆくものが、そんなものに相手になっていられようかい。

○婆曰く。若い時から早う御信心が獲たい々々と思うてきたが、阿弥陀様はよほど御慈悲な御方じゃ。とうとう今日までこの婆々には信心を得さして下されなんだ、信心を得ると怪我するやつじゃでなあ。  又ある時、手次寺から帰って来て家内の人々へ、妾はねい。もう信心獲てると仰せられたと嬉しげに云うた。誰が云うたぞと問えば、御寺の御小僧さんがと(当時十二三歳の新発意)。孝子は孝を知らず、大忠は忠を知らずで、親や君の御恩が知らされると、ただ御恩に目がつくばかりである。

○ある時、南浜のかる女に話して曰く、妾は一日中御文さまを聞いて居ると。それはどうしてと云えば、夕時に聞くと夜中その御文様を思うておる。  大量師の手控にこの話を記して師言を添えて曰く、実の聴聞はこの如きものならん、世上の法談参りの人、或いは貧女の安米を探し歩く如き、或いは珍しいことを聞き歩くなり。或いは上手を慕うて歩くなり。皆聞き歩きながら目的なき聴聞なれば、実の聞法に非ず。当流にはただ弘願の一法を聞くのみ。即ち仏の御心を知りたるが聞えたと云うものなりと。
《稲葉のこう女》  同郡竹生村稲葉のこう女は後に妙意と云うた。出離の望み厚い稀な念仏者であった。死ぬまで聞きたがってぐづ々々云うたから人は乞食仏法じゃとか、親子名乗りせずに極楽参りした人じゃ、又信心得ずに御浄土参りした婆さんじゃとも云うた。

○御聞かせの一句々々が末期の水呑むここちがするといつも云うていた。又私が忘れるで彼方が忘れておくれぬ、私が離れるで彼方が離れておくれぬ、私が思わぬで彼方が思いづめにして下さるる。

○後生大事とも、恐ろしいとも、何とも思わぬ、黒玉みたようなものが胸にある。斧で割っても何ともない心がある。この黒玉が今堕ちよる。これに自然と親様の御心が届いて下さるるのじゃそうな。骨折って聞かぬとなかなか届いて下さらぬ。又機の知れた人には滅多に遭えぬ。又、病中甥の中山市右衛門に曰く、この心の恐ろしいと云うことの知れるまで聞くのじゃ。これだけはたのむぞえと。
《綺田のかよ女》  湖東蒲生郡綺田のかよ女は、深く仏恩を念じて称名絶ゆることはなかった。早苗とるにも秋田苅るにも一株々々戴いては御念仏した。

○生涯こまるとか悪いとか云う言は口にしなかった。或日、藁屋根の葺き替えをしたが、折悪しく暴風雨になった。家人が今日は困ったことになったと云うと、こう云う日がなけねば御天気の有難さが知られぬと。

○その夫は養子であったが妻に似ぬ極めて邪見もので、種々の事を巧んではかよ女の三宝崇敬の邪魔をした。或時二十八日祖師の御命日を殊に撰んで、自身が桜川で河魚を捕え来てすすめた。ところがかよ女は少しも変わった色も見せぬばかりか、妾までも御相伴をさして下さるるか、有り難いことであると嬉しそうに食うた。これを見た夫は一方ならず驚いたが、それから後は不思議にも心を改め別人のやうに打ち変わって柔順になった。これを見聞した土地の人々も感ぜぬ者はなかった。その時かよ女の心中は思いやられる。なお遠くは祖聖の昔を忍び奉らずには居られぬ。
《本尊なり仏体なり》  江州蛇溝の如説院惠劔講師の講述の中に、とかく名号を離れて生身の仏体に向うて往生を決定しようとするから、どこらあたりで弥陀の御慈悲にかなうものじゃやら程が知れぬ。それでは第十七の本願はいらぬものになる。当流のこころは専ら善知識の御教化たる名号の由をよく聞き得るを信心と云うのであるから、六字の名号が行なり本尊なり仏体なりである。

○当流のこゝろは、善知識の教を受けて信ずるの外はない。然るに訳を知りにかゝる人は御開山よりは賢い人と思はるる。御開山は知りにかかる事を止めさせられて、只法然上人の仰せを平信じに信ずると仰せられた。

○すかされようかと用心し、間違うかと分別してかかるなら信ずると云うものではない、知ると云うものじゃ。してみると弥陀の本願はいらぬものになる。又、信心の得られぬ訳は、仏の仰せを信ずる信心で、往生すべき道理を信ずるのではないと云うことを、よくよく合点せぬからの事じゃ。《宮川の妙仲尼》

○宮川の妙仲は湖北三幅対の一人で家は呉服商であった。又その向い側にも呉服商があった。尼がたまたま店番して居る時客が来ると、後世腹で無欲な妙仲は、御向いの店にはなんでもあるからあちらへと。又乞食など来れば、喜んで食物など沢山与え、又来てくれと。

○或夜、盗人が来て表戸の外から穴を穿ち、手首だけ差し入れて、さあ樞を挙げようとする処を番頭の一人が見付け出し、内から盗人の手首を握り、盗人じゃ々々早う刃物を持って来よ、手を切ってやるからと。之を聞いた尼は一方ならず驚いて来たが、折角因縁あって、来たものを只で帰らしてはと思ったか、そっと五円紙幣を握らして逃がしてやった。後の日誰も知らぬ間に、反物に五円紙幣の添えたものが尼の宅に投げ入れてあった。

○或時曰く。私はこうしているのが地獄の釜の上に吉野紙引っ張って坐っているのぢゃ。これなりで南無阿彌陀仏といただくばかりじゃ。  又曰く。私はいつもあなたにうしろ向けては口説いているのに、あなたはいつも私の前へまわっては、そのまま助けるぞ々々と呼びづめにして下さるる。

○早崎要誓寺の坊守は厚信者であつた。或時尼を訪ねて一言聞かしてくれと云へば、あなたは坊守さんではないかいなあ、そんな御方になに云うて聞かすことがありましゃうかとて寝ている。もう日が暮れるから帰ります。どうか一言と強いて頼まれると、むくむくと起き出で、先づ手を洗ひ御仏壇に緩々拝礼遂げて、何にもおきかせ申すことは御座りませぬ。私は鬼奴と云うことを知らせて貰ました。さあ、御帰り下され。

○後生大事となると両方に掛茶屋がかかる。一方は甘茶で愛想がよい。称我名字の御誓いじゃから、御念仏さえして居れば堕ちはせぬ。たとい疑いはれずとも化土迄はやって下さるるからと。又一方は澁茶で愛想がわるい。人並や仁義では聞き得られぬから、命がけで骨折つて、嬉しや々々の身になるまで聞けよと云うのぢゃ。
《念仏は聞きもの》  野洲郡比江の仏現寺の先代は仏光寺派の講師で、香樹院師に隨いて熱心に聞法した。越後へ行って聞いても々々聞こえぬ。仕方がないから帰国して、毎晩自坊の御内陣を行道して一すじに御念仏申していたが、或夜御開山の御燈明が暗くなって消えかかったのを掻き立てようとした途端に、はっと気が付いて、「聞其名号信心歓喜」で祖師聖人の御一流は聞く一つであった。それを自分は今まで称えものにしていた。因も果も「重誓名声聞十方」聞かせねばおかぬの御教であったものを、称えものにして、信が得たいの、丈夫になりたいのと思うていたは、皆私の了見違いであった。いよいよ助からぬ私が聞く一念に仏因を御授けにあづかって御助け下さるるとは、あら嬉しや有りがたやと喜ばれた、と云うことである。今曰く。越後で永々聴聞し、自坊で行道念仏されたのが、加様に聞其名号信心歓喜の身となられた道行であったのであろう。

○同師、或時江州五ヶ庄から沖野原を越えて蒲生郡平木に行かれた時、広い野原の小道に迷うてどうしても行かれぬ。その中いつか見おぼえのある石塔籠を見付け出して、さあこれさえ行けば先づ安心と腰を下して煙草を吸い初めたが、ふと日が暮れたらどうしようぞと気が付いて急ぎ出したが、日暮れにやっと平木の寺に着いた。今出離の大事についても、本願の大道へ出られたから、もうこれで行けると、領解に腰掛けていたら、臨終の日暮れに当惑して大事を仕損ずるのであった。これ全く仏祖の善巧方便から知らしてもろうたとて、自ら省み用心されたという。
《歌六首》  香樹院師手記随筆の中に、
「信心の花だにむねにひらきなば、身には解脱の香やにほひなん」
「波風のはげしき浮世をわたるには、誓ひの船にしくものはなし」
「妄念の波風しげきわがむねを、漕ぎゆくものは念仏なりけり」
「さゝるゝな蛇まむしよりうしろ指、いたみをうつす人の身にまで」
「人ならばうらみもすべしいかにせん、われをすかすは我が心なり」
「われといふひるぬす人にゆきあいて、南無阿彌陀仏の宝とられな」。          《そんな処にいるか》  或人、後生が苦になるとて三州七三郎の処へ尋ねて行ったところ、七三郎はただ念仏して居られる。共ども念仏しているうちに、訪ねて行った人が居眠りしはじめた。傍の人が七三郎に、後生大事が苦になると云う人が居眠りするとは、と云うと、七三郎は、否私も昔はそうであったと云う、此事を後に香樹院師がお聞きになつて、七三郎はまだそんな処にいるかと仰せられた。此事を又七三郎に語る人があって、これを聞いた七三郎は大いに驚いて早速京都に行き、香樹院師をお訪ねしたが、当時師は加賀国へ出張中であったが、心がかりの七三郎は、その足で急ぎ加賀まで香樹院師を訪ねて参った。師に謁して、七三郎がまだそんな処にいるかとの仰せは如何なる御思召にて御座りますかと申し上げた時。師、色を正し声をおごそかにして、七三郎今はどうじゃ々々と仰せられた。七三郎は始めて心付き、冷汗を流してただ恐れ入るばかり、後生大事の気のかからぬは、昔の事と思いましたが、今もやはり後生知らずの邪見ものは、この七三郎で御座りますと、心底から謝りはてて、御講師様なればこそ、ようもこの誤りをお知らせ下されましたと、深く慚謝して帰国した。
《 三歟 》  香樹院師が江州水口町の河内屋某へ御立寄りになった時、同地淨土宗の大酒家の僧が、諸人お出迎えをして路傍に平伏しているのを見て、あれは何人かと問うた時。本願寺の大徳香樹院大講師じゃと聞かされて、早速酔いまぎれのまま推參して何か御染筆をとお願いしたるに、師は直ちに筆を執られ三歟と書いて与えられた。今の僧これは如何なることで御座りますか、師仰せに、蓮如上人の御言に、「坊主分の人ちかごろはことの外重杯のよしそのきこえあり言語道断の次第なり乃至 重杯なれば、かならずややもすそれば酔狂のみ出来せしむる間しかるべからず、さあらん時は坊主分は停止せられても、まことに興隆仏法ともいいつべ歟。しからずば一盞(さかづき)にてもしかるべき歟。これも仏法にこころざしの薄きによりてのことなれば、これを止まるざるも道理歟、深く思案あるべきなり」、との御誡の三歟ぢや、との仰をきき、その後は大に自ら省みたと云う。
《他力ということ》  大和の国の丘誓堅師は出離の望みの深い処から、態と過ちを現わして寺を出て諸方に法を求め歩き、殊に香樹院講師に師事して聞法された。その終焉に臨みて云うに、予香樹院に随うて久しく北越に留まって聴聞したが今になってみれば無一物じゃ。しかしながら、生々世々の初事に、この度は他力と云うことを御知らせに預かったが実に嬉しいと、云いつつ命終せられた。このことを等覚老師、ことの外随喜していつも話されしと。
《阿呆が宝》  伊勢国西日野の治郎造は四・五年前に亡くなった厚信者であったが、年々御本山御七晝夜にかかさず参詣しては江州へ立ち寄って聞法した。ある時云く、わしは何にも知らん阿呆じゃで幸福じゃ。これでも算筆が出来るものなら土地相応に用いられて、なかなか仏法聴聞に心をよせることもなるまいに。命は法の宝と聞いているが、わしは阿呆が法の宝じゃわい。一蓮院師の歌に、「あほになれ あほにならずばこのたびの 浄土参りはあやうかりけり」と。
《往生を楽しむこころ》  易行院法海師曰く、「あはれ仕おおせばや」と法然聖人の仰せられたは、願作仏心の相続である。まだせぬ(因より果をのぞむ)往生じゃから往生を楽しむこころである。法然聖人の御歌に「のりえては 心うれしきあま小舟 高瀬の波の たつにつけても」
《恐ろしいと云う心》  海東講師曰く。在家のものは有り難いと云うばかりでもよいが、寺の者は恐ろしいと云う心得がなけねばならぬぞ。
《明信寺師》  明信寺師は初め美濃国の農家に生まれた人で民藏と云うた。明信寺と云うは、その後京都に居られた時、本願寺派のある御法主殿が、その厚信を嘉して、明信寺と云う御額を賜ってから、それ以来名づけられたもので、実に近世稀なる高徳であった。一蓮院師や、等覚師、大量師などの方々が始終この人の薫陶を受けられたと云うことを聞いても推し計られる。後に法中の偏執から彼是批評されて、両三度も御調べに逢われたが、勿論異安心のどうのと云うことがあろう筈はないから、いつも私一人の後生を、かくまでも御案じ下されての御親切と落涙して喜ばれたから、係りの人々も却って恥じ入ったと云うことである。

○晩年に師がかって得度した寺の老僧が病気になって、師に一言の法話を懇望されたことがあった。ところが道心深い師は、容易に諾われない。使いの来ること再三に及んで、師、ほろりと涙流して曰く。行くことは易いことじゃが、生身の五尊さまが日夜御立ち揃いで御化導あらせらるる御座処へ、何辨えぬ自分のような禅門が参ったとて、何申すことがありましょうかとて、きかれぬから、使いの者は是非なく帰って、その由を伝えると、病僧は今更のように驚いて、全く自分が今日まで心得誤って居りました、さあ早う五尊様へ御詫び申したいからとて、晒布で總身を拭うて、戸板で本堂に連れ行かれ、尊前に詣で、心底から懺悔して落涙限りなかったが、程なく命終せられたと云う。

○ある時、師江州八幡町伊賀屋の老婆に曰く、おまえはよく聴聞はしているが、どうもならぬは、ただ如來様を褒めぞやしているのじゃ。大量師この話を手控に記して御言を添えて曰く。我等はその褒めるようになりたいと望んでいるは大いなる誤りである。これ自分の後生になっておらぬ印じゃ。

○ある時、江州西湖伊崎の竿飛を見ながら、人の体は重たいけれど、水力のみに任せるゆえか様に浮かぶのじゃ。今我等も罪業重い身じゃけれど、弥陀の仏力のみにまかせ奉ればきっと往生が遂げらるる。「とりつかぬ力に浮かぶ蛙かな」仏力のみにまかせて、とりつく処のないのを他力と云うのなり。

○越前から京の明信寺師の処へ度々参って聴聞する同行があった。京都へ来てだんだん聴聞するうちに、何時の間にやら無一物になつて国元へ帰る。またあちらこちらで聴聞する中に、信心が出来る。これでよしよしとなって京へ来て同師の御縁に預かると、亦壊れてしまう。そこで師曰く。亦国元でつかまされて来たな、と。か様なことは五度や七度ではなかったが、遂には宿善の到来したものか「聴聞で かためた領解 もぎとられ 土産もたずに 帰る親里」と口ずさんで喜んだと云う。

○ある人、私はどうもしっかり致しませぬ。師、こちらに確りはいらぬ。如来様のしっかりを聞くのぢや。今曰く。しっかりがいらぬいらぬと云うたとて、実の安堵がいらぬと云うことではあるまい。邪見や放逸で、初から仰せばかり々々と云うているのとは訳がちがう。実に無有出離之縁の徒ら者が、願力の不思議一つで助けらるるとなってみれば、こうのああのとかれこれ沙汰はしておられぬ筈、只願力を仰ぐより外はあるまい。古徳の「信者の心中信心なし、ただ願力あるのみ」のこころか。

○仏智回向と云うは法藏因位の願行がみな我物になるのじゃ。あのヒゼンカキの側によるとうつる。その時は覚えぬけれど、うつったがまことじゃから先の人の通り我身もヒゼンカキになる。法藏因位の御修行が今私の称礼念の三業に酬いあらわれて下さるる。これが仏智をもろうたのじゃ。

○師の手記帳の中に、往生は手に握りし如きかと云えば手に握りし如く、目に見たる如きかと云えば目に見たる如く、そこまで行かぬゆえ、口では往生一定のように云いながら心の中はうろうろするのじゃ。おじおじするとうろうろする、そのままで置くは大様の第一じゃ。

○同じく我等はさとられぬから親さまの方のさとりをそのままもらいうけるのじゃ。行者のさとるは未来である。この世ではさとられぬ。

○法如上人の御法語に、「若年の昔より老衰の今にいたるまで、歓喜踊躍の思いの起こらぬは、心底に疑いのあるゆえなるべし。されば本願の威力におされて、諸行諸善の心は大略すたりたるようにみゆれども、信心歓喜の思い不足にて、むなしく光陰をおくる人のみなり。実に嘆くべきはただこの一事なり」と。

○信ずる人は正因となって往生する。本願を譽めて喜ぶ人は人には敬われて我は堕つる。譽めて喜ぶは諸仏で、我は信じて御助けに逢うのじゃ。よくよくこのところで夢を覚まさねば永劫の大事である。誹ったり疑うたりするものは人がそのままおかぬから心を飜えす時もあろうが、喜んで譽めあげて、同じように申して心に信ぜぬなら誰がこれに手を入れてくれようぞ。一生は羨ましがられて終には堕つるのじゃ。表の火の手が見えると早鐘のさわぎがあるが、藏の中のむせやけは人の知らぬ難儀じゃ。人目よく信ずるようにみせて内心自力に止まるなら、藏の中の蒸せ焼けぢや。身の病は臨終より先にはゆかぬ、命終わるとき病も終わるが、心の病は命の内は見えぬけれど、死んで向こうに病の相をあらわすから、よくよく心得たまえ。
《阿弥陀ドン》  筑前の遍照院彗雲師は学者でまた徳望の人、文政六年の正月入寂された。ある時山間の一同行が、同師の本堂に参詣して、御尊前に跪いてつくづく拝礼を遂げていたが、その中大きな声をあげて、阿弥陀どん阿弥陀どんおれがようなものが可愛うて可愛うてたいそう助けたいそうななあ、と。落涙千行万行であった。この有様を御障子の隙から見て居られた師は、殊の外感じ給い、外陣に出て共々に談合されたが、今日は負ふた子に教えられたとて喜ばれたと云う。
《あなたまかせ》  享和元年伊賀三左衛門法名敬信七十三歳の歳暮に「どうなりと風にまかせてまいるべし とてもこの身はあなたまかせに」
《親族がよいように》  與一は湖北磯村の厚信者で生涯無我に法を喜んだが五十一歳で死んだ。病革まって、某、枕元に與市を訪うて、おまえさまも今度はとても全快はなるまいが、行く先の落ち付きはどうじゃ。與一、にっこりとして、私に落ち付きは御座りませぬ。某、落ち付きがのうてどうするぞ。それでもどうすることも出来ませぬが、親様がよいようにして下さるもの。家内の人々枕元によりて、お父さん、御浄土様へ参りたら、私達も迎いに来て下さいね。與一、それは御浄土へ参ってヲヂサンに問うて見ねばわからぬ。 《大量師》  大量師は美濃の人、後江州八幡町順応寺に住職となる、道心もあり学問もあった。いつものお話に、他力の御法を聞く心得は、親様と云うことを忘るると益がない。嘆きに沈んで広大不思議の御助けを聞き洩らすことになる。「もろともに語り合わさん法の友、機のつたなさと法のとうとさ」

○我等はこの世を夢と知っても、この心が夢と云うことを知らぬ。聞いて堅めにかかるから、御喚声が聞こえて下さらぬ。世は夢なれど、求める心は本性と思うのが誤りである。

○このままとは悪心だけのこと、信心ばかりは本真物にならねばならぬと思うが、よくよく聞けば本真物とて何があろう。このうそいつわりのゴマノハイぞと聞き開かれたら一心帰命の外はない。今曰く。これについて思い出すは、秀存師の、「我心は虚仮雑毒なれば、何時にぎってみてもにせものなり。そのうそがうそと知られた一念が弥陀の利他真実に助けられた真実の一念なり」。又、龍温師の「子供が泥鰌をつかむに、こそこそ泥鰌ぢやとつかむと泥じゃ。今度は確かにつかんだそうなと思うとやはり泥じゃ。みなみなが今度こそと押えたものは邪見?慢じゃ。何返握りてもうそばかり」との御示しである。

○我仏恩を知る身となったと思うが早や我機を見失うたのじゃ。その本心をおして見ると更にその実がない。たまにはその心が起こったのは全く御加えの仏智である。その下にあるのは固有の迷心じゃ。「我が心をみなとりかえて御助けにてはなく候。仏智を加え候うて凡心を繕いて御助け候」。古歌に「この機をば地獄なりとてとりすてて 御助けの機はいづくにかある」

○「自力の願生心が他力信心の接木台の如し。遂にそれをすてて他力をたのむ信を得るなり」とある香樹院師のお言をひかれて、同師のお手帳の中に、世人の公事をするのに、年月かかる中に訴人が却って受け手となることがある。右と同じ訳で、実に大悲に徹したお言である。その求め心は御回向かと云うに、御回向は帰命の一心である。求め心は宿善力で、それが台木である。これが願心じゃ。願心おこさせて往生の因を接いで下さるる。台は願心、木は満願の大悲である。聞き得て振りかえっててみると、台木からが弥陀の宿縁である。よって蓮如上人は、「宿善ありがたし」と仰せられた。始終丸々の他力仕立てである。

○同師自督帖に、盲人の道を失うときは、ただ連れて行ってくれる人を求めるより外なし。何ぞ目を開くことを求めん。然るに、父の迎いを得て、この手にすがれと聞きたる時喜び々々縋るなり。その縋る心は眼を開くに非ず、やはり暗いのなり。暗いながら我が家に連れられて行くことが明らかになるばかり。我等法を聞きて明らかにならんとかかるは盲人の明を求むるが如し。ただたのみさきを求むべきこそ他力の聞きようなり。

○六字の仰せの聞こえぬわけに二つあり。一は独り立ちしてゆく心ゆえたのめの仰せにこまるなり。連れてゆく人をただ道を教えてくれる人と思う。聞こえてみれば、わからぬながら連れられてゆくことを喜ぶなり。二は眼をあけて行く心ゆえ喜びたのむ心なし。眼病と生盲と心得ちがいしているゆえなり。今は生盲の先の暗いながら引かれてゆくことを喜ぶなり、と。今曰く。先徳の御歌に、「知識より迷いのやみに手をひかれ、今にかがやく花にこそすめ」と。盲目のなり暗いなりで連れてゆき、さとりの眼は極楽の花のうてなであけてやるぞとの仰せか。

○同『御手帳』の中に、南浜のかる女、老耄して我が子さえ忘れていたが、予、念善寺へ参った時人に連れられて予に逢いに来たから、予云く、我を知ってるか。かる女曰く、知らいでかいな順応寺様じゃ。逢いたかったで来ました。又曰く。もうちかかろうねい。予曰く。今夜も知れぬぞ。女曰く。うれしいねい。これが聞きたかった、と。予の側にいたみつ女に、おまえさんお供して来てくれたのか、この方を大事に御世話して下されねい、と云うて去った。

○弥陀法は機と法とに二つの実がある。実に死ぬと、実に活きるとで、一往ではわからぬことじゃ。あの人は何日に死んで葬ったと云う。それが又実に活きたと云わばわからぬ。少しでも息があって活き上がったと云うはわかる。冷えたが活きたと云わばわからぬ。今弥陀の本願は、まことに死んで冷えきったものを活かし給うゆえ智慧光仏と云う。諸仏みな不思議不思議と讃嘆し給い、然も例のないこと故、六方の証誠があるのじゃ。十方諸仏の母が北枕にした兒を活き上がらせ給うゆえ不可思議光と名づける。実に極難信の法とは六ヶ敷いと云うことでない。不思議のこと故希有難信である。「あいがたき法とはしれどこの法を 極難信としるはまれなり」「おもうてもみる人もなし御仏の 御舌の証は何ゆえぞとも」
◎死にたればこそ 『沙石集』に「癲狂人川へ流れ、州崎に推しあげられ、独り言に、死にたればこそ活きたれ、活きたらば死なましと云う。河深く流れ疾し。活きたらば沈みて死なん。息絶えたればこそ浮かぶことゆえ右申したるなり」と。今曰く。とかく死にきらずして活くるつもり。堕ちきらずして助かる了見しておるが誤りで、当流は助かりそうな機は助からぬ機、助からぬ機が助かる機じゃ。《伊賀三左衛門の手控から》(一)

○肩衣かけて数珠持って、御真影様の御前に殊勝らしく称名を喜ぶ姿が地獄じゃと、御講師様は仰せられた。これは妻子財宝をすて、年久しく国へ帰らず、粉骨砕身の御取持を申し上げる我が心を頼みにするかと御案じあらせられての御叱りかと聴聞いただかれ候。御報謝勤める己が心を頼みにするなら鎮西の我が心を実にしてかかる安心ゆえ、当流では雑行じゃと嫌い給う。無始己来二十五有生の間、善いものじゃ々々と思うて、我が心をあてにして迷うたのじゃと仰せらるると。今曰く。香樹院講師が何国の誰と云う歴各が、大概が鎮西の風下じゃと仰せらるるはここの処か。

○『同』、法義相続の時は、如来聖人様が目の前に御座らせらるる思いで語りもし聞きもするのじゃ。云う者も手前に云うて手前の心へ聞くのじゃ。如来聖人樣が目の前に御同座の心で語るなり又聞くのである。口拍子で出合い言に云うは恐れ入ったことである大切な事である。

○覚えたを筆にあらわすが信心とは申し難いと、かねて御講師様から御叱りに預かってはおれど、かかる地獄必定の徒ら者を、この機のままで御助けに預かることの嬉しさに、善きにつけ、悪しきにつけ、発る煩悩を助縁として、ただ南無阿弥陀仏と喜び申し候外はなんにも存じ申さず候。併し誤りないと思う上にばかり誤りはあるものじゃと仰せ下され候えば、何卒これは此の世にうき身をながらえ候ううちは、御慈悲をもって御直しのほどひとえに願い上げたてまつり候。  「はずかしや筆にあらわす領解書、かり、にせ、うそのこころのみにて」(敬信七十四歳)。某徳者右に同意して、「見てゆかん我も同じき法の道、かりにせ、うそのこの身ながらで」

○『同手控』の中に、江州駒月吉左衛門と云う同行一文字知らず、一反歩持ちたる山を売り五帖一部そらに覚えて喜ばれたり。今曰く此手控は昔山形県の佐藤庄右衛門が、京に行く都度三左衛門と御法義の上から懇意になって、寛政十一年頃、三左衛門を山形地方へ屈請して処々で会合した時のもので、その佐藤庄右衛門の後裔に当たる人で、両三年前死去された佐藤氏が、年々山形県から私の寺へ聞法の為来て居られた時携え来られしもので、又此手控を私の寺で聞いていた同行の中に、駒月村吉左衛門の子孫に当たる吉藏も来合わしていたことは、不可思議の因縁であったことを今思い出す。
《御恩思えば》  湖東下田村に弁治と云う篤信の同行があった。その妻は至っての不法義者であったが、ある時弁治は、一寸とも参らぬおまへも地獄行き、日々参るわしも地獄行きと云うた。妻の曰く、参らぬ私も同じ地獄行きならなぜにその様に毎日参らんすぞへ。弁治、それでも御恩思えば参らずにはおられぬものと。
《独りごと》  豊後の妙喜はどのような難儀に出逢うても、仏恩じゃ々々と独り言を云うていた。それはなぜかと問うと、我今すでに死ぬべき処を免れさせて下されたは全く仏恩である。又転重軽受の御利益であると、いよいよ御恩を喜ばれたと云う。今曰く。古歌の「うきことのかさなる身こそうれしけそれ、さらではいかで弥陀をたのまん」の下の句を、事の起こる度に独り言せよと古い志の人は申された。又御恩が知れねば五劫永劫々々と独り言せよと。  ある人曰く。言の失が腹えまわると云うことがあるぞ。蓮如上人は「宿善めでたしと云うはわろし」。又「御文がと云うはわろし」と、仰せあり。同じ事を申しても、私はか様に々々に御知らせ蒙りました。かく気付かしていただきました。と云うのとはちがうものじゃ。
《腐った弁当》  播州の後藤祐秀師に隨いて、聞法していた越前の女同行があった。皆から越前さん々々と喚ばれていた。ある時、同行が寄り合うて御敬いを勤めた後で御相続をしたが、右の女同行一人だけ、仏前に座って御念仏申しているから、越前さんもこちらへと云えば、私はそんな腐った弁当に用事はありません、と。 今曰く。とかく今迄聞いたことや覚えたことを云いならべて、御化導のあとざらえするのが御法義のように心得るものが多いが、そうではあるまい。「信をとりたるかとらざるかの沙汰幾度もよし」と仰せらるる。是について明信寺師の仰せに、多くの人がこれまで聞きこんだことを信じている。ここは実に大事の処で、聴聞と云うは今日ばかり々々と聞くのじゃ。秀存師の仰せに、昨日までの聴聞に併せるでもなく、明日までながらえているでもない。今ここではじめて聞いて今ここで死ぬる機になって聞くのじゃ。古人曰く。今迄大徳方について聞いたことを皆すてて、今ここで弥陀をたのむのじゃと。
《何時も初》  尾張今村智城師の法語の中に、聞くたびごとにたのみ直すのではないけれど、たのむ一念に往生一定して、その上聞くたびごとにたのみなおす程に味わるるは、聞くたびごとに、一度得た信心の通りが、心の上に浮かむ相をいう。
《立撮即行》  尾張のさる厚信者は人が訪ねて行くと、先ず初めに、御前さんの宅の如來様は坐って御出でか、横になって御出でか、又は立って御出でかと尋ねる。いや私の家の如来様は立って御座らせられると云うと、さあ、それじゃで、その立ってましますのはなぜかと云うことをよくよく知らせてもらわねば相談にならぬと、何時も云われた。  香山院師曰く。このたびは地獄へ堕ちかかる処を抱きあげらるることぞと、日夜余所目をふらるるな。(『香山院語録』)
《香樹院師寸珍法語》
一、如來さまを親と思わぬが第一のあやまりなり。
一、拝まれ給うは大悲の如来、拝む心は大悲のお与え。
一、仏の御相を拝みて、仏のお心を拝まぬ。
一、如来の御食物は念仏三昧なり。
一、昔は命をすてて称えた念仏を、今は坐って称える仕合。
一、念仏の申されぬは後生が大事でないか、信のなき印。
一、口に称名が間断する故罪造る。心に御慈悲を思わぬで邪見になる。
一、唇動かすまで称える念仏も聞いておわします。
一、聴聞は娑婆逗留の手提灯。
一、まことに聞きうる人があらば一人の成仏じゃ。
一、聞くとは何を聞くのじゃ、常に称える念仏の由れ。
一、六字の中に慚愧の徳まで封じ込めての御回向じゃ。
一、御助けの心を聞くより外に信心の得ようはない。
一、御聞かせの法のままが私の領解なり。
一、道楽息子が親に甘えるような聞き様では所詮がない。
一、弥勒に先だちて成仏するが聞くの一字。
一、只今臨終と思わば直ちに聞き得られ仰せが有り難う受けらるる。
一、御助けであろうと思う位は不足なり。
一、助かりたいで助かるのではない。御助けの御念力に助けらるる。
一、たのむものを助けるの一言は不可思議の血のかたまりぞ。
一、たとい百年活きる気でも、今宵も知れぬと取りつめて聞け。
一、焼けのこった家の如く、生き存えての聴聞じゃ。
一、結ばぬ糸で物縫うような聞きようをせぬよう。
一、火事は家を焼く、無常の火は我が身の果報を焼く。
一、乞食が千万両の金ためた心持ちが信得た心。
一、貰える時に貰うてしまわねば必ず後悔するぞ。
一、聞きつつ知りつつ何とも思わぬは知った道に迷うてるのじゃ。
一、必ず々々一往の義を聞いて、これでよいとあきらめぬよう。
一、業障と宿善とが首引きじゃ。
一、無宿善ならなんとしようと驚く心が早や宿善のしるし。
一、それほど罪は造らず家は焼かず人は殺さずなどと云うて地獄へ隨つ。
一、蚊の足あみて梵天に上るよりも聞きがたいこと。
一、善知識の御化導は暗夜の明燈。
一、三部経は釈迦の直説、正信偈和讚は弥陀の直説。
一、和国の教主との給う日本の仏は太子にて在すこと。
一、死ぬる命を向へ延ばしておるゆえ疑いがはれぬ。
一、如來様に疎しいゆえ疑いがはれぬ。
一、おのが胸をあてにしているゆえ疑いがはれぬ。
一、心が御手元へよらぬゆえ疑いがはれぬ。
一、如来の御勅命が我が身一人の為と聞こえぬゆえ疑いがはれぬ。
一、御授けの信心と云うことがわからぬゆえ疑いがはれぬ。
一、たのんで助かると思うから疑いがはれぬ。
一、これまでの御恵を思わず、今初めてたのむように思うゆえ疑いがはれぬ。
一、髪は長くとも命は短かかるべし。疑いはれずは寝ずに思案すべし。
一、如来の御回向と云うことをよくよく聞けば疑いがはれられること。
一、仏を真実の親にさえ思わば疑いの離れらるること。
一、疑いのはれぬが凡夫の自性、はれぬ疑いはらし給うが如来の御慈悲。
一、信心顔の病は臨終におこる。
一、とりつめて見れば死ぬることと地獄におつることとの二つ。
一、離して離されぬ機法一体。助けるも弥陀、憑ませるも弥陀。
一、不思議々々と信じて、嬉や々々と喜ぶが信者の身の上。
一、心は第一のかたきなり。心ほど心のすきにならぬものはない。
一、心ほどしぶとい訳のわからぬものはない。心ほど心迷わすものはない。心ほど我慢強く云うことをきかぬものはない。心ほど口惜しいものはない。
一、身の毛のよだつ怖ろしきものは心也。おさえもかかえもならぬものは心なり。この心は万劫の仇なり。それゆえ仏は己が心にだまさるるなよ、だまさるるなよとのたまう。
一、三悪道々々とのたまうは心の中は三悪道ばかりなるが故なり。
一、心ほど自由にならぬものはない。
一、堕ちる地獄は恐ろしく思えども、その地獄をつくる己の心を知らぬ。
一、三寸の胸から八万由旬の無間の業をこしらえ出す。
一、我がからだに火がついてあると思うて聞かねば仏法は聞かれぬ。
一、恥かいて徳をとれ、人にまけて信をとれ。
一、此の世の苦楽は一滴の水、未来の苦楽は大海の水。
一、危ない命を丈夫に思うは白いものを赤いと見たような間違い。
一、水は石に当たっても戻るが我等が命は一刹那も止まらぬ。
一、何か云うているうちに日が暮るると云うことがあるぞ。
一、不思議々々と云うが今迄存えたが不思議じゃ。
一、浮世を短く思うて念仏すべし。夢幻と思わば執着は薄くなる。
一、真宗のものの守る五常は仏への御手伝い。
一、掟守っても悪人なり。嗜んだら善人と?慢があってはならぬ。
一、「薬ありとて毒好むべからず」とのたまう処が一生涯の身の慎み。
一、学問も悪くすれば薬が毒となり。
一、同生神の所記が閻魔の帳。
一、悪銭身につかず、打てば響くの道理なり。
一、片手仕事の大儲け。
一、世間の賊は首差し出して悪事をする。真宗には地獄に堕ちぬと思うて悪きことをす。一、人道守った上宿業ならば、首に袋かけても恥にならぬ。
一、人は地獄覚悟で悪事をする。我は極楽覚悟で掟を守る。
一、これ食わせたら弥陀をたのもうか、これを着せたら念仏申そうかと、ひだるくもなく、寒くもなくして下された。然るに着ながらお慈悲も喜ばず、食べながら念仏も申さず、不足の思いをなすは、御開山をいじめるのじゃ。
一、聞く本願も不思議なればかかる御法聞く身になりしはなおなお不思議なり。
一、信の上に掟守るが三祇百大劫の代わりじゃ。
一、人の眼は天にかかる。人の耳は壁にありと云うことがあるぞ。
一、野の末山の奥一人働くも仏や神が添い給うと思わば淋し気なし。
一、念仏行者は別に祈らねど、正直の頭に神やどる。
一、妻や子をあて力にして居るようでは、死出の山路は越されぬ。
一、極楽現在。地獄現在。
一、僅かの命に広大な御恩。五尺の身に大きな後生をかかえながら、うっかり暮らされようか。
一、世の中のことは人の後ろから付いて行け。後生は人の後ろにあるなよと仏は仰せらるる。
一、始めをよくするものはあれど、終わりを慎むもの世間のことにも甚だ少なし。
一、一度の恥を二度かくこと。一旦の誤りは無量劫の誤りのこと。
一、銘々極楽参りの顔に墨のつかぬようにせよ。
一、如来さまの御給仕の疎かなるは、法の命を失う道理なり。
一、住持仏とて末世の桧像木像は生身の仏とのたまう。
一、朝夕の御勤め御内仏にて欠かさぬよう。
一、日々の御仏供は成るだけ清らかにすべし。仏器の汚れはおそれあることなればよく心懸けよ。
一、仏壇のほこりは胸の懈怠よりおこる。
一、仏地一尺を払うは三千界を払うにまさる。
一、御内仏へ参るは旅立ちの祝い。
一、我が身の懺悔は畳の上の御旧跡めぐり。
一、白糸の染め易い如く子供の育てかた大事なり。
一、在家の子さえ念仏する。有りがたかろがかるまいが御念仏させ。
一、宿善到れば五つ六つの子でも信は得らるる。
一、甘いもの喰わずとも追付け百味の歓食。見苦しい衣服着るとも未来は応報の妙服。
一、これ喰うて弥陀たのめ、これ着て念仏申せ。
一、坊守は罪の深いも第一、御慈悲の深いも第一。
一、仏法に逢いながら何とも思わぬが早や無間の業。
一、未来墮獄の坊守が罰のあたらぬは次生無間に堕ちる印。
一、女人が正客と知らば己が体を撫て見よ、五劫思惟の涙のかかった私よ。
一、生きながら角のはえぬも不思議。
一、亭主は亭主らしく家内の恩思え。此の世で我が身の為になってくれた女房を鬼の手に渡すな。
一、下女下男のその親もかわいかろうと思いやり、気長く教えて使え。
一、老人が邪見に暮らせば獄卒は門の前まで迎いに来ている。
一、妻子には親しく思い、仏や菩薩を嫌いに思い難儀に思うが業。
一、流転輪廻は独り旅、妻子眷属は追いはぎよ。
一、たとい百千の貪欲は起こすとも、一念の瞋恚を起こすな。
一、無理なる者にはまけて通れ、一旦は悪く云われても心の実は遂にあらわる。
一、人間は口をつつしむが第一の嗜み。
一、法席での世間話は火事場での四方山ばなし。
一、茶飲みばなしの口先で無間の罪つくる。
一、無理云うて育てられたれば、無理云う親に孝行せよ。
一、親に不孝の罪は人千人殺した罪より重い。
一、手足が一人前になると、早や親はいらぬもののように思う。
一、講中や肝煎りは?慢高く、富貴や利口ものは後世の障り。
一、我は人を敬えど人の我を麁略にするは我敬いの足らぬこと。
一、親は子の為に子は親のために隠す、互いに隠すが人間。
一、歯を喰いしばって堪忍するも神仏は見て喜び給う。
一、親は子にあやまり、夫は妻にあやまっても御法義相続せねばならぬ。
一、人に尤もをつけてもろうて地獄に堕ちな。
一、寸ながし尺も短かし世の中は、思い比べは心安楽。
一、免れられぬ宿業なら、たとい体は如何ほど難儀しても、心に難儀はさせぬとある。
一、仏恩師恩につつまれて生涯頭をさげどおしに念仏する外はなし。

《ぬくろ手》  美濃国巻田のぎん女は後生を大切に心懸けた人。江州の綿九と云う人がわざわざ美濃まで訪ねて行って一言聞かして下されと云うと。ただ何にもないじゃ々々々とばかり云う。綿九曰く。折角三十里もある処を尋ねて来たのじゃから、何か一言と強いて乞うてもやはり何も云うてくれぬから、仕方なしに帰ろうとすると。婆曰く。こんどの御浄土参りはぬくろ手じゃげなぞと。
《三州のみつ女》  三州のみつ女は御法義を大切に心懸けていたが、人からお前さんはよう御喜びじゃなあと云わるると、両手を振って、否否、私はそのようなものではない。いつも地獄の釜の上に居りますと。

○さっぱりあかぬさっぱりうそじゃと云う。なぜかと云うと、仏様は一寸とも拝んだことはなし、御念仏さまは大きらい。孫子には死んでくれればといわるる奴じゃでなあ、と。それでもおみつさん、如來さまはどのような奴でも待ってる待ってるの仰せばかりはほんまじゃげなと云うと。ああほんまであるか、そうかなあ、おみつ早う来い々々々、ほんまじゃ々々と仰せらるるとは嬉しいことで御座ります。
《大和の文七》  文七は大和生まれで、後には湖東佐野発願寺の寺僕となって無我に御慈悲を喜んだ。いつも藁でたぶさを結び粗末な衣服を纏うていたが、時々人知れず嬉しい嬉しいと云って小躍りして御念仏していた。

○何時も慚愧して気の毒に思われるほど自己をせめた。御仏前へ拝礼の前後などは敷段や縁先でこつこつと音を立てて此奴めが此奴めがと云うて、且つ戒め且つ省みたと云う。そのため前額が誰が見ても松脂でも付着てあるかのように思われた。

○魚市場などの前を通る時には、恐ろしや々々私も生々世々の間には、この様な店晒になった事もあったろうにと。又新しく普請などしているのを見ると、嗚呼御気の毒々々と云って小走ったと云うことである。

○ある時、発願寺住職の傘供をして葬場へ行った。やがて「本願力に逢いぬれば」の御和讚の御調声があがると、朱傘は忽ち導師の頭を打って倒れた。あまりのありがたさに感極まった文七は、己忘れて合掌したまま、無我に御念仏申しているのであった。

○その当時、附近の種村本行寺の御簾中(西派本山より御入興)が病気にかかられ、かねてより文七の厚信を聞かれてある処から聞法がしたいと所望になった。文七はなかなか応じなかったが、後には仕方なく行くことになった。最初本堂に参詣して御尊前に一々懇ろに拝礼を遂げ、漸く庫裡に入ったが、今度は御内仏の拝礼が亦本堂のように極めて丁寧であった。さて漸くのことで待ちに待たれた病人の側近く座ったが、何時までたっても一言も云わない。ただ落涙しながら微言で御念仏申して居るばかりであった。しかし御内方は文七が先程から謙って厚く喜ばるる殊勝な態度を見聞されて、殊の外満足されたと云うことである。

○文七は小さな蜜柑箱に持仏を御安置して厚く御崇敬をしていた。ある時、文七の留守中に当時十一・二歳位の同寺の新発意が戯れに「文七はうそつきでぢごくゆき」と書きしたためて箱に張り付けて置いた。後帰ってきて之を見つけた文七は、驚くまいことか、声をあげて、いよいよこの偽つきの地獄行きの文七が、お淨土参りの一番客とは、やれやれうれしや有難やと、とめどなく、独り喜んだと云う。

○佐野に金田屋と云う大家があった。文七が独身で年老いていくのを気の毒に思うて、田地の二三反も与え、雇婆も世話しようとすすめたが、文七はやれ恐ろしや々々と辞退して承知しなかった。その後病気に罹ったが、病人を引き受けて世話がしたいとの望み手が互いに争うたと伝えられてある。今曰く。概して世間では老人や病人は人に疎まるるものであるが、文七に限っては年寄るほどいよいよ人に慕われ、病気になっても同行が引き合うなど、信徳ほど不思議なものはない。
《老山居士》  老山居士は山形県の人、真解院秀恩寮司の季子で幼名を俊丸と云うた。深く内外の典籍に通達され、識見徳望兼ね備わった近頃稀なる高徳であった。明治初年頃しばしば官から召されたが勿論応ぜられず。後、五老山に隠れて三十余年は山を下らず。終身独身で専ら自己の出離の大事に心懸けひたすら念仏された。その傍ら格知学舎を設けて道俗の訓育に尽くされた。当時、禅宗真言その他諸宗派の人々が、その感化を受けて真宗に帰したことは実数知れぬ位であったが、跡を眩まし名をつつまれ、師はあまり世間には知られてない。今その法語の二三を抄出する。

○顛倒の妄見に狂わされ、見当違いに涎を流し、煩悩を見方に思う心にては、いかに仏法を聴聞したりとて聞こえよう道理はなきことなり。彼の二河白道の御喩えは見当が順になりたる相なり。見当が順になってみれば、目に見るほどのものは皆恐ろしきものばかりにて娑婆に執着すべき筈もなく、煩悩を味方に思う道理なし。二尊遣喚の勅命がただ嬉しいばかりなり。それに見当が逆になって居るままにて、安心の信心のと沙汰しても、オウムの口真似にて一大事の後生も、そのままながらの御助けも心の底より、尊くいただける道理なし。

○羊頭をかけて狗肉を売るということがある、これは立派な看板を掛けて、粗末なるものを売り出すことをいう。今日浄土真宗の僧分と同行も、念仏成仏是真宗と云う立派な看板かけたる念仏門にありながら、多くはろくろく念仏も申さず後生も願わず。ただ信心安心の理屈ばかり云い立てて、こうじゃ、ああじゃと信心を拵える事にのみ首はめている。是では既に真宗の人ではない、折角御流汲みたる印には、たとい有り難かろうが、有り難たかるまいが、なんでもかでも念仏に懈怠なきようにして聞法に力をつくすべきじゃ。

○仏法聴聞ばかりは何ほど聞いても、これまでと云うことはない、聞けば聞くほど聞かねばならぬようになる。是広大の仏法なるが故じゃ。然るに少しばかりわかるようになると、早や心得顔になる。この心得顔になるものほど仕様のなきものはない。よって御一代聞書には「一向に不信のよし申し候人はよく候」と仰せられた。これ不信はよいではなけれども、信ぜられぬ疑い晴れませぬと云うものなれば、よく聞く機にもなり。善知識の御聞かせもあり。また友同行の意見もあれば、聞き得らるることもあれども、口に安心の通り立派に述べて、紛れまわるものばかりはしかたがない。「疑いの出ぬを晴れたと気ずまして、口に立派にのぶるはかなさ」。

○宿善の厚い者はとかくすなおなもので、善知識の仰せのそのまま計らいなしに御慈悲に振り向くものじゃが、宿善の薄いものは、法にかたより機にかたより、とかく計らいのみで理屈ばかり云うている。又宿善薄いものは、喩えて云うと、夏まけした猫が日なたぼこりするように、好んで雑縁に近づき我と後生の障りを招くようなが多い。

○独り按摩は無用である。手の先や足の先位なら独り手でも揉まれるけれど、肩や背中などは手が届かぬから揉むことは出来ぬ。人にしてもらえば何も訳はない。今もその通りで我が身のことは自分には一向にわからぬものじゃから、我分別は差し置いて人に意見してもらわねばならぬ。

○異安心に付いて信心安心の争いがあるべき道理はない。例えて云うと、水の冷たいのと火の熱いのとに論のないようなわけじゃ。ところが彼方にも此方にも争いのあるのは、凡夫妄情の上に思い浮かべる道理理屈をもって拵えたてる安心じゃから、種々の違い目が出来て争うのじゃ。如何ほど争うてみても水掛論で果てしはない。これみな後生大事の思いもなく、仏法を尊く思う心もなく、ただ世間の我慢名利の心で仏法を取り扱うからである。「名聞と利養が胸をふさぎては、聞けども聞こえぬみのりなりけり」「真実の仏法しらぬしるしには、名利勝他のなぐさみにする」  とかく愚者は愚者ほど我は智者と思い、悪人は悪人ほど我は善人じゃと口には云わぬが臍の下に堅めて置く。その証拠は同行知識にうち明かして示談することは大嫌いである。然るに実の智者善人ほど我は愚痴じゃ。我は悪人じゃと思い、智慧が進み善が盛んになるほどこの思いが益々盛んになるものじゃ、菩薩初発心より勝解と慚愧との心が、等覚無間道の位まで強く相続し給うとある。その勝解とは仏法をむずと信ずる心、慚愧とは愚痴と悪とを深く恥じ入るを云うのである。  真宗は王法仏法真諦俗諦互いに相離れぬ御教えで在すから、例えてみると真諦門は金銭のようで、俗諦門は財布のようである。財布が破れると金銭はみな落ちてしまう。それじゃから金銭が大事なるにつけても財布も大事にせねばならぬ。今もそれで御法義相続肝要なるにつけても、王法仁義を大切に守らねばならぬ。王法仁義が破れては御法義相続がみな廃れてしまう。よって友同行の意見を乞い、王法仁義をかたく守るようにせねばならぬ。
《覚悟なににしよう》  越後柏崎のたの女は蕎麦を商いながら御念仏の絶える暇がなかった程の篤信者であった。世間では念仏そば、念仏そばと呼んだ。その後病気になったが、苦しい中からやはり御称名していた。病が重くて抱き起こしてくれと云うがままに起こしてやると両手を合わす樣子が、どうやら臨終らしく見えたから、夫が耳に口寄せて、婆や未来の覚悟はよいかと。たの女にっこと笑みを含みながら、覚悟なににしよう弥陀にまかせてと、称名もろとも息が絶えた。
《無理ひきで》  湖東鎌掛村せき女は地方で稀な妙好人であった。その臨終に、私は一生涯御化導の裏道ばかりを歩いて教えに順わず逃げまわって居りましたが、今度はとうとう御慈悲の御化導に引きつかまえられ、よぎなく無理びきにひきづられ、仰せ一つで参らせていただきますと。
《聞こえ心地と聞き心地》  雲樹院神興師は南條文雄師の養父である。その法語に曰く。往生の志願満足の思いは、聞こえ心地。その下から法を求むる思いのあるは聞き心地なり。いつまでも聞きたい々々と云うは一大事を忘れぬ故、且つ法味を愛楽するゆえに、所謂「我すきこのむことは知りても々々知りたく聞きたく思うなり」とある処。また水鳥の様は楽なようなれど、足を油断なく働かすごとく、真の上はいよいよ油断なく讃嘆談合すべきが仏法の慧命である。後生大事を忘れねばこそ細々に会合もするのじゃ。御回向の信心には自ずから此聞こえ心地と聞き心地とが具わるなり。
《枢》  ある先徳の随筆の中に、夜に入って戸をしめて安心して寝るは枢一つがあてじゃ。その枢のよく落ちてあるかないかを吟味してみるところが、引きあけてみるとあかる。もう一度ひきしめてあけると又あかる。それを箸などで掻き出すと沢山に出る。充分さらえ出してしめると今度は枢が確かり落ち入ってしゃくってももうあからぬ。斯様に夜中安心して寝らるるは枢一つじゃが、その枢が油断がならぬから折々は吟味して用心せねばならぬ。我心得たと思い、信一つをあてに落ち付いて仕舞うてはならぬ。その信心を生涯よくよく吟味して往生を期すべし。

○同曰く。精進増の機より他の懈怠増の人を見て、それに比べて己が勤めよしと思う一念あらば、即ち是大?慢と云うもので、仏祖の冥見には叶わぬと思うべし。          《香樹院師厳訓》  香樹院師の随筆の中に、第一心得べきは、後生に少し志も出来、少し振り向くと、僧分から安心まえを教えて覚えさせ、もう何時死んでも案じはないほどにと往生の印可をなす。それゆへ喜んで早や往生は定まりたり。この上は報謝は他力より勤めさせて下さるるからは、此方から励ませば却って自力になると思い、後には称えもせず参りもせず、唯こういうものが浄土参りと心得るばかりにて、喜びもせずに居る信者が多い。もとが後生が大事ではない故に、唯死ぬ時の用心に聞いておこうというような聞き心の処へ、こうさえ思うて居れば一念の御約束で済んだとばかり心得て、嬉しくもなければ有り難くも思われぬ、それゆえ地獄ならで行方のない私を、たのむ一念の御たすけと疑いはれて喜んでをりますると云うた安心と、あとの報謝相続が木に竹接いだような不釣り合いなことになる。それを僧分や物知ったものはかざりたてて、ここかしこの御言葉を無理にまげて、信心をこしらえなす証文とし、剰え他の真実に喜ぶ報恩の称名起行作業までも、自力策励の執心などとおとしめあざけり、我も惑い人をも惑わすは無間の大罪にて、最も恐ろしきことなり。よくよく心得べし。
《香山院師訓戒》  香山院師の随筆の中に曰く。何れの仏法というも迷悟因果の道理を教うるが根本なるに、真宗では愚かなものに、ただ勝れたるところばかり教ゆるゆえ邪見になりやすきなり。勝れたる願力を杖につき、悪をゆるし罪を恐れぬようになるから、未来をなにとも思わぬようになり、報謝の勤まらぬのも掟の守れぬのも、これぞ本願の正機なりとし、邪見をつのり、他の励むのを自力なりと侮るようになる、とかく後生一大事ということを云えば、回り遠いように思い、直に信ずるたのむの訳が聞きたいという人が多い。それでは實の信は得られぬ、急がば廻れと云うことがある、急ぐ時近道を行くとまごつく、本街道を行く方が間違いのう、早く思う処へ行ける。
《等覚寺正遵師》 等覚寺松野正遵師は河内の生まれ。後京都仏光寺内に住まれた仏光寺派の学頭で、而も世に稀な道心の深い高僧であったが、少しも夫れを外形へ現されなかった為一向知られていない。

○ある時京都へ出店している江州の某富豪の呉服店主人が、私には四五の分家もありますが今度貴師の御門徒にして戴きたいと願い出た。師曰く。夫れは思いもよらぬことじゃ。自分には学も徳もないのに人の檀那寺にならうなどとは思わぬから平にお断りすると。

○師の法語に、機と法との有りのままが見えるばかりじゃ。すてて取ろうとかかるは計らいじゃ。

○真っ暗で明かりを求める思いで法を聞くのじゃ。闇中なら燈光を求めるより外はない。斯様に心を止め、骨折って聞くと、段々向こうから明かりが入って下さるるから、ちっとずつわかるようになる。

○悪いものは悪いと知って居れど、とかく善いものにだまされる。ああなろうこうなろうの定散心雑る故、出離其期なしじゃ。眞宗は、まるで善いのがまるで悪い。

○師の『正信偈講義』の中に自督安心の枢要を述べて、生死即涅槃とは無碍の事なりとあって、信心開発の人は自ずから無碍の信相がある。機に向えば無有出離之縁と信じ。法に向かえば決定往生と信ずる。そのままが一生相続するのなり。若し信の上は決定往生の思いばかりにて、無有出離之縁の心なしと云うならば、初一念は二種深信にて、後念は一種深信と云うことになる。そのまま一生相続するのなり。是につき、古書に、善知識説法の時、この中に一人決定往生の人がある何人ぞと申された時、一人進み出て私で御座ります、と。知識又曰く。此の中に一人地獄に堕ちる者あり、何人ぞと。然るところ前に出でたる人又進み出で、私で御座ります、と。是が正しく二種深信相続の相で、決定往生の信相が無有出離之縁の信相を妨げないのである。是が無碍の相である。信の上にはその相があらわれて、無有出離之縁の故に墮獄の人である。決定往生なるが故に住正定聚である、一文不知の徒ら者まで、一生涯二種相続して知らず知らず生死即涅槃の無碍の相を顕すのじゃ、そこを「証知生死即涅槃」と仰せられた。別に心を用いざれど、名号の仏因日夜にあらわれて、我が身は必定地獄の罪人なり。又決定往生なりと、助くる助くるの勅命を聞き、日々喜びいるばかりである。今曰く、世間で往々二種深信二種深信と云いながら一種深信になっているのがある。是につき『秀存語録』(一五三)に、問いて云く、機の深信は信後に通ずるや。答、生涯通ずるは先輩已来の正義とみえたり。『叢林集』五八左云く、西岸上の得脱までは貪瞋つねにおこる、されば蓮台の上までは無有出離之縁の凡夫なるべし。此土入聖して至る浄土にはあらざるなり。されば二種信心は、一もやむことあるべからずと。先徳曰く。南無は死なぬ法。阿弥陀仏は迷わぬ法。不思議の仏智で助けるとある仰せが聞こえた時、無上大利の功徳を与え給うゆえ、知らず知らず煩悩即菩提、生死即涅槃の道理にかなう事になると。
《遊林師》  遊林師は江州林村の人、如説院慧劔講師の社中にて学問もあり道徳もあった。師曰く。一念では我が身は悪しき徒らもの等と勧めるけれど、信後相続に至っても、此の心を絶やさぬように相続すべきことを教える人が少ないのは、嘆かわしいことである。

○師曰く、念仏は申しても申さずとも、信心一つで往生するという気ならば、十九の願にもおさめられず。二十の願にもおさめられずして、仏法の中には入れられぬ邪見と云うものにおちているのじゃ。大量師曰く。念仏法門なるを知らず、念仏申さずに信心沙汰をするは、仏像なしに開眼を求むるようじゃ。等覚寺師曰く、念仏申せ念仏申さねば宿善が開けぬ。聞いて安心するのではない。安心をきくのじゃと。
《默妄》  圓乘師曰く、律の中に默妄と云うことがある、物云わぬうそつきじゃ。今も念仏申すような顔つきで、申さずにいたら仏をだますのじゃ。又惠然師曰く、高声にいかめしく称えあげるは人目に見ゆる外相の色か、但し心に思わば默誦の風情しからんか、地体は声に出さんと思うべきなりと。
《縄のように相続する》  美濃のくめ子曰く。私の心は明けても暮れても地獄へ引きこむことにかかりはてたるを、阿弥陀様の仰せには、おくめその心には任すな、我に任せよ、其の心は地獄へ行かばやれ、其方は我が助けるほどにと仰せらるるゆへ、はいはいと御うけ申して御称名喜ばせてもらいます。又日々の相続は我が身のあさましさをみては御本願の尊さを思い、御本願の尊さを仰ぎては我が身の浅ましさを思い、縄のように御慈悲に纏いつかれ、我機に法が離れて下されぬから、命終わるまで縄のように相続させてもらうと。
《長松の手控から》  長松の信者であったことは今更云うまでもないが、初め長松は三州牛久保村から藤川宿まで馬をひいて行ったが、後生が頻りに苦になって、その宿に馬を繋ぎ置いたまま京都へ行って、水井吉郎右衛門に逢うて生涯二人が香月院講師に常隨して聞法に心をつくした篤信者であった。越前の藏は三州の鍵でないとあからぬとの云い伝えは、越前の吉郎右衛門が三州の長松に逢わぬと腹一杯の相談をしなかったことを云うたのであろう。

○長松の手控えの中に、御冥見を知らず、手前の覚えたにまかせて人に語るが荒涼の讃嘆と御誡め下されますと。

○女房ほど親しいものはないけれど、夫の心をうちだしたら女房も愛想つかして出てゆく。夫も亦そうじゃ。ありのままは打ち出されぬ。阿弥陀様にはありだけが打ち出される。如來様は敵になればなるほど、己が助けねば仕様がない、おれが助けるほどにと、背けばそむくほど助けねばならぬ々々とあるが若不生者の御誓いである。これが真実の親様じゃ。それ故我心中が打ち出されて実に々々おしたしい。

○助けてやるぞ々々の御喚声は瀧の水の落つるように、十劫の昔から少しのきれまもなく喚び聞かして下さるるが、それを私が自分の手で耳を塞いでいたようなもの、今こそいよいよ助けて下さるると聞こえた処が、あなたの御念力でお喚び声が通って下されたのじゃ。ところがたしかに助けてやるの御声が聞こえぬように思わるる時もあれど、それは煩悩の強い風のわざでたしかに聞こえぬのじゃ。

○「信心の人におとらじと疑心自力の行者も、如来大悲の恩をしり称名念仏はげむべし」と、他宗の二万三万称えてござる衆をみるときは、ありゃ自力念仏じゃとさげしめるような浅ましい勿体ない心の起こるやつなれど、当流の安心決定したるものは、その衆よりはまだまだよけいに御念仏申さにやならぬ。こちらがその衆の御念仏申す手本にならねばならぬ。そこで信心の念仏申す人におとらじと、自力の行者も称名念仏はげむべしとあれば、報謝の称名はげみ称えねばならぬ。
《煩悩の多い御蔭》  伊勢のさと女は貧しい中からいつも御念仏していた。その隣家の金持ちの老婆、自分の後生が心にかからぬより、おさとさんは、なぜそのように喜ばれるかと。さと女曰く。私はおさへさんとはちごうて、それはそれは煩悩が多いからなあ。朝から晩まで子や孫や家業のために罪の造りづめであるから、この様なものの為に、永々大悲の親様に御心配かけ奉ったが、かような浅ましい奴をお目当てに御助け下さるるのじゃと思えば喜ばずには居られませぬと。香樹院師の曰く。喰わずに念仏も申されねど、貧乏は富貴より願いやすい。又古人の曰く。此の世の御気の毒は未来の御気の薬。又、此の世にて運をひらくは後世のすてものと。
《何にも知らぬ》  越後のきし女、はるばる讃岐の庄松を訪ねて行ったところが、庄松はもはや死んだ後であったから、止むを得ず庄松の同行でよし女というのを訪ねて、一言聞かしてくだされと云うた。よし女はただ、私はなんにも知りませぬ々々々々々と云いながら、何処へやら入ってしもうた。きし女が強いてたのむと、妾 は知らぬ々々、ただ知らせてもらうばかりでございます、とてお念仏して居たと。  右よし女の持言に「貧乏苦になる苦にせにゃならぬ、後生大事のたねもろた」。今曰く。古徳の言に、信じぶりのないところにまことの信がある。又、念仏者がらぬように念仏申せと。

○香樹院法話抄
□精進に求めよ。  如来の大悲を受けるには、必ず我が思いを一すじに如来へ向かわねばならぬ。弓や鉄砲の堅い物は石でも金でもうち割る力あれども、却って幕や暖簾は射ぬかれぬ。何を聞いてもうかうかとそれなりに思うものは、いつまでも御教化の弓や鉄砲もこれをうちぬくことはならぬ。
□依身より依処。  火の中に炭を置き、おこすまじ々々々と思えども、火は自ずからおこりつく。仏になるれば仏の心がうつる、貧人と一つになれば卑しき心になり、富貴の者と一つに居れば我が身は宝はなくとも富貴の心となる。同行善知識に親近すれば得まじ得まじと思うとも、大悲の念力から信心の火はおこりつく。
□得たと思うは得ぬなり。  蓮如上人の仰せにいわく。「心得たと思うは心得ぬなり(みな人のまことの信はさらになしものしりがおの風情のみにて)。心得ぬと思うは心得たるなり(信のうえにもいよいよ法を求む)。弥陀のお助けあるべきことのとうとさよと思うが心得たるなり。少しも心得たと思うことはあるまじきなりと仰せられ候」。みなが信心は得たり顔して、これから御報謝と我が往生をのけ物にしておいて、お取り持ち々々々と報謝顔ですましておるものをひきおさえて、その方どもは何と思うと打ち驚かしての御化導じゃ。  又曰く。かならず信心得た上からは人目に立つようにするな。大信心はとかく人目に出したがる故、善知識は内心に深くたくわえよと仰せらるる。

香山院師曰く。御助けに間違いないとおしつけて置く人が多い。胸に押しつけ気味のあるのは紛れものじゃ。  又曰く。凡夫の殊勝ぶりするをきらい給うに二つあり。一つは自力の功をあて力にすることを嫌う。?慢の心を嫌う。凡夫が出家すると、直ぐにその心がおこる。世間でも尼根性と云うは、おれは女でも、出家じゃという?慢があるものゆえに、きらわるる。
□一文不知の尼入道。  ここに宿善到来の尼入道。幸いにわが分別の智慧はなし。無手 と本願を信ずれば、如来の智慧を賜りて往生一定の身となる。又、白糸の染め易き如く、これまで仏とも法とも知らぬものが却って往生の正機となること、種々染色つけて難儀している中に、快きものは一文不知の尼入道のまこと聞き得たる信心、諸仏ほめたもう。  又曰く。羨ましきかなや、一文不知の尼入道、なにわのよしあしも知らずして仏の御心にかない、常に念仏する身こそ、そぞろにありがたく一入大慈大悲の至らせたまうらんと思いはんべれ。
□往生の定不定。  法然上人の仰せに「往生は不定と思えば不定なり。決定と思えばやがて決定なり」と。これは我が心を振りむけて見れば、いかに仏の大悲強くましますとも往生は不定に思わるるなり。決定と思えばやがて決定するなりとは、おのが心に大悲の御心が聞こえてみれば、若不生者不取正覚の御受合い、手間も暇もいらぬ。聞きうる一念に往生は一定する。明信老人の曰く。この法然上人の御示しは、いつまでも参られようか参られまいか、こんなことでは往生なるまいかと、不定に思わば果てしがないほどに、そう思う心をうちやめて、かかるものを御助けの大願業力ぞと、いよいよ如来の願力の御不思議が耳へ聞こえ、ーーー片時もいそいで願力の船に乗るより外はない。
□船のしらべはいらぬ。  我が胸をよくして仏に向かう。よくなりてからたのもうと思うては百年たってもたのまれぬ。あなたの願力を聞き開きたい、御慈悲の御心を聞きつけたいと、聞こえるまで聞くばかり。その御慈悲というが即ち南無阿弥陀仏の由 じゃ。  又曰く。後生大事でないから信が得られぬとて、いかほど気を凝らし揉んでも何の所詮はない。また何時まで機をせめても大事にはなられぬ。後生大事にせよと仰せらるるは、我が胸かきまわし、おだてかえすことではない。仕方のない未来、ただ御教化御慈悲にまっすぐにむかうより外はない。月夜に水を両手にそっくり汲み上げてみれば、天上の月が手の中へ影を宿してまてしばしなしに宿りたもう。我々の胸の中へ御慈悲の影を宿して下さるるは、ただ御慈悲にすなおに向かうばかりなり。この方からなるのではない。知らぬ間に薫じつき香りついて下さるるのなり。  香山師曰く。今日このままながらこの心に相手にならずに、あなたの大悲心一つを聞きつけたいと振りむく人は甚だもって少ない。  明信寺曰く。とかく聞くに心をつくさず、己が心に心をつくして難儀して居る人ばかりなり。  等覚寺師曰く。機はそのままにして法をよく聞くのじゃ。とかく機が邪魔をする。入り用の機は如来さまからお与えじゃ。
□往生の障りとならぬ  喜べぬと苦にする機あり。これは疑いとは大いなる別にて往生の障りとなるべからず。これは喜べば喜ぶほどいよいよ足らぬ足らぬと苦になる筈なり。御恩の大いなることが知らるるゆえなり。これは死ぬるまでありとしるべし。喩えば、いのち助けてもろうた恩にはかえらるるものなきが如し。  慧空講師曰く。歓喜の心少なきを嘆くは信心の色なり。喜びても喜び足らぬと思えばこそ信心は相続する、この心のなからんは多くは安堵懈慢の人なり。安きにいて危うきを忘るるなかれ。
□急ぎ求めよ  仏法を願い求むる心はなきにあらねども、いつまでもただのびのびにしておく、なるほどいつ宿善の到るやは知らぬけれども何分急がねばならぬ。たとえば大罪人ありて咎をうけ、遂に首も落つるというときに、この山の中に斯様な石があり、これを尋ね出してくるならば、それが遅ければ首を取ると云わるるなら何と思うぞ。是非とも尋ね出すであろう。そのとき早く早くと思う心より外にはなきことなり。今我等はこの信心を得れば三悪道を免がるる、この信心の宝を取らぬうちにいのち終わらば悪道に沈む。   □信機が先に立つ  同じ三百の銭をくれるにも、金持ちにくれると有難いと思わずに却って腹立てる。貧者にくれると嬉しがる。又乞食にくれると日本に二人ともない慈悲な人と思う。これ同じ三百文の銭なれども、貰う機前に違いがある。そこで信機が先に立つとはここじゃ。秀存曰く。人多く法を聞けば衆生の方に助かる力が出来て往生すると思えどもしからず。法を聞けば衆生の方に助かる力のなき処が知れるなり。故に弥陀をたのまねばならぬようになってくるなり。(『秀存語録』)  香山院師曰く。自性が見ゆれば見ゆるほど、ふかくたのまれ喜ばるるがまことの信じゃ。(『香山院語録』)  悦成曰く。人みな罪はあまり苦にせぬが、よくなられぬが苦になる。新たに罪造ることを何とも思わぬ。又曰く、罪の見のこしが悪しきなり、機の疑いとなる。知道師曰く。機の自性がよく知れてないと、後に法が崩れる。

○栗 尾 太 助  京都の栗尾太助は十七・八歳の頃から出離の大事に心づき、生涯独身で聞法に力の限りを尽くした好人であった。初めに香樹院師に従って凡そ十年、師御逝去の後は明信寺師に従って八九年間、明信寺師物故されてからは約三十年間毎朝等覚老師を訪ねて聞法した。若い頃三井家に奉公していた関係から、生涯同家の御仏飯を貰うていた。又少々は按摩などもした様であった。後病にかかり堀川の二畳敷の借家で死んだ。享年八十四歳。
□御袖の下から  時々の話に、僧でも俗でも後生大事と踏み込んでかかると、仏祖が御袖の下から隠して物をくださるるから難儀はせぬと、香樹院樣が仰せ下されたが、今私の身に覚えて思いあたります、とて折々感泣していた。
□聞くが上にもよく聞け  太助曰く、明信寺様が、そういつまでも聞いているのが誉めたことでもあるまいけれども、永う聞かぬと、ろくな聴聞は出来ぬと仰せられた。
□かひばなし  又同師から、この心はかひばなしでよく聞くのじゃ。聞くばかり貰うばかりじゃ。梨や柿の花は沢山つくけれど、末まで無難に残るは少ないものじゃ。願いおおせ、聞きおおせるものが少ないとの仰せであった。
□助ける商売  太助曰く、後生は仲々わかりかねる、しかし私は地獄へ堕つるが商売。阿弥陀様は助けるが商売じゃげなで、危ないことはない。
□ただの御助け  ある時某に伝言 して、だんだんただと云うことを知らして貰います。今曰く。ただと云うても、頭からただただと邪見に云うているのとは大違い。七十年も八十年も命がけに求め尽くしたあげく、助からぬ身が願力の不思議一つで助かることと知れた味わいか。古人が「ただただとただのただではゆかれまい、よくよくきけばただのただなり」と。

○香樹院師随筆より
□喜びの数々
一、命存 らへし喜び。
二、仏法に逢う喜び。
三、この本願に御縁厚き喜び。
四、聞く機になりし喜び。
五、御聞かせにあづかる喜び。
六、思いつづけてみれば限りなき喜び。
□浄土真宗のあやまり三
一、後生を心易く助かるように思う。
二、悪苦しからずと思う。
三、信得がたきと聞きてなかなか得られぬと思う。
□聴聞に就ての五重
一重、無名無実に聞く、(ただ大様に聞く)
二重、一往の義を聞きて。
三重、聴聞を心に入れて申さんと思う人はあり、信をとらんとする人なし。
四重、法の不思議を聞く。
五重、一つことを聞きて、いつもめづらしくはじめたるように信の上はあるべきなり。 □寺に仏法なき所由
僧分、家内を勧めざる三義
① 自分の未来、明らかならざる故に
② 家内、自身の失を知るが故に
③ 仏祖の御冥罰を蒙るが故に
家内、住持の勧めを請けざるの三義
① 住持の身持を軽蔑するが故に
② 実に求めて仏法を聴かざるが故に
③ 仏祖の冥罰を蒙るが故に
□二つの関
一、業障の関。無始以来の業障の関に障えられて、これほどの一大事が大事に思われぬ。この関を善知識の御化導で破って下されて、後生の道に踏み出さしてもらうこと。
二、疑惑の関。信心を障える疑惑の関なり。この関はまことに聞く心になれば、如来の方よりこの疑惑を晴らさせて下さるるなり。信心は疑蓋無雑の他力の御回向なり。この信心を得ねば又流転輪廻の身となるなり。

○三左衛門の手控から (二)
□地獄一定  信うる人は如来をたのみ奉るゆえ、助からぬといえばいうほど慥かに思うて喜ぶものじゃ。機は地獄一定と信じて、ただ法の方ばかりをたのみ居るゆえ、そこもとの安心は地獄じゃと云わるるとも、少しもかまわず、云いつぶさるるほどいよいよ法の方計りを仰いで喜ぶべし。  又曰く、私は極楽へ参ると思うていますと云う。それは自力迷心じゃ。信者の思いぶりと云うは、間違いもなく、私、一人は地獄へ堕つるに違いないと思い暮らすゆえ、如来様のただの御助けが相応する。
□信者の平生  破れ三業のいささかなるを、鼻にかけるゆえ雑毒の善とて迷いの業となる、みなよいと思うは自力なり。他力の人は我が身はどうしても地獄行とより外に思われぬが信者の平生の心得なり。古人の曰く、余程の信者でないと地獄へ堕ちきれんげな。
□愛欲名利  狐が殺さるると知りながら油鼠をくるくる廻わりて立ち帰り々々々遂には縄にかかって命を捕るるように、後生大事と知りながら御法縁に遠ざかり、愛欲名利の油鼠にだまされて、元の三途へ立ち帰る身の浅ましさ、よくよく我が身の上を省みて、ただ御助けの如来樣の御慈悲をいただき、浄土へ参ることを思い出して、うれしやうれしや南無阿弥陀仏。
□留守見舞  『同手控』に「御留守でも南無阿弥陀仏は御内にか、御座りますやら口に出にけり」。又山形の某へ形見とて、「誓願の不思議に今は助けられ、おされひかれて申す念仏」

○微 細 に 聞 け  阿部恵行師は京都の等観寺で恵水師の父である。師曰く、機を織るには、竪糸一筋位はどうでもよいと、切れたなりに織って行くと、最後には梭が前えも後ろへも動かぬ事になると。古徳曰く。安心は微細に聴聞して心易く信ずるがよい。初めから心易うおちついているは大様である。刀剣等でも仕上げた上は同じように見えても鍛え足らぬのは壊れやすい。今もそうで、微細に、難しく、骨折って聴聞し、幾度も談合するようにありたい。とかく法にあらめなるが悪い。信心をみがけと仰せらるる、機受の相を微細に鍛えるがよい。心易く信じて、初めから荒々しく心易う聞いて落ちついているは、崩れやすい道理である。

○聞 き つ く せ  湖東下田のその女は人から心配家と云われた位後生に骨折った女であった。幼な遊びに、友まち女から砂をかけられて両眼とも失うたが、法に入ってからは、まち女がこの眼を潰してくれたればこそと却って喜びの種にしていた。ある時、今度は御飯を焚くようじゃ。甘い飯にするには、初めから搗いて搗いてつきぬき、又浙して浙してかしぬき、焚いて焚いてたきぬくのじゃ。また煮えたようでもよううましておかねばならぬ。同じ飯と云うても段々じゃ。今も参って参って参りぬき、称えて称えて称えぬき、聞いて聞いて聞きぬくのじゃ。そして別のことを聞くのじゃない。同じことを百遍も二百遍もよくよく聞くのじゃ。  香樹院師の仰せに、今の世は説いて説いて説きつくし、聞いて聞いて聞きつくすものがないと。  某師曰く。この頃は何国へ行ってもとんと後生に骨を折る人が少のうなったようじゃと。

○名 体 不 二  理綱院惠琳講師の手記録に曰く。寛政四年五月二十八日、越後国新浦村農某頓死し、翌蘇生す。其の冥中を語る中に、念仏申さんとすれど、声出でず。不思議なるかな南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と二声の念仏を聞くと思えば我家の本尊なり(名体不二)。我にすがれ我にすがれとのたまうかと覚えて、忽ち僧形となりて仰せらるるようは(教え手と助け手とが一つなり)、娑婆に返すほどに念仏してこの処へくることなかれ、と。又この法を聞くとも人の後にあることなかれ(念仏しつつよく聞け)と、覚えて蘇りしも、苦しさにて云うこと能わず。日を経て語る。予、当時三条にありたれば、直ちにその蘇生の人に逢いて聞く云々。

○絵像より名号  長生院智現師曰く。淨土宗は来迎を祈るのであるから名号より絵像、絵像よりは木像である。当流は聞其名号信心歓喜、六字の由 を聞く外はないから絵像よりは名号である。御安心御勧めの時は名号でなければならぬと云うが御開山の御定め、その安心を得たる上から、報謝の営みは絵像木像を生身の如来も同じ事を心得て、渇仰来迎すべきじゃ。

○極楽へゆく      江州八幡町在に正直な乞食があった。人に頼まれて使い歩きなどをしていた。人が何処へいくぞと問うと、すぐ極楽へと云う。どこへ使いに行くぞと問い直すと、何処そこへと答える。又の時問うと、やはり極楽へと。一蓮院の歌に、「野山にてどこへゆくぞと人問わば 弥陀の浄土へゆくと答えよ」。

○須脇の知道師    美濃須脇の知道師の仰せに、死ぬ気のなれぬぐるみ死なねばならぬと云うことを忘るるなよとの、善知識の御化導じゃ。
□ 自性を知れ  自性がわからぬ。自性がわかるまで骨折ってきけ。自性がわからぬゆえ聞こえたようでまた法が崩れる。ある人曰く。凡夫心の兎の毛の先でついた程でも間にあわぬことを、はっきり知らしてもらうということは、甚だ難しいことである。心の間にあわぬことを知らぬではないけれども、知りようがうとうとしいから、捨てたり拾うたりして領解手間がいるばかりじゃ。
□ 五劫永劫の御手伝いしたか  ある人知道師へ心得顔に領解を述べたれば、師大喝して、その方は五劫の御思案の相談にのったか。永劫の御修行の御手伝いした覚えがあるか。
□我に覚語はない  師の御臨終に際して、御弟子の一人御尋ねして、恐れながら未来の御覚悟は如何。師曰く、おれに何の覚悟もない。何故なれば今度は親様につれていっていただくのじゃから、おれに覚悟はない。

○七地沈空の難    先徳の法語に曰く。かの七地の菩薩には沈空の難とて空理に沈みて無余涅槃に入らんとし給う、これを菩薩の死と名づける。その時十方諸仏が摩頂潅頂と云うて頂きを撫で智水をそそぎ給えば、驚いて目を覚まし八地に進み給う。今我等も初め仏法に入り後生の大事が恐ろしくなると踏み込んで聞くけれど、だんだん安心の筋道がわかってくれば、自ら人にも知られ詞 も用いられ、羨まるるようになると、いつとなく法義が手に入ったように思い、これより外はないと限りをつけ、聴聞の望みもつきて、一念の場に止まってしまうは、仏法の息のきれた、御法義の死人じゃ、菩薩が七地沈空の難にかからせられたようじゃ。それ故善知識の御化導の智水を頂きから注ぎかけて目を覚まさせ御引き立て下さるる。さればと云うて、称えづめ喜びづめにはならぬ。煩悩に隔てられ妄念に障えらるるゆえ、知識同行が恋しくなる。一生御化導の御手にはなれぬよう、友同行の諫めをうけ、引き立ててもらわねばならぬ。

○美濃の圓右衛門    美濃の赤塚圓右衛門は香樹院師に随いて寝食を忘れて聞法した人であった。後大病にかかって京都伏見街道の借家に臥して念仏していた。病重って、今堕ちる堕ちると声をあげて泣く様は実に憐れであった。妹せき女、こんなものをこのままの御助けじゃと云うてすすめても、斯様な軽がるしいことではなと受けつけぬ。せき女この事を香樹院師に御伺い申した。すると師は誰が何と云うても仰せだけは本真じゃ。今堕ちるものを、そのままの御助けじゃと云え。せき女早速その由を伝えると、病人あきれて、そうかそうかおれには今初めての御示しじゃ。初耳じゃ初耳じゃとて非常に喜び、嬉し泣きになき崩れた。国元から早く帰れ早く帰れと駕を持って迎いに来ても、私は御真影様の御膝元で死ぬのじゃとて承知せぬ。せき女仕方なく、又この事を香樹院師に伺い上げた。師曰く、おれが帰れと云うたと伝えよ。病人聞いて仰せには背かれぬとて帰国したが、程なく死んだと云う。香樹院師曰く。まことに案じるものは実に喜ぶと。

○本願は偽でない  伊勢桑名郡深井辺のきの女、病気重って、平生云わぬ小言が出る。ある時は起きていながら起こせと云う。寝ていて寝させよと云う。その子息某曰く。鬼みたような無理をのたもうぞと。病母曰く。お前の眼にも鬼に見えるか、さてはいよいよ本願もうそではない。この鬼婆が今度は御本願のお目当てとは嬉しいことじゃと。

○仰せが領解    湖北田村の浄源寺の先代に大義という住職があった。香樹院師が湖北には本願の箱があるとまで仰せられた高徳であったが、ある人数人の同行一人一人に領解を述べよと云われたる時、同行の一人進み出で、私は斯様々々にと申す、師、それは御教化の口真似じゃと。その次の者進み出で私こそは斯様々々にと云う。師、それも御言葉を覚えたばかりじゃ。かように三人五人申し出でたるが、最後に一人の曰く。私の領解とては、こう聴聞いたしましたの、かように心得ておりますのと、是と申すものは何もありませぬが、仰せが私の領解で御座りますと。浄源寺莞爾 として、そこそこ。  秀存師の曰く。仰せだけで安心するのじゃ。仰せを聞いて、それを我が機へもどして安心しようと云うのは、深く弥陀をたのんだのでない。  実言院曰く。仰せ聞いたばかりでは物足らず、聞いてたのむ心を起こさねばならぬと心得れば、他力回向の法門は忽ち崩れてしまう。弥陀をたのめと教えて下さるる御方は阿弥陀如来なれば、教え手と助け手とが一つじゃ。ここが聖道門や自余の淨土門と大いにかわる処にて、教えの聞こえた処が直ちに弥陀に向うてたのむ心が起こったのじゃ。他力回向の眼目はここじゃ。

○悦成の口ずさみ    「蝙蝠や姿は獣、空とぶは、鳥にも似たりえもしられぬもの」  「さかな食い妻子たづさえ袈裟かけて坊主か俗かえもしれぬもの」「あやまったあやまりましたこれからは、首をたれて南無阿弥陀仏」。鳥に似て鳥に非ざる蝙蝠なり。僧に似て僧にあらざるもの蝙蝠僧なり。今の世はその蝙蝠僧さえも稀である。
□阿呆もの  同師曰く。隣村に烟が見える、あれ何ぞと問う。人を焼くのじゃと聞いて、それなればよいと云うは阿呆者なり。又曰く。妄念は信後の喜びのたねなり。

○ああ苦し楽し    福田覚城師の厳父覚音師は、越前より江州坂田郡番場称揚寺へ入寺した心がけの厚い人であった。其終焉に曰く。浄土と聞いて喜ばず穢土と知りて厭わず、憂喜苦楽の夢をみること五十七年。此度病重りて死の一字を信ずと云えども更にものならず。ああ苦しああ楽し。この最後の句読み終わりて意味まことに深し。伊賀三左右衛門七十四歳の時の歌に、「おそろしや見向きもならぬわがこころ、地獄ならではゆくかたもなし」「ともかくも弥陀にまかせて嬉しさよ、極楽なりと地獄へなりと」

○のたれ死に    中古近江国に天台宗にて湛純 という僧あって、深く出離の大事に心がけていつも念仏していた。その臨終に曰く。「阿呆坊主栄華栄耀ののたれ死に人に笑われ弥陀のお助け」と。看護して居た親友の妻の手を握りて曰く。我は女の手の握りはじめの握りおさめ、皆の人は何と思うかしらぬが、この度の往生は我計らいではない。弥陀がしかと握りてはなし給わず、つれて行ってくださるから往生するのである。どうかつねに御念仏して下されよと、云いながら息が絶えたと。

(完)

〈余録〉 *「妙好人、三河の七三郎は、若い時に御喚声がきこえず、とや角思い煩うていたが、ある時美濃路で、とある同行の家に泊まった。そこに老媼があって、非常にお慈悲を喜んでいる。七三郎のいうようには「私はどうも如来様の喚声が聞こえません。どうしたならば、それが聞こえましょう」と。老媼いわく、「お前は何をいうてござる。お前の口から出る御称名それが如来様の喚声じゃ」。これをきいて七三郎、踊りあがるほどに喜んだ。               (「真宗信者の模範」より)

*楽心院大量師曰く 「人ありて、よく聞き得れば、心が明らかになるべし、聞こえぬゆえに明らかにならぬと。ただ明らかになることを求むるあり。これ一往理あるに似て、未だ我が機実を知らぬなり。その故は、もし盲人、父の迎えを得たる事のある時、何の目を開くことを得んや。ただ連れられて帰る事が明らかになるのみなるべし。必ずこころ得誤ること勿れ。よってその信受した心は二た心でなく、如来をタノム憶念の心なり。これ手引きにとまりし心の実際なりと知るべし」

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