主体の死後存続の可能性

「自己は死んだらどうなるか」という問いに対して、現代人の多くが「死んだら終わり、無になる」という考えのようである。はたして、このことはそれほど自明のことなのであろうか。
では〈人が死んだ〉ということはどういうことか。それは通常、手足や心臓が動かなくなり、呼べども応えないという、いわば生体が無反応になったのを、それもそういう他者の様態を外から見て〈死〉と呼んでいるのである。死ぬ本人が経験してそれを語るわけではない。そして、死を最終的に何で判断するかというと、〈脳死〉でもって判定するのが一般となった。

しかし脳機能の停止である脳死の場合、人は死ぬと心はどうなるのであろうか。というのは脳死なりの生体の無反応はどこまでも外から見た〈肉体における現象〉である。  しかし私たちの実感は肉体だけが私とは思っていない。手や足や心臓が私そのものとは感じてはいない。「私の手であり、私の心臓」であっても、それらを私自身であるとは思っておらず、むしろ私は「私と意識している心」の方が私の当体であると感じているのではなかろうか。
さてそうなると、心ではない肉体が機能停止する、いわば脳死になると心はどうなるのであろうか。
そのことで今日、「心は脳の働きであって、脳こそ心を生み出している当体である。肉体の死とは脳死のことであるから、脳が死ねば心の働きも死滅する」とよくいわれるのだが、はたしてそう断定していいのであろうか。
脳が〈私の当体である心〉の基体であれば、豆腐のような白い塊である脳髄をモニターで見せられて、〈これがあなたの心の本体であり、あなた自身なのですよ〉といわれても、はたして承服できるであろうか。

こうして、この問題は脳と心とはどういう関係にあるのかという、いわゆる「心脳問題」に関わってくるのである。
「心脳問題」で現代の代表的な説は、心は脳の働きから生じるという随伴説ないしは心は脳の機能であるという説で、どちらも物質的な脳システムを基礎にした脳一元論である。心的現象は脳のニューロン(神経細胞)システムの活動によって起こるというもので、脳科学者の多くがこの説を支持しているようである。それはちょうど映写機が回れば映像がスクリーンに次々と現れるように、脳のニューロン活動によって意識現象が現れるのだという。  そうなると、脳死という脳のニューロン活動の停止は意識現象の停止となるゆえ、人は死ぬと肉体はもとより心もその活動を終息し、私の一切が終わりを迎える、いわゆる死んだら終わりとなる、ということになるであろう。
であれば、「死んだら終わり」という考えは、心は物質である脳に統合されているという脳一元論に立っているといえよう。

そのほかに心脳二元論がある。その代表的な学説はエックルスという大脳生理学者の説である。それに近い人にペンフィールドがいる。また〈脳一元論とともに心脳二元論も十分成り立ち得る〉と言ったのはシェリントンである。しかも彼等は大脳生理学の基礎を作ったような非常に勝れた科学者である。ただ今日、この説を支持する科学者は少ない。なぜなら、さまざまな現象を物質現象の中で理解しようとするのが自然科学だから、多くの脳科学者が心的現象をも物質である脳のシステム現象として捉えようとするのはやむを得ない面がある。
この心脳二元論は簡単にいうとこうなろう。 脳は、外の現象と内なる心とを連絡する器官であって、脳が心を生み出しているのではない。知覚された外の現象は五感(目・耳・鼻・舌、身)を通じてニューロンによる電気的化学的な信号として脳に送られ、脳で処理されたこの物理的なデータを〈心が読み取る〉。また心で意志したことは脳のニューロンシステムに作用し、それが手足に伝わって身体的な行動となる、という。
脳は、心と物質的な外的領域とを連絡する器官である。だから脳機能が停止したからといって、内的な心までが消えるとはいえない、という。それゆえ、エックルスもペンフィールドも死後の心の存続もあり得るという。

なお心脳二元論に似ているが、しかし独自なのが哲学者であるベルクソンの説である。  脳と心は別で、脳が心に連絡的に対応しているといっても全面的な対応ではなく一分であり、脳の主たる役割は現実生活上での現在における選別の器官としての働きであって、脳は認識するための器官でもなくまた経験の記憶の保存場所でもない、という。一瞬一瞬の現実生活において、脳に送られてくる知覚のデータを、記憶の心の蔵から現実生活での有用性によって選別し、意識の表面に向かってさしむける器官が脳であるという。
そして心こそ無意識的な純粋記憶の蔵であるという。いわばアラヤ識説に似た見方である。彼によると、心は脳から独立していて、心が死後に存続するという方が存続しないという説より論理的必然性があるという。彼は 「もし脳のはたらきが意識の全体に対応し、脳と心が等しいものなら、意識は脳の寿命に従い、死はすべての終わりであるかもしれません。しかし心のはたらきが脳のはたらきの外にあふれ、脳は意識に生ずるものの一小部分を運動にあらわすだけであるならば、死後に生き残ることはありそうなことになり、証明の義務はそれ(死後の意識の存続)を肯定する人よりも、否定する人にかかって来ます。
というのは、死後に意識 が消えると信ずる唯一の根拠は、身体の分解するのが見えるということですが、意識のほとんどすべてが身体に対して独立であることもまた確 認される事実であるかぎり、その根 拠には価値がなくなるからです」 という。そして、タンスの釘(脳)に掛かっている衣服(心)は、釘が落ちても衣服はなくならないようなものだと、彼は喩える。

また思想的な見地からの心身平行論がある。今日的に言えば心脳平行論といえよう。有名なのはスピノザの説であり、ライプニッツの〈神の予定調和説〉もこれに準じるものであろう。
スピノザは「延長の様態とその様態の観念とは同一物であって、ただそれが二つの仕方で表現されているまでである」「身心は絶対に相互作用せず、作用するかに見えるのは身心に於ける平行現象にほかならない」という。延長の様態とは物質現象であり、様態の観念とは心の内容といえよう。
たとえば「あっ、チョウチョが飛んでる」というのは、それは心の表象内容として記述したのであって、それはまた一方からいうと「外界のある物体(この場合はチョウ)を見ると、その光は眼球網膜を刺戟し、この光の情報は化学的情報に変化し、この化学的情報は視神経細胞によって電気的情報に変えられ、脳の視覚野に送られた一連の物的現象である」というような物質過程として記述される。
いわゆる、一つの出来事は二つの様態(物質現象と、心的現象としての観念内容)で記述し表現し得るものである、と。それは一つの現象を記述する二相であって、物的現象(身)と心的現象(心)との間に相互作用の因果関係はない。これはいわば、心の表象内容と身体(脳)の物質現象とは因果関係はないが、不思議にも同時平行的な二つの相として理解することができるという。

さて、こういう場合、物的現象としての脳死は心的現象としてどのように記述されるのか、それはだれも分からないであろう。脳死の本人は、物質現象としての脳死さらには脳死以後を、意識内容として他者に表現し得ないからである。ただスピノザは、神の愛と一体になった人間精神は身体の死と共に滅びざる永遠の生命に参与する、といっている。    最後に脳と心に関する大事な他の視点を述べてみたい。
それは中国唐代の禅匠である黄檗希運禅師の言葉で「感知されたものは感知するものではありえない」と伝えられている内容である。
人が見たり、聴いたり、触れたりしているすべてのものは「対象的に感知されたさまざまなもの」である。私たちが見たり聴いたりして知覚しているもの、例えば目の前のボールペンや電気ストーブあるいは雨の音など、それら感知されているさまざまなもののどれをとってみても、それは「感知するもの」ではない、と黄檗禅師はいうのである。
このことはまたインドの代表的哲学者シャンカラもいっている。「認識対象はつねに認識主体とは異なっている。なぜなら認識対象であるから。瓶などのように。認識主体は認識対象とは異種のものである」と。
であれば、科学的観察手段を通し、私たちの知覚や知性によって〈対象的に知られた脳〉は、感知された認識対象の一つであって「感知するもの」いわば認識主体ではないことになる。
脳を研究対象として観察し、実験し、そこから取り出されたデータをどれほど重ねても、それらは対象的に知られたものであって「知るもの」では決してあり得ない、ということになる。

そして知る主体のことを私たちは〈心〉と呼んでいる。(以下、知る主体を心そのものと同意としておく)であれば、知られた脳は知る主体(心そのもの)ではないから、〈心は脳である〉とはいえないことになる。
われわれはいろいろなものを見ることができるが見るものを見ることができない。感じるものを感じることはできず、触れるものを触れることはできず、嗅ぐものを嗅ぐことはできない。
そのように知るもの(心)を知ることはできない。知る心はさまざまなものを対象的に知ることはできるが、知る心を対象化して知ることはできない。だから知るものである心を脳と同じような対象的な存在として扱い、それを脳と関連づけて〈心は脳の働きだ〉というのは正確な理解とはいえない。
なぜなら、知る主体を対象化し判断して知ろうとしても、知る主体は判断される側ではなくしていつも判断する側になるので、どこまでいっても知る主体を対象化できない。  確かに、たとえば赤信号を知覚するとか、痛みを感じるとか、腹を立てるとかという心の諸反応ないし諸作用(仏教でいう六識に当たろう)は脳の機能と関係しているといえよう。しかし、あらゆることを経験し統合していてしかも対象化されない認識主体としての心(仏教でいうアラヤ識に当たろう)を脳と関連づけて、その心を脳の働きであるとは断定できない。
更に、〈認識し判断しているのは脳である〉という考えは、本当かどうかはこれを疑うことができる。しかし、そう判断したり疑ったりする働き(心)があることは疑うことができない。「あらゆるものを疑うことはできるが、疑っている思惟それ自身を疑うことはできない」ということから、デカルトは「我思う、ゆえに我あり」といった。

もし心がなければ「心は脳の働きである」ということさえいい得ない。 〈脳があり、脳はこれこれである〉 といえるのはその前提に心がなければならない。そうすると〈心において脳がある〉ということは、心は脳の中に収まらず脳を超えている、といえるのではなかろうか。 少なくとも、〈脳があり、脳は何々である〉という認識を成立せしめている心の働きを、当然の如くに脳の働きの属性に収めてしまうのは、独断といわねばならないであろう。
こうして、脳イコール心であるとは単純にいえなくなるし、脳に心を統括し得ないなら、脳死という脳機能の停止は、そのまま心の働きの停止とは速断できないことになる。  実際、他者の死においては脳の働きの停止は知り得ても、死せる本人の認識主体(心)はどうなっているかは知り得ない。
他者ばかりか、そう言っている自分自身においても、自分の脳機能が停止した場合、知る主体はどうなるのか、それは死んだ経験がない私たちには分からない、としかいえない。

ともかく、認識主体は脳に収まらないとなると、脳死がそのまま認識主体の終焉であるとはいえなくなり、死後における認識主体の存続の可能性があり得ることになる。  さらに、死は、肉体という物質の形態上における変化であって、物質そのものは質量保存則のゆえに消滅しないとすれば、心という認識主体も形態の変化はあっても無くならないという観点も当然出てくるのである。
実際、仏教では、認識主体(識心)は覚って仏になるか、迷うて流転していくかであって、無くなりはしないといわれてきた。
なお付言すれば、認識主体を俗に〈霊魂〉というような、いわば空間化された意識存在のように捉えるのは誤りである。死んで霊魂が残るか否かという話の場合、とかく〈霊魂〉という空間的形態をもった存在として、いわば認識主体を対象的物質的な存在として考えてしまう。そうなるとそれは知る働きそのものではなくなる。
ちまたで言うような、死んでも霊魂は生者の周りにただよっているとか、墓の下にいるというような発想は、すでに心という認識主体を一個の物質的空間的な形態としてイメージしているのである。

以上、心脳問題にごく簡単にふれたが、「死んだら自己存在はすべて消滅する」というのは心を脳の働きとする脳一元論の立場でいっていることになり、それは〈一つの仮説〉にすぎない。
仏教の立場は〈知られるものの一つである脳は、知る主体ではあり得ない〉という説、あるいはベルクソンの説やスピノザの身心平行論に近い立場であると思われる。そうすると認識主体としての〈心〉は、死後存続の可能性があるといい得るであろう。
さらに言えば、知る心と知られる領域とは一体であるという仏教の立場からいうと、心(知る主体)の存続は領域の存続であるゆえ、そこから、死後に存続する主体がなお流転するかあるいは浄土に往生するかが問われてくるであろう。

(了)

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