秀存語録 

秀存語録
佐々木月樵撰

一 義なきを義とすと知るべし
京都の人、探幽(たんゆう)の書を藏したり。落款(らっかん)なかりし故に、ある名筆の人をたのんでその名をかかしめたり。書は之が為めに疵物(きずもの)となれり。  他力は他力也。自己一分(じこいちぶん)の計(はから)ひを加へなば、遂に障(さわり)となりて往生を得ざる也。

二 弥陀をたのまぬといふは如何
問云、弥陀をたのまぬといふは如何。答云、わが意をあきらかにせんとおもふ意も弥陀をたのまぬなり。氣安くなりてたすけたまはんとおもふも弥陀をたのまぬなり。今度はわがむねがさつぱりしたとおもふてよろこんであてにするも弥陀をたのまぬなり。まかせた後生をとりもどすも弥陀をたのまぬなり。取かへすくらひゆへ、まことのことにあらずとおもふてまことのことになりたひと我こころを長く世話にするはなほなほ方角(ほうかく)ちがひへおもむくなり。  これらの心は、引(ひき)やぶり引きやぶり引やぶり。この引やぶりかねたる心も引やぶり、やれ引やぶりたるぞとなづむ心も引やぶり、この方から引やぶらんとおもふも自力乎。  本願名号のいはれを思ひ、そのいはれより引やぶらせていただくべきもの也。

三 鼻の高低、口の大小
顔色(かほいろ)や、鼻(はな)の高低(たかひく)や、口の大小や、眉(まゆ)の濃淡(こきうすき)は、生れつき也。なかなか之を直(な)ほすことは出来ざるべし。三毒(どく)五欲(よく)の生れつきは直ほさずとも、せめては掟(おきて)にそむく身の行ひは、知らぬ間についた顔の墨(すみ)なれば、念々(ねんねん)懺悔(ざんげ)の水で洗(あら)ひたきもの也。

四 ほんまに安心の出来ぬは常に我悪き機と角力をとり、臨終とまで角力をとって勝たんと思ふから也。
信心とは、御慈悲の角力にまけた事也  臨終をひきよせてみるもよいが、びくびくしたこころではないかと吾心をためしてみるも自力の力味なり。たた阿弥陀さまのびくびくなされぬ御まことをたのみ奉るなり。第七の深心の四重の破人に破られまいと云ふ力味ありておもひかたむれば直に自力になるとて、御開山、親鸞聖人のきらはせられたもそれゆへなるべきなり。

五 表裏相應
嫁が、どうしても衣服(きもの)を下婢(かひ)にたたませなんだのは、衣服の表は立派なれども、その裏が切れ切れの木綿(もめん)であるのを他人に見らるるのが嫌(いや)な為め也。里に帰へりては之を脱(ぬ)ぎすてて置くのを、母にたたますことの出来るのは、母は裏も表も能く存じて居るが為め也。  まだ、すべてをまかすことの出来ぬのは、大慈大悲の親様を他人と思ふ故ならずや。

六 徒然
自分は時々徒然(つれづれ)に堪(た)えず、、何をせんか、何れにか遊びにゆかんかなどと思ふ。能く思へば、是れまだ御恩に不足を思ふが故也。『御一代記聞書』に云く、  「金ヶ森の善從(ぜんじゅう)申され候。我身は八十にあまるまで徒然といふ事を知(し)らず、その故は、弥陀の御恩の難有事を存じ、『和讃』『聖教』等を拝見申候へば、心面白く、又尊き事充滿する故に、徒然なることも更になく候と申され候由に候。」  時々徒然にたえぬは、まだ淺間敷身をかかへ乍ら、如何で、うかうかと遊びに行くべきぞや。

七 親子なれば、主客の間に土産物はいらぬ也
私に云く、六字は二に分(わか)る。三には分らぬ。二とは衆生の機と阿弥陀仏の法となり。この仏と衆生との間に信を一つ入れて、実(まこと)か虚(うそ)かを分別すれば六かしくなる。中に信を一つ入るると六字か二つではなうて機と信と法との三なり。それはあやまりなり。機と法との二ゆへに、たすけたもう法を直に信ずるなり。たとへば、ものの賣買(うりかひ)をするのに、賣人買人(うりてかひて)のなかに代物(しろもの)を置(おい)て品(しな)のよきあしきを論ずるが如くおもふはあやまりなり。

八 力味心を去るべし
一念のたのみこころは、自力の力味心(りきみごころ)のぬけたる処なり。一たび、たすけてもらひたひ衆生と、たすけたいの仏とが出会(であひ)たら立どころに浄土まゐりの相談はきまりさうなものなれども、そのきまりの出来ぬのはどういふものぞといへば、衆生のすこしの力味心がぬけぬからなり。人の家の娘でも、息子(むすこ)でも、この方へもらいたいなり、やりたいなり。が、身代(しんだい)は燈提(ちやうちん)につりかね、つりやはねども、あそこへならばやりたいのこころあり、あの子ならもらひたいのこころあるなり。先方(むかう)では何にも入らぬ、着(き)の身着のままとはいひながら、せめては長持(ながもち)一掉(さを)はやりたい、まんざら上着(うはぎ)一枚なしでもやられまいと云ふ、すこしの力味心があるからして、そんならば、やりませうの相談が出来ぬなり。そのままながらのことばにしたがひ、この方の力味心をさつぱりやめて、丸の裸のままで左やうならばと受てみよ、立所(たちどころ)に相談は出来るなり。今も、たすけたいの仏さまと、たすかりたいの我等と、氣はゆきあふれておれども、まんざらこれなりではあるまい、ちつとはどうぞならねばなるまいの力味心があるゆへに、おちつけぬ也。その力味心をやめて、とてもならうとてなられぬと、わか身に介性(かいしょ)のなきことがしれて、いよいよ左やふなれば、この儘でござりまする乎と、うけてみたれば、そのこころのありたけが、直に後生たすけたまへのたのみこころなり。

九 迷に本迷とご教迷とあり。たのみ心に苦むのは教迷の人也。
弥陀をたのめとは月は空(そら)にありと云うごとく、たのみさきを指したもう也。この方のなられこころのみを論じておるは、月をわすれて指(ゆび)を論じて居るごとくなり。

一〇 御助け下さる事
信次郎に仰せに、今晩(ばん)は大講師の御座故に、惣会所(そうくわいしょ)に参りてこい、おれが留守をする程に。然し覚えて帰るではないぞ、よく聞いてきて聞かせてくれよ。  その帰り来るをまちて、信次郎、どうであつた。云く、此私を御助け下さる事で御座りました。それは、難有い事をきいてきたな。

一一 水入らずの念仏
ある時信次郎をお呼びなされし故に、何か御話があるべしと思ふて参られしに、一言のお語(ことば)なく、唯念仏を唱えて御座る。                   止むなく、信次郎も念仏すれば、師は益々声はりあげて唱へらる。知らざるうちに夜も深けたり。その時の仰せに、今晩は水入らずで難有かつた。

一二 當流では算用心をきらふ也
當流では算用(さんよう)こころをきらふなり。阿弥陀さまと衆生と出し合ふにあらず、きれ合ふにあらず。阿弥陀さまが御立(たて)かへりなり。娑婆で花見遊山にゆくにも、きれ合てゆくあり、向から御立てかへてゆくもあり。親につれられてゆくときは、必ず親から丸出しなり。けれども、念の為めに算用書はみせてもよいが、これはいかほど入たと云ふ疑はらす為めなり。一文も出さす為めではない。阿弥陀さまの他力でわれらをたすけたもうなれども、疑ひはらす為の算用書をみたくば、六字の名号が算用書なり。南無とたのむものを、阿弥陀仏のたすけたもう故にこれが一文も凡夫から出すに及ばぬと云ふ証拠なり。たのめばたすけて下さるるゆへに、機と法とがあれども、それははや六字の中に一体に成就し了たゆへ、凡夫の方からはなんにも入らぬ。その証拠(しょうこ)は六字ぢやほどに、それみよとて下された算用のすんだ証拠は、南无阿弥陀仏なり。

一三 「船賃なくて世は渡られぬもの也」とは、二宮尊徳翁の遺訓也。宗教は船賃なしに世を渡る法也。
たのめ助けんとの名号に、たのめ斗(ばか)りがありがたき人あり。たすけてやらうのありがたき人あり。そのうち助けけてやらうがありがとうて、恃(たの)むはむつかしいと云う人多し。よくよくおもふべし。金をただやろうといふ人があれども手を出してもらうがむつかしいという如く、賃(ちん)なしにのせてやろう渡すべしと云ふ舟あれども、乗るがむつかしいといふ如く也。左様なことのあるべきはづなし。

一四 加へて下さるべし
播(ばん)州の平兵衛は、こんなものを如来様が、必ず御助け下さるに御助け下さるにといふて常々喜んで居たり。ある同行が、お前さんは、當流にはたのむものを助くとあるではないか、然れば、お前さんは頼みが抜けてあるではありませぬかと申したれば、平兵衛は、頼むが抜けていたら、何れあなたが加へて下されましやうぞや。何事もあなたがよき様にして下されましやうぞや。何事もあなたがよき様にして下さるぞやと答へぬ。その同行赤面して、後無二の信者となれり。

一五 芽出度往生
美濃の国に、常々念仏怠らぬ様にと腹に荒縄(あらなは)をくるくるまきて念仏致して居る人の命終前に、その娘が香月院にその由申上げければ、それは、我には縁なき故に、一蓮院の処に行けとの仰せに、すなはち参り。往生如何と伺ひたれば、その時の仰に、化土の往生疑ひなしと。この由、帰りて父に告げければ、難有し、迷さへ離るれば、化土であらうが何れにてもよろしと申して命終までよろこびよろこび念仏したり。  七日たちて、その由一蓮院に申し上げたれば、その時の仰せに芽出度往生遂げましたなあと。

一六 月の光で月を見る
夜だと思ふて夜になつたのでない、夜の方から知らせて下さるのぢや。今御前が御助け下さると思ふたで御助け下さるのではない。あなたが御助け下されるのでお助け下されるのぢや。

一七 遺言
名古屋御坊での説教に、此度差向(さしむけ)で参りて長々の説教、一々覚えて居るではない。たつた一つ覚えて帰れ、南無阿弥陀仏一つで助かる事は、同行にも孫子の末に至るまで、忘れずに言ふて傳へよ。

一八 握られての往生
ある女同行、参詣の節に、外の同行が今朝の御説教で握られたといふて喜び居るに不審を立て、すぐさま御講師の所を尋ね、御立ちなさる御講師の衣の袖をとらへて申すやう、人々は、今朝の御きかせに握つたと申しますがわたしには何も握るものがありませぬと申したら、その時の仰せに、他の同行は握りたであらう、御前や、おれは、仏様に握られて参らうではないか。

一九 思案の頂上とは何ぞ
當流には、弥陀に助けらるるなり。皆ひとの後生をたすかりたく思ひて吾方より助りにかかるなり。故に、弥陀の御慈悲(じひ)は餘所(よそ)になりて自力となるなり。當流には吾心をすてて仏の助けたもうに戻(もど)らざるなり。故に、蓮如上人は思案(しあん)の頂上は五劫思惟なり、これに同心せよとのたまひ、又『信巻』の本の三信のなか信樂の信の字に十二訓ある中「用也」と云訓もあり。これ如来の御はからひを用るなり。又『連署記』に「須の文點は用の文點なり」とものたまひて自力の策励(さくれい)をすてて仏の方になしたもうを須(もち)ひよと善導もしめしたまひ、又鸞師(らんし)の他利々他の深義も、他利といふは、他とは弥陀なり。酒のみにあらず、酒にのまるる如く、吾方に助る力はなけれども、仏に利せられ弥陀に助けられて往生するなり。

二〇 聞名不退と見性成仏
當流には、きく一念にたすけらるるなり。聖道門には聞思修(もんししゅ)の三慧といふことあり。『十地論』などでは地前にてきくなり。この三の成就しぬれば、十地の証をひらくなり。然れば、聞は修行の入口なり。當流には聞を修行の成就とする。聞うる一念にて命終れば証(さと)るなり。

二一 釘づけられたるやもり
中邨茶亭(なかむらさてい)主人云く、我会てきく、大工過(あやまつ)て、屋守(やもり)を板にうちつけたり。不便と思ひ乍らも、そのままになしたけり。その後、日を経て見るに、屋守尚ほ死せず。雌(めす)の屋守食を啄(くは)へ来つておくれり。某家の婢来れり。工人その故を語る。婢、暫時、之を見て居りければ、果してその語の如し。婢直ちに、暇を其主に乞ふ。主人、その故を問ふ、婢の言く吾夫会て癩(らい)病にかかれり。我之をすてて奉公せり。思へば、我、彼の雌虫の実意にも劣れり。今さきの夫、尚ほ病に臥すときく、願くは介抱(かいほう)せんと申せり。それより直ちに許されて家に帰り、夫の病床に侍し、懇ろに介抱せりとなん。  私云、近頃、「報知新聞」に女武士道としてかかげられたる話なりと て、ある雑誌に轉載せられたる「市子やもりに感じて婦道を全ふす」の 話は、殆んどこの話と同じく、然かも詳かなれば今之れをかかげて 本話を補ふべし。  「幕府醫官の須原通玄(すはらつうげん)、板壁を斫(き)りて窓を作らんとす。大工板 を剥(は)がせば大なる一頭のやもりあり。蠢々として動けども走らず、 熟視すれば、釘にて腿を洞(つらぬ)がれ居りぬ。葢し前年、工事を施せる時誤りて之を洞けるものならん。爾来既に數年を経、彼の虫、 如何にして生存今日に至れる。一家皆な怪しみて来たり観る。偶々 他の一頭のやもり蜘蛛(くも)を啄み来りて之を食ます。是に至りて始めて知る、此の虫、彼の虫を養ひて今日に至れることを、雌雄の情に厚き、 虫類すら此の如し、衆益々之を奇とし、釘を抜きて之を放てば雌雄 頭を駢べて欣然として走り去る。婢市女なるもの潜然として涙を垂れ、主人に對して暇を賜はらんことを乞ふ。その故を叩けば市女病夫を棄てて来り仕ふるもの、やもりの事を見て慚愧し、帰りて夫を養はんと欲する也。   主人深く感嘆して之をゆるす。市女乃ち夫家に還りて婦道を全うす。事天保年間に在り。
上  大工窓を作らんと欲して板壁を剥げば、黝然(くろぐろ)たる物あり。蠢々として動く、近づいて見れば一頭のやもりなり。  やもり走らんとすれども走る能はず、クルリクルリと一所を旋回す。  大工とう然として笑ふ、  「畜生、道理で遁げ得られぬ也。」  やもり釘にて腿を洞(つらぬ)かれ居る也。  主人通玄時に来りて側に在り、之を見て怪みぬ。  察する処、先年此板を張るとき、誤まつてやもりを打ちつけしならん、 爾来既に二三年を経ぬ。急所をこそ脱れ居れ、如何にして今日まで 生き居たりしぞ、実に不思議至極にあらずや。」  一家の人々皆奇として聚まり見る。  偶然一頭のやもりチョロチョロと走り来れり。見れば口に蜘蛛を啄はむ。  人々如何にするぞと見てあれば、釘にさされしやもりの側に至り蜘蛛 を食ましめぬ。通玄覚へず小膝を打てり。  「オヽ、是でこそやもりも死せざりしなれ、雄か雌かは知らねど、二三 年の永き間、絶えず其配に仕送り居たりとは、蟲類ながら感ずべき 事ならずや。遁し遣れ、疾く遁がし遣るこそ好けれ。」  それと、大工に命ずれば、大工直に釘を抜きて放ち遣りぬ。雌雄のやもり如何に嬉しくやありけん、頭を駢へていそいそと走り去る。  「雌雄の情合は蟲類とても同じ事ぞ。」  人々皆感じぬ。  忽ち声を放ちてフツと泣き伏すものあり。誰れぞと見れば、下婢市女也。  「如何せしぞ、何を悲めるぞ。」  衆皆な怪めり。  市女、通玄の前に出でて乞ひぬ。  「何卒今日限り、御暇を賜へかし。」  事甚だ突如たり、通玄益々怪みて其故を質す。  市女、涙をはらひつつ語れり、  「今は何をか包み候べき、わらは曩きに人に嫁ぎ候ひしに、夫偶々癩 病にかかり候ひぬ。わらは、離縁を求め候へども夫許し候はず、餘儀なく夫を棄てて逃げ帰り候ひし也。今日のあたり、やもりの事を見て、誠に心に恥入候ひぬ。夫婦の道の斯ばかり重きを知り候へば、今更夫を棄てたる事の空恐ろしく候。是より還りて夫を養ひ候べし。何卒御暇こそ願はしう候へ。」  通玄聞いて深く感じぬ。  「さてさて、今日は奇しき事の重さなる日ぞ。」  直ちに、物數多く取らせて暇を遣はせり。
下  市女、家に還りて父母に事情を語り、媒人と共に夫の許に抵り て深く罪を謝しぬ。夫聞いて嗟嘆す。  「我れ、何の因果かかかる病にかかりて人に面を会はしがたし、郷若し今日まで辛抱したらんには、我よりこそ進んで生家に還すべけれ、いかで離縁を拒むべきや。  唯郷が餘りに我を厭へばこそ、我もまた意地を張りたるなれ、今郷が後悔せしと言ふを聞て、我が日頃の怒も釈けたるぞ、イサ、快よく暇を取らすべし。」  欣然として起ち、直ちに離縁状を書きて前に出す。「わらは、再縁を求めんと思へばこそ、強いて参り候なれ。離縁を乞はんとて来りしには候はず、幾重にも御詫致し候はん、抂げてわらはの願ひを許し給へ。」  誠心面に顯れければ、夫、感極まつて泣きて許す。市女、既にいもりの 情義に感じぬ。今は元の市女にあらず、心を盡し、思を砕きて甲斐がいしく册づきける。居ること一年ばかり、夫病重りて歿す、市女 更に舅姑に事へて孝養を励みぬ。見る人、聞く人、皆な感ぜざるはなかりき。   野史氏曰く、蠢々たる虫類其配を扶くるを見て、眇たる賤婦、其過を悔ゆ。後の此事を聞きて感ぜざるものは、常に市女の笑ふ所となるのみならず、またいもりの笑ふ所とならんのみ、察せざるべけんや。

二二 六字は親のものにして、また我もの也、
明信寺(めうしんじ)云く、自他百金を貰(もら)ふたとひ之を用ゐずと雖ども心樂(たのし)みあり。自他百金を預(あづか)る、急な時は之を用ゆることを得と雖ども、心に樂みあらず。  預かりた信心には、若しや失ふてはならぬの思ひあり、自分の物とならぬ故に、樂みの思ひは起らぬ也。

二三 見てゐて下さると思へば氣がしまり、護ってゐて下さると思へば氣が樂なり
嘉永五年十一月十一日、自らつくづく思ふに、「私一人」の語、誠に味ひあり、五劫永劫の御苦勞、私一人が為め也。仏の可愛可愛と思ふて下さるるも私一人が為め也。御浄土を建立してまち給ふも私一人が為め也。  私は、一人を一人子の如く思ふて下さるる大悲の御まことを今日より死ぬるまで歡(よろこ)びたきこと也。阿弥陀様も、この秀存を一人子の如く思召して下さるる。私も阿弥陀様を唯一人の親の如く思ふべき也。「一子の如く憐念(れんねん)す」の御語あらあらありがたや、うれしや、かたじけなや。私一人といふことを忘れぬやうにしてくれよ、我心。 一人たりともといふ一人は私の事と思へと、人に對してはいひたりしにあらずや。なぜ、我心よ、さは思はざりしぞ。然し、私一人と思ふたら、さみしからうが、さみしからず思ふてくれよ、我心。   南無阿弥陀仏を稱ふれば  十方無量の諸仏は    百重千重圍繞して  よろこび守り給ふ也  又た   煩悩(ぼんのう)にまなこさへられて 攝取(さつしゅ)の光明みざれども   大悲ものうきことなくて つねに我身をてらすなり ありがたや、一人子を一人で置き給はぬがおやの御慈悲なりけり。

二四 たすけたまへとは
たすけたまへとは、御たすけ下さるる妨(さまた)げをせぬ事也。

二五 学問して、いよいよ本願の尊ときことを知るべし。
安政午の年、三月六日、静かに思ふに、我若し奈落(ならく)に沈む時、炎王は、汝学問をせざりしとて、責めはなさるまじ。弥陀を頼まずして、何故に茲に来るやと責め給ふべし。然らば、学問は成らずとも、弥陀を頼(たの)む信心だに得たてまつれば、必ずやその責めを免るべし。

二六 大石内蔵之介
徳水云く、大石内藏之介は、もと備前(びぜん)候の家中にて、幼少の時、殿(との)の御側(おそば)近く仕へ居たり。  或時、殿大病あり、如何に薬を御勸(すす)め申せども召(めし)あがり給はず、人々皆な困(こま)りはてたり。内藏之介云く、我之を奉らんと、即ち薬を煎(せん)じ置きて、自から殿の御前に出で、口を極めて様々(さまざま)の悪口申しけり。殿、大に怒(いか)り給ひ手うちにせんとて、殿中、病氣ながら追ひかけ給ふ。何分御病中の事なれば、殊に御疲勞(ひろう)ありて早く湯(ゆ)を持ち来れとの給ふ。その時、他の侍童、右の薬を持ち参りたれば、ひきつづき、二三杯も召しあがりたり。後に、その才のすぐれ、且つ忠心の程を賞せられたりと。

二七 何事もきくが大事
江戸の法住云く、はなは檢校(けんぎやう)に、書状の上書に江戸?屋町といふが讀みずとて、?の字を問ひければ、答て云く、それは油屋町なり、人のあぶらといふ字は、三水にヨシといふ字といひたるをききて、由の字とを取違へて書きたるものならんといへり。果して然りしとか。何事もきくが大事也。

二八 愛と敬
加州の法劒(けん)云く、慧空(えくう)師、娘を失ひて忘れがたく、その後かへらぬ事を思ふのあさましさ、娘を思はにょりは、仏像を娘の丈にこしらへ置(おか)んとて、等身の仏像一?(く)をこしらへ拝み給へり。  我子には愛(あい)あり敬(けい)なし、仏像にむかへば、愛あり、また敬ありとのたまへり。

二九 名号を唱ふべし
御宗旨の人、日頃日蓮信徒に誘(いざな)はれて題目(だいもく)を唱(とな)ふ。日蓮徒大に悦んで、種々金銀衣服を与へたり。その後念仏のみ申して、題目を稱へざりけり。日徒大に怒て之を官に訴(うつた)へたり。  その時、官判じて云く、日徒の申す旨(むね)道理也。この故に、汝がいふ如く金銀衣服等は必ず返却なすべし。されば、三年が間の題目は金等のためなれば、それにて算用すみたり。然し、今若し金銀衣服等をとらば、汝三年の間、念仏を申すべし。彼は、三年間汝がこのむ題目を唱へし故へ、汝また彼が好む所の念仏を唱へて返すべしと。  日蓮徒閉口せりと。

三〇 たとひ乞食をしてなりと
吉野山たとひ乞食をしてなりと  存云く、蓮如上人の「身をすてて法を求めよ」との御語思ひ合すべし。源光阿闍梨蛇身(あじゃりだしん)をうけて、出離(り)を求むるもまたうべなるかな。

三一 信とは疑はぬ也
信とは人のことばをうたがはぬなり。世間に虚言(うそ)をいふ人あり、いはざる人あり。それは平生の人品(ぴん)による。食言(うそ)をいはぬ人品とおもへば何ごとも人信ずるなり。うそいはぬ頂上(ちやうじやう)は仏なり。しかれば仏の御ことばを疑ふべからず。釈迦と諸仏と弥陀との証誠(しやうじやう)なり、發遣(はつけん)なり、勅命(ちょくめい)なり。

三二 帰の三義
當流の信心は順(したが)ふのみなり。帰(き)の字に帰還(きげん)の義と帰投(きとう)の義と帰順(きじゅん)の義とあり。當流は第三義なり。また雑修十三失の初の三は三仏に随順せざるなり。また黒壑聖人は報恩(ほうおん)藏にて順彼仏願故の御ことばてうたがひを破したもうなり。二河のたとへには、信順二尊勅命せよとなり。仏の仰せにさからはずして、したがふを、帰するとも、たのむともいふなり。次に信後は善知識の御教化にしたがひ、御地頭の制札定目にしたがひ、六親眷属(しんけんぞく)したがひやふてくらすべし。殊に女人は三從(しやう)の身なり。したがふべし。男子たりとも、觸光(そつこう)の益のゆへに、こころやはらかになり、たとひ如何なる悪しき人たりとも、二三度も立腹(りっぷく)もなくしたがへは感心するなり。「したがへば、嵐もこまる柳かな。」したがふほどの徳はなきなり。

三三 なかたがひ
當流は我こころと仲たがひして、仏の慈悲ばかりをたのむべきなり。世間にて兄弟たりとも、或は近隣(となり)の人なりとも、初めより仲はたがはねども、向の人より三つ四つ六つなかなかの不実かさなれば、餘義なく仲をたがひ、もはやこれぎりと思ひすてて唯実意(じつゐ)のひとと懇意(こんい)にするなり。吾こころも始よりは見すてねども、思ひ定てお定らず、喜びても喜のこころもつづかす、潔(いさぎ)よきこころと、よろこびしあとよりも雲きりかかり候へは、いかさまにたのみがひなき吾こころなれば、もはや、これきりわかこころに仲たがひして、ただ如来の御真実(おまこと)のみをたのみちからとすべきやふに存ずるなり。

三四 経に云く、「如来者我等舎也。」孟子曰く、「仁人之安宅也」と。
當流の帰命(きめう)の帰の字は「よりかかり」卿「よりたのむ」なり。たのむこころはこれにて知るべし。帰悦帰税(きゑつきさい)とは『詩経』の註に舎息(しゃそく)の義とありて、やどりどころのあるなり。吾こころをやどり処とすべからず、仏の御慈悲をやどり処とす可し。定家卿(ていかけう)の「行北月」と云題の歌に、「雁金(かりがね)の翼(つばさ)の露にやどりては、月も越路(こしぢ)にかへるなりけり。」やどりどころによりて、ゆきかたき処にもゆかるるなり。

三五 「不斷煩悩得涅槃」
「内裏にも蓑着(みのき)て入るやあやめ賣」といふごとく、弥陀のしたかふて浄土に入るなり。『行巻』命の字の左訓に「招引也(しやういんなり)」とあり。をもひ合すべし。

三六 子供が菓子を買ふと
子供が菓子を買ふ。その時の勘定(かんぢやう)は親がする也。後生の大事は、仏邊(ぺん)にて算用が合ふ也。行者の胸中(むねのなか)で算用を合せんと求めてはならぬ也。

三七 私一人の為めに
洛陽の喜助云く、浪華の天王寺邊に五劫思惟の法蔵菩薩の痩(や)せ衰へさせ給ひし御すがたあり。それをある信者が拝みて、「私一人の為めに、法蔵菩薩は痩(や)せ給ひしばかりでなく、御身のはれふくれさせ給ひし事もあるならむ」と申されたれば、その御すがた、俄にふくれさせたる事あり。その御すがたは、洛北妙心寺邊の椿寺(つばきでら)にもありと申しけり。これを思ふても、御思の程をよろこぶ可き也。

三八 たのみやうは下手でも
雲溪(うんけい)のたのみやうや、信じやうは下手(へた)でも、助けて下さる方が上手也。唯助かりさへすれば本望也。  存、今日より阿弥陀仏のまことを頼(たの)み奉りて、弥陀に助けられべしと氣のつきたるも我力かは。

三九 凡夫の慈悲
美濃の励巌(れいがん)云く、我国に興福寺といふ魚を捕ふる道具(どうぐ)あり、寒中などに、細長く中を空くして、麦稈(むぎわら)にて卷(ま)きたるものにて、それを水の中に沈め置けば、魚は、その寒さを凌(しのが)んとて、悉く入るのを丘に引きあげて魚をとる也。これは、もと興福寺の大徳魚を憐(あわれ)んで寒を凌(しの)がしめん為めに考へこしらへたるもの也。もとは、慈悲より起りたれども、後には殺生の端(はじめ)をひらけり。  凡夫の慈悲は、末とほらぬもの也。

四〇 親をうろう
大川宏平先生云く、江戸に「親をうろう、親をうろう」と呼びあるく者あり。人ありて之を呼びこみ、その処をとえば、江戸の在也。行いて見れば大家也。我は親なし、親を買うて孝をせんと也。主人云く、請う、汝、我家の養子(ようし)となりてくれずやと。故をとえば、我親さえ邪魔(じゃま)にする者のある世に、人の親を買わんとする人なれば、必ず考親の人也、この如きの人を得て養子にせんとて、かくの如きわざをなせりと、語りたりと。

四一 外物に繋がるる事
北江州百如比丘の歌に
物くれる人にはひかる繋(つな)がるる  牛となるべきしるしなりけり
然し、坊主の牛となるというは、余程よき坊主也。我等は地獄に落つる也。牛にさえ生れぬものを極楽参りとは有り難し。

四二 浮世二首
浮世をば渡りくらべて今ぞしる   阿波の鳴戸(なると)に波(なみ)風もなし
浮世をば渡りくらべておもふには   ゆきかいやすき木曾のかけ橋

四三 仏教と儒教
阿奈瀬惠了(あなせゑりやう)云く、関東将軍樣の御前に東叡(ゑい)山の宮樣居たもう時、将軍より宮樣へ尋ね給うに、仏法と儒道(じゅどう)とは、勝劣(しゆうれつ)いかばかりぞやと、宮樣近従の者をして林大学守を呼び来れとの給う。林大学、早速御前へあがりければ、宮樣の御語に、林大学とあれば「ヘイ」と答えて打頭屈身(だとうくつしん)せり。その時、宮樣のたまわく、仏法と儒道の違いはかくのごとしと。

四四 至心信樂、己を忘れて
井上丹後屋淸三郎云く、大仏の宮樣、大雅(が)に来れ、面会せばやとの給う。大雅、衣服余り粗(そ)也、畏(おそ)れ多しという。宮樣の仰せに、苦しからず、面会せんとの給う。即ち御前に出づ。如何にも粗服也。宮樣、我服を与へんとて白服を給う、これを着用(ちゃくよう)して畫(ぐわ)をしきりにかく。書き了りて、その白服の袖(そで)にて、筆を頻(しき)りにふきて着しながら帰りぬ。頂戴(ちやうだい)の服といふことを忘却(ぼうきゃく)すとみえたり。宮樣、尋常にあらずと誉(ほ)め給えり。

四五 母云く「来れ」、父云く「行け」
帰命は二尊の仰せにしたがうなり。『行巻』に「告也」とは弥陀の告げたもうなり、「述なり」とは釈迦の述べたもうなり。

四六 信書の名宛は我一人也
旅に居て故郷の信書(てがみ)の来るはうれしきものなり。西方十萬億土の彼方よりの御信音(ことづて)をきけば、たのみて来れとなり。されば命の字に信なりという訓あり。

四七 使也    たのむこころも吾とおこらじのこころは、命の字に「使也」の訓にて知るべし。

四八 親のはからいにまかせば、よきにはからひたもう
弥陀の御はからいにてまいるというも、命の字のこころか。命に計也の訓あり。『執持鈔』の漢字の本あり、天滿本誓寺にあり。不可計とかきて、凡夫のはからうべきことにあらずと云う処を漢字にしてあり

四九 至りつく事の出来るは、至りついて下された験(しるし)也
帰するこころの疑なきを信心と云ふ也。鳥飛帰林(とりとんではやしにかへる)のことばあり。帰に至也の訓あり。そのこころなり。鳥の両翼(よく)をおさめて、樹に止るごとく、ゆくべき処に至り、止まるべき所に止れば安心するなり。  計(はから)いの羽をおさめて仏智に至りつくなり。

五〇 如来よりの注文
たのむものを助けんとあるは、たのめのことばはたのめたのめと云て我等に難儀(なんぎ)させたもうことばにあらず、唯たすけて下さるのじゃ。けれども、このたのむばかりのことばがないと行者の方におちつかれぬなり。それはなぜなれば、唯たすけてやるとばかりでは如来さまの御こころに、、何ぞ御好(おこのみ)があるかもしらぬと云うこの方にあやぶみがある。そこで、たのむばかりで助かるとあれば、何にも外に御好みがないということがしれる。強(しい)て阿弥陀様の御好みいかんと尋ぬれば、己れがこのみは外にはないが、汝等の方から後生の世話(せわ)をやめてくれさえすればよい、それほどが弥陀の好みじゃほどに、すこしも、世話せでそのままながら助けてやるぞとある御ことをたのむばかりで、何にもいらぬ。好みはない。必ず助けてやるぞと也。

五一 順風、逆風
帰命は、仰せにしたがうなり。『略文類』に云く、庶(こいねぐぁくは)道俗等大悲船清浄信心而為順風。順風とは、船あれども逆風(ぎゃくふう)では船は行かぬ。それゆえに、第十八願の弘誓のふねは、たのむばかりでたすけてやろうと云うにさからわずしてたすけてやろうと云うに順(したが)うばかりて生死の大海をやすやす渡りて彼国に到(いた)る也。

五二 晴れた心をたのむにあらず、晴れさして下された御慈悲をたのむ也
うたがい晴るるばかりにて、御助けといふに就き、吾等はうたがいはれて居るゆへ御助けとこころえるは、吾うたがわぬこころをたのむなり。左にはあらず、疑われたまわぬ御ちかい唯一つをたのむなり。

五三 先手の勅命
弥陀の御たすけを知らぬものはなけれども、それを丸々たのまずして、我たのむおもいぶりに目をかけて、右の手は我おもいにかけ、左の手は仏にかけ、両方に手をかけて居るゆえに、まことに阿弥陀仏がたのまれぬ也。そこで吾方のこころにかけた手をはなし、阿弥陀様のたすけてやろうに諸手をかけ丸々仏の御はからい一なりと信ずるなり。

五四 方向変換
弥陀をたのむとは、向きをかえるなり。「向華山看花、向明月観明月。」機の方にむかわずして、必ずたすけてやろうとある大悲にむかう一念が後世たすけたまえの意也。

五五 直航、廻航
三帖目第七通『御文』に云く、「あいかまえて自力のわろき機のかたをばふりすてて、ただ不思議の願力ぞと、 ふかく信じて、弥陀を一心にたのまんひとは、たとへば十人は十人ながら、みな真実報土の往生をとぐべし。」執心はひっつひて離(はな)れぬことなり。海上の船は三十里五十里も真直(まっすぐ)にゆげは一日の間にも往かる。それが、諸所(ところどころ)の港(みなと)や島(しま)に立ちよると手間(てま)が入る如し。和讃に「久遠劫より此世まで、あはれみましますしるしには、仏智不思議につけしめて、善悪浄穢もなかりけり。」この就くと云が、自力につかずして不思議の仏智にひっつけよと仰せらるるなり。仏智不思議につきた上からは、信後の身のたしなみには、悪の方へつかぬやうに善の方へつくべし。故に大経に云く、「仏語弥勒、世間如是、仏皆哀之、以威神力、摧破衆悪、悉令就善、棄捐所思、奉持経戒、受行道法、無所違失、終得度世、泥?之道。」

五六 素顔
智道云く、やつしごころをやめよとなり。やつさねば亭主(ていしゅ)にすてられようかと繕(つくろ)うては、亭主のまことがしれぬなり。木地(きぢ)のなり、素顔(すがほ)のなりでやつぬ所が、亭主のこころをたのみ切った所なり。この方のこころをつくるうちは、阿弥陀さまのこころが知れぬゆえなり。やつしごころをやめて、生れた木地のままで御助け一を信ずるが阿弥陀さまをたのみ切った処なり。

五七 不取正覚は証文也
金を貸(か)すにも貸したる人が自から証文を書て握(にぎつ)て居るのでは益(やく)にたたぬ。向うの証文でなければ間にあわぬ。弥陀の浄土へ往生するにも、この方のこころのうちに助かる証拠(しやうこ)をこしらえては間にあわぬ。仏の方から六字の証拠をこの方へ取りおくべし。

五八 自力の手
弥陀をたのむと云ふことは、十九、二十の願の機も弥陀をたのむなり。然れども、自力の手をはなさずにたのむなり。自力の手をはなして、まるまる弥陀をたのむは第十八願の機なり。

五九 新たに頼み心を証拠にしようとするからむつかしい也。往生の証拠は昔の昔出来ていたりし也。
南無阿弥陀仏はわれらか往生の証拠(しょうこ)なり。ながながの間、反古(ほぐ)にして居たれども勿体なきこととあやまりて、今この証拠を用うるこころはたのむ一念なり。

六〇 一即一切
たのむ一念は、久遠劫来の自力雑行をはなれをる一念なり。

六一 雨傘、日傘
同じ笠(かさ)なれども、日笠は雨にあふと忽(たちま)ち破(やぶ)れる也。 平生悠々(ゆうゆう)の心(こころ)を以て自(みずか)ら善根(ごん)を修(おさ)むといへども、貧瞋煩惱(どんしんぼんのう)の暴風駛雨(ぼうふうしう)にあふては破れるもの也。

六二 忘己
存云く、仏は己(おのれ)を忘(わす)れて衆生を愛し給ふ。衆生は我を忘れて弥陀を頼(たの)む也。これは、仏の己を忘れ給ふ御誠(まこと)のとどきたるなるべしと覚(おぼ)ゆ。

六三 苦樂
苦の娑婆(しゃば)なれば、貴きも賤きも、山に棲(す)む人も里に住む人も苦のなき人は一人もなし。そのうち、後生を苦にす人は、最もすぐれたり。苦は樂の本といふ事あり。思ひ合はすべし。

六四 圓滿
滿(みつ)つれば缺(か)くる習ひ也。そのなかに漏れたるものは、萬行圓滿の嘉号(かごう)也。
何事も多きには飽くならひにも  もれたるはものば山櫻花
凡夫が此儘(このまま)仏になる事ばかりは、幾度きいても飽(あ)く事なし。

六五 相談相手
有人云く、みなの人落ちつきの出来ぬのは相談のかけ処がちがふて居るゆゑなり。埒(らち)のあかぬこのこころにそうだんするではない、埒のあく阿弥陀さまにそうだんをかくえきなり。

六六 我等が戒、定、慧の衣服は全く破れたり
着物(きもの)にも直しにかかる着物もあり、とても直しにかからぬ着物もあり。われらがこころは、逆も直しにかからぬあさましきこころ也。

六七 我等の目的
我等がたのむ的(まと)は阿弥陀さまなり。さればこそ、善知識と云は阿弥陀仏に帰命せよといへる使也と辨(べん)じたもうゆゑに、あてがちがひをすべからず。阿弥陀樣はわれらが機のあさましさが的也。われらは、阿弥陀さまのたすけそこなふて下されぬ御まことがあてちから也。的也。

六八 薬ちがひ
世間に樂ちがひをすると命を失ふことあり。われらが思ひは毒なり、御本願は醍醐(だいご)の命薬也。それをまちがへて、吾心をあてにすると、薬ちがひで毒にあてられて、往生を仕そんずる也。

六九 我等からいへば、凡てが、偶然也、仏からいへば、凡てが必然也
「必ず」とはまちがひなく助ると也。金を貸してくだされと云とき、承知した、必ず氣づかひするなといへば疑はれるなり。若しまちがひが千に一もあらば、此方ばかりをあてにせずに外へもたのんでおくべしと云ふ也。今も阿弥陀仏の方より千に一もまちがひがあらば我ばかりをたのむな観音(くわんのん)へも薬師へもたのみ置けとあるべきを、よくよく慥(たしか)なことゆゑに外をたのむには及ばず、我を一心にたのめ助けてやらう、必也とあれば疑が晴らさる也。

七〇 御誓
按じるこころから、按じ氣のない弥陀をたのむなり。按じる後生があるゆへに按じ氣のなき御誓を御成就なされて、われをたのめとの仰せなり。

七一 方便と真実
方便真実と云ふことあり。聖道門も方便なり。弥陀の四十八願のなかの十九二十は方便なり。第十八願は真実なり。『法華』の蓮に為蓮故華(ゐれんこけ)と華開蓮現(けくわいれんげん)と華落蓮成(けらくれんじやう)とあり 「諸経諸讃多在弥陀」の聖道門の経は、為蓮故華なり。十九二十は華開蓮現なり。吾国にても、横川黒谷の御化導はまま方便を帯て御化導あり。ゆへに、花びらが就てあり。吾祖は華落蓮成で、方便の花びらなし。ただ第十八願の真実なみなり。爾るに、今日の行者もこの方のはからひの色つやがありては、いまだ方便の花びらがつきてあるなり。この方のおもひぶりや、よろこびの花びらなしに、ただ第十八願の親様の弥陀の真実一すじをたのむべきなり。

七二 疑はぬはまことなるが故也
信心の信の字に、まことといふと、疑はぬとの二意あり。『廣文類』の信樂の信の字に、十二訓あり。略本には十訓あり。ともに疑はぬ、まことと云ふの二より外なし。

七三 唯証相應、本願相應
弥陀如来の本願の吾等が為に相應(そうおう)したるたふとさのほどといひ、また慶喜(きょうき)一念相應ともいへり。相應に阿弥陀さまから相應して下さるると、行者から相應するとの二があるなり。聖道門の相應は唯証相應(ゆいしやうそうおう)と云て、文字言句をはなれて真如の理とひッたりと相應する也。これは甚だ六ヶしきなり。今の相應と云は、左やうな六かしきことにあらず。本願と相應するは御したがひ申し上ことなり。それがもと仏の方からこの方へ相應して下さるるゆへに、行者から相應せらるるなり。相應に身分(みぶん)相應、 分限(ぶんげん)相應と云ふことあり。寺と寺との縁談、町屋は町屋同志、武家は武家同志の縁談、大家は大家同志、小家は小家同志の縁談が相應なり。それが大家から困窮人の娘をばもらうと云は不相應なことなり。けれども、箪笥長持(たんすながもち)等のこらず向から拵(こしら)へて、向からつりやふ樣にして、其方からは何にも拵なしに来てくれよといへば、その仰に御順ひ申さるるなり。

七四 「阿弥陀如来に向ひ奉りて」と仰せらるるから、どこに御居でかとたづねてもあふ事の出来なかつたのは道理也。我人生の歩みの出来るのは如来が背より抱へて居て下されたれば也    後生が大事ぢやとおもへば、必ずどうか、かうかの疑ひ計ひが出てくる。けれども、どうもしかたがない。それはしかたなひはづなり。計ふこころは小さく、はからふて居る後生は大なればなり。大きな後生は大きな御慈悲にはからはれて助かるなり。大きな着物(きもの)を子供にきせてあらゆまするは無理なり。大きな着物きながらも大人(おとな)がひつかかゆればゆかるるなり。どちらにしても吾身の後生なれども、このままながら必ずたすけてやらうとある弥陀に身も心もまかすなれば、阿弥陀さまの御慈悲にひつかかへらて浄土に往生をとげ奉るなり。

七五 ありがたき心は恐ろし
有人云、ありがたきとおもふ意ほど恐ろしきこころはなしと申されしと云云。

七六 助けたまへは、畳の上で水泳のまねをして溺れた時の思ひをするにはあらざる也。身代ありき也。真劍勝負也    西六條明信寺云、私は助けたまへと云ふか身代(しんだい)ありきりなり。

七七 他力にまかすとは、親の御慈悲の足手まとひをせねこと也    丸々他力と云は如来さまの御ひとり働(はたらき)にて往生なさしめ下さるるなり。

七八 回顧落道
回顧落道(かいこらくどう)と云て、わか心をかへりみては、これでどうあらふとおもひおもひするから往生のみちが失へるなり。木をうへて、たびたびついたかとおもふてぬいてみたり、ゆすぶりてみればいつまでもつかぬやうなものなり。

七九 眼と眼と合ふた時が心と心と遇ふた時也。声のきこえた時が信じたる時也
帰命とは、本願招喚(しやうくわん)の勅命(ちょくめい)なり。たのむはこの方のたのむなれども、御よび声のとどいた一念のたのみこころなり。『大論』に谷響のたとへと云があり、この方からよぶ声が、向の谷に響きて小だまとあらはれるなり。このたとへをとりそこなふて、よびこへを衆生のたのみこころにして、谷を如来さまにするにあらず。谷のひびきはこの方のうけかたなり。よび声は阿弥陀さまなり。

八〇 朝寝
朝寝(あさね)の息子(むすこ)は、親は朝な朝な之を呼び起す。呼んで起きざれば行いて肩をゆする也。まだ、起きざる時は、衾(しとね)をとり初めて起きる也。暫(しばら)くありても、出で来らざるが故に再び行いて之を見れば、また衾(しとね)を被りて尚ほ眠りつつあり。  如来は、種々の方便を以て我無明の睡りをさまし給ふ。一旦、さむるに似たれども、また更に到り見れば何時しか御慈悲を枕(まくら)として眠(ねむ)り居ることの淺間(あさま)しさ。

八一 聽聞不足
明信寺云く、頼むといふことは、これが機につかへるうちは、まだ聽聞不足也。頼む事の機につかへるにはあらず、頼むといふことが樂みになるが真実信心の得られた驗(しるし)也。頼むといふ事を嫌(きら)ふは、いまだ頼まねばならぬ、難儀が我心に起らぬが故也。  存云ふ、頼むばかりの御たすけを意得たりとも、助かるまじきものを助け給ふ本願の尊さの知れざる人甚だ多し。世上の学者多く、然り。我もまたその一人なりき。

八二 三品の懺悔
善教云く、喧嘩(けんくわ)の和睦(わぼく)が出来た時は、他人ならば酒を沽(こ)ふたり、誤(あやま)り証文もかかねばならぬも、親子の喧嘩の和睦には、何も沽ふたり書いたりすることはいらぬ也。他人の諸仏菩薩に封してならば、三品の懺悔(ざんげ)も必要なれども真実の親に封しては、たとひ三品の懺悔は出来ずとも、我心はこれ現(げん)に罪悪生死の凡夫とあやまりはつれば、仏は我等を攝取し給ふ也

八三 御茶一つ召されて
香月院師、美濃養老へ御出の時、澤田村八平衛へ御立寄あそばされ、御茶一つ召され、  「當流には、信心を得ねば地獄に落ちる。信心をうるといふは阿弥陀をたのむことじや。阿弥陀をたのむといふは、助けてやろうとある仰せを決定する一念の事じや程に、主人、この上は念仏を申して喜ぶのじや。サァ、御いとま申す。」  何時思ひ出しても、心得易く有がたき御化導也。

八四 紙幣は一国の実也
紙幣(しへい)は唯一国の実也。その真贋(しんがん)は国内に於てのみ論ずべし。他国に至りては既に不通用なれば、またその真贋も論ぜられぬ也。何れにでも、唯用ゆる事の出来るのは、真金のみ。我心の善悪好醜も、またこれ娑婆の論也。弥陀の浄上には、真実御六字の名号ならでは通用出来ぬ也。

八五 まん女の領解
越後三條部下にまんといふ女あり。大勢のもの集まりてまん女をとり圍(かこ)み、何卒御身の領解をきかせてといひよる。まん女、何にもいふこと知らずと答ふ。人々是非是非とせめたづねたれば、  いふことも出来ぬのをいへとは、むごう御座ります。私は阿弥陀様の此のまん一人をたすけんとて御苦勞ありたかと思へば、餘り阿弥陀様の御慈悲がむごいことと思ふて歡(よろこ)ぶばかり也。  といへり。皆々手をうちて感伏せり。

八六 御馳走の宴会に辨當を持て行く
伊勢の全慶(けい)云く、阿弥陀仏に向て此機を調へんとするは、御馳走の宴会に参るに辨當(べんとう)をこしらへて持参するが如し。  無益(ゑき)の損(そん)也。  向ふの家では、十人の客に對して、十五人、又は二十人前の膳が作りてあり、御馳走がしてあれば、如何ほど客は食ふた所が困(こま)るやうなことはなき也。  故に御文に「罪は如何ほど深くとも」とも仰せられし也。

八七 平生業成、一念往生
香樹院云く、臨終ほど大切なる事はなし。人間世界の人、皆な極月晦日のみに苦む也。仏法亦然り、然るに、我祖一人、その臨終の事は、心にかけるなとの給ふ。皆な皆な味ふべし。  ある人云く、平生業成の心にて候歟。  存云く、一念往生の義にて候歟。  香樹院云く、然り。

八八 機の上、法の上
船は之を陸上(りくじやう)に置く時は、多勢(おほせい)かかつても、なかなか動かぬもの也。若し、之を水上に置く時は、一人でも能く之をうごかすこと出来る也。往生の大事は、之を我機の上に置く時は、疑團解(ぎだんと)け難し。往生の一大事は、之を如来大悲の心水の上に置かば、その心決定して、ずるずるずると動き出して、我等は光明の廣海に浮ぶことをうる也。

八九 三九郎と庄松との問答
問云く、其許(そのもと)決定せられしかや。 答云く、決定せり。 問云く、如何が決定せられたるや。 答云く、我は助からぬと決定いたしたれば、阿弥陀様は必ず助くると決定し給へり。 問云く、若し間違はば如何なさるぞや。 答云く、仏は親樣ぢやさかい、よき樣にして下さるであらう。  こは洛陽(らくやう)の三九郎と讃(さん)州庄松との問答なりときけり。

九〇 二階より縄を下げて
二階より縄を下げて、人に之を握(にぎ)りて登れと教ゆれども人急に之を握り、また登らざる也。  若し、井中に落ちし人に縄を下げて之によりて登れと教ゆれば如何。  本願の呼び声をきき、名号の縄は目前に下りつつあるも、未だ機の助かり難きを信ぜぬうちは、あがり兼ねるもの也。

九一 汝が往生疑ひなし
若善云く、往年、越中愚婦、圓乘院(ゑんじやうゐん)の前に出でて云く、かかる淺間敷(あさましき)ものを、こお儘なりでたすけ給ふ阿弥陀様の御慈悲をききて往生を決定して歡(よろこ)び居り候。  圓乘院云く、婆々(ばば)、それでは、浄土参りは出来ぬぞ。 老婆云く、この婆々は、既に十方三世の諸仏にすてられたるもの也。それをば阿弥陀如来樣はこの儘のお助けときけり。然るに、今また日本に二人とない御講者樣より、それでは参られぬといふ御言まで蒙り奉る。もう何とも致(いた)し方はない。かかる致し方のないものを大悲の阿弥陀如来樣ばかりは、御捨て遊ばされず、必ず助けてやらうと仰せ下さることは、何たる難有仕合せぞと申して、いよいよ歡喜の色益々深かりき。  圓乘院云く、誠に能く聽きたり、汝が往生疑ひなし。

九二 如来、我、妻子
明真寺云く、向ふに極樂世界の阿弥陀仏あり、中に私の身あり、又そのこちらに、妻子あり、金銀財寶(ほう)あり、その金銀等は、向ふの阿弥陀樣の国に行くには、何にも用にたたぬ。ただ中にある此身が阿弥陀仏の国に至るより外なし。故に、金銀は、此世において行く者也。それを報謝に入るるは惜むこと勿れ。それを極樂ろ我身の中に置くと惜しき者也。

九三 慈威和尚云く
慈威和尚云く、「見人見徳(とく)方不可見失(しつ)方。同位等行人中方努々不可見、唯可見其人徳方也。又見愚癡(ち)下賤(せん)者可見仏性具足方也。」

九四 かかりあふて
この心改(あらた)めるにあらず、生れ心のあさましき所にかかりあふて下された御慈悲を信ずる也。

九五 五ヶ條
東照神君六十七歳の御文に云く、我儘にて遂に願(ぐわん)望かなひしこと決してなきものに候。
第一。我儘(まま)にては、親をおそれず、親にみかぎられ。
第二。親類にうとまれ。
第三。朋友にうとまれ。
第四。召使(めしつかひ)のものにうとまれ。
第五。我身の願ふこと、悉く叶はず。
右五ヶ条の通り成行候へば、身を恨(うら)み、天道をうらみ、後には、煩(わずら)はしく、心亂(みだ)るるより外之なく候。唯幼少より物ごと、自由にならぬこと能く心得させ申したき事に候。

九六 君に悪評あり
青木六右衛門云く、吾京都にて、之をきく、同行の友大病也、人を拂(はらふ)て竊(ひそか)に云く「君に悪評あり、夜な夜な當家に、鬼、火車を走らし来ると、君が安心いぶかし」。病者云く「それは、予が堕落(だらく)の相也、われ悪人也、我堕落せずして何人か堕ちん。かかる者をたすけ給ふ本願いよいよ貴し」とて、限りなく喜べり。友喜んで云く、「これ予が計策(はからひ)也、子が安心金剛の如し。安心せり」と。病者、大に喜んで、その厚情(なさけ)の深き事を多謝せりと。

九七 計略なりとも念仏するは難有し
又云く、石州の富家に老母の隠居(ゐんきょ)あり、至て厚信(こうしん)也。一人の按摩(あんま)常にその家に至り口腹を養ひ、殊に隠居に寵せらる。隠居念仏絶ゆる事なし。ある時、按摩戯れて云く、「かく念仏し給へば極樂の先きに行き給ふべし」と。隠居云く「汝が言我意に適せず」と、己来當家に出入する事を禁ぜらる。按摩如何に己が過を謝するも許されず、後之を人にはかる。有人云「我に一計あり、大声念仏して隠居所のまえの途を往返(おうへん)せよ」と。教の如くすれども沙汰なし。有人また云く「然からば、宅内に入て仏前にし、詣し、荐(しきり)に念仏すべし」と。按摩言の如くす。果して、隠居感心して来り、共々高声念仏せり。是に於て、按摩下座にさがりぬれば、隠居喜ぶ事限りなし。餘り喜ぶ事限りなき故に、「是れ計略(けいりゃく)なり」といふ。隠居云く「計略なりとも、念仏するはありがたし」と。愈々喜ばれければ、按摩も、その老母のよろこび骨髄に徹して自から懺悔(ざんげ)し、遂に厚信の人となれりと。

九八 畫餅
九州雲溪云く、聖道門の御法は繪(え)に書いた餅(もち)の如く、きいたばかり、みたばかりで食せられぬ也。

九九 身代りの本尊
淸五郎云く、丹波の同行、わざわざ河内の国に身代りの本尊ありときき、拝禮の為めに参りけり。その村邊にいたり田地を耕す人に、「この村内に身かはりの本尊ありときく、どの家なりや」と問ふ。その人、「それは、我家也」と、同道その人をつれ帰る。丹波の人、その家の仏を拝むに、血の流れたる痕も、またきられたる瘡(きず)もなし。故に、その由をとひければ、主人云く、「御身がはりの阿弥陀仏と云ふは、我等が為めに、我かはりに立たもう五劫永劫修行成仏の仏也。君のいひ給ふは。現世の身代りに立ち給ふ仏なりや。それならば當村何兵衛の方にあり。それは、たつた一度の事也。今拝み奉るみ仏は、盡未来際(じんみらいさい)、一度や二度にあらず、常に我等が身にかはり給ふなり」といひければ、同行も感伏してかへりけり。

一〇〇 油屋の拂ひは盲人は太儀がる
戒忽云く、油屋の拂ひをも盲人(めくら)は太儀がる、あかしの力をかるものは、油の代を惜く思はぬ也。盲人は油のお蔭を蒙らぬ故へ太儀がる也。信を得ぬ人なれば御報謝が太儀なれども、仏の御慈悲にて、往生に安堵(あんど)したる目のあいたものなれば、御報謝を精出してつとむべき事にて、太儀なれば、あやまり入るべし。

一〇一 妙好人新藏
雲溪云く、豊前の国宿見村に新藏といふ後世者あり、ある時、三四人より集まり評して云く「新藏は後世者故へ、さらに立腹する事なし」、一人云く「然らず、立腹する程のことを為かければ立腹もすべし」と。互に論じけり。一人云く「然らば、これより彼の家に到りて立腹さすべし、いざ来られよ」と、相つれだちて、餘人は門外に待たせ置き、悪人一人内に入れり。新藏爐邊(ろへん)にあり、妻は庭に居りたり。悪人、家に入て新藏をののしり、その方、仏教信者といふは僞也とて、土足にて新藏を庭へおとしけり。  新藏は「これは、あらき事をなさるるかな、この方へ来る同行は、多く左樣には致さぬが、御意見はありがたし。お足をも洗ひ下され、篤と御異見下されよ」とて、妻に湯をわかさせ、足をすすがせ、又た御同道もあらば、入らせられよとて、皆々足をすすがせて、御馳走して、少しも立腹の氣色なければ、悪人も感心して、我あやまりを述べ、法義話になり、終に後世の道に入れり。逆縁(ぎやくゑん)空しからず、有難しと也。又同ぐ新藏、長くわづらひて、髪もそらず、角力の席に見物に行きけり。角力のかかりのもの、穢多(ゑた)入り来れりとて打擲(てうちやく)しけり。新藏、打にかへり、妻に云ふ、「さてさて難有や、我はまだ信は得ぬと思ひしに、今日は得た(穢多)得たと申されけり」とてよろこびぬ。  又云く、西国に後世者なれども、大困窮(こんきゅう)の人あり、主人田にゆけり、家内畫飯をもち行かんとすれども、米泣くほかに行ても、ととのはず、せんかたなく帰るさ、寺に立ちよりて仏法の話をきき晩景に及べり。かくて家に帰り、夫に對して寺にたちより御法の餘りに難有くして、畫飯を持参することを忘れしことを謝す。主人云く「その方は運よし、我は畫飯を持来らぬ故へ、一日腹を立て罪を造れり、仕合よきはその方也、いざ、我にも、その御法をきかせて呉れよ」とて、段(だん)々とききけり。  又云く、西国に小寺あり、住持(じゅうじ)は轉派の事にて江戸に参りて十年程居けり。留主中に母死す、若き娘両人寺を守りけり。ある時、娘は火を離れて仕事するに、汝はなぜ精出さぬぞと云ひければ、その時、下女云く、「つめたひ故へ火にあたる、ねむたければねる、いたくな責めぞ」といひける。娘仏前に参り、云く「ああ。我は何たる仕合せあしきもの哉、父は遠国に行き、母は死し、下女にさへあなどらるる事の悲しさよ。とても此世はかくの如く仕合あしければ、唯後生を願ふべし」とて、しくしく泣けり。下女至り故を問ふゆえ、かくぞと告げれば、下女云く、我の如き悪女も仏は助け給はんや」と問ふ。娘嬉しくて「淺間敷ものほど弥陀はあはれみて棄て給はずと聽きぬ」といへば、下女もまた後生の道に入りにけり。

一〇二 かの女云く
新田村かの女云く、阿弥陀樣は、汝が後生の助かるやうに、これから思案してやらうとの給ひても嬉しかるべきに、はや知らぬさきに、思案も修行もなされて下されたとは何たるありがたきことぞや。

一〇三 武勇の力、勘忍の力
熊谷蓮生坊、關東下向の時、追剥(おいはぎ)にあひ、衣類まではがれ、やうやく人家に入て、紙衣を得て、
いにしへの鎧にかへて紙ごろも  風のもらねば寒さ忘るる。
昔ならば、盗賊の五人十人、物の數とも思はぬ一騎當(きとう)千の大將なれども、既に剃髪染衣(ていはつぜんえ)の身となれば、盗難(とうなん)にあふて敵せず、昔の武勇の力は轉じて、今は堪忍の力となれり。  仏法者は堪忍尤も大事也。堪忍増上すれば、敵もその心底をおそろしく思ひ、敵となる心もやはらぐ也。

一〇四 帰去来
智憧云く、我等は三界に家なし、その果報つきぬれば、たたき出さる也。嬉しや、その時頓に他鄕をすてて、親の本国にかへる也。

一〇五 この世では重い荷物は
この世では、重(おも)い荷物は親に持(も)たさぬもの也。されど、後生の重荷(おもに)のみは。親樣が持つて下さるる也。

一〇六 早作仏
『論註』に云く、「速かに阿耨(のく)多羅(ら)三藐(みゃく)三菩提を得といふは、是れ早作仏を得る也」。  この秀存が直ちに仏になるとは、実にありがたし。

一〇七 皆な非也
「迷情の四句は皆な非也」。弥陀のたすけ給ふ事の知られぬうちは、皆な非也。

一〇八 解信と仰信
解(げ)信にて往生すべきや、仰(ごう)信にて往生すべきや。  『六要鈔』に云く、「三心とは出離の直因、行者の最要なり。解信、仰信、よろしく機根によるべし。共に仏智に帰すれば、往生疑ひなし」。

一〇九 我機の臺より芽を生ぜぬやうにすべし
接木(つぎき)すると、枳穀(きこく)の臺にも蜜柑(みかん)が成る也。されど、臺(たい)の 枳穀(きこく)からも、芽をふくから、時々きりとらぬと本芽が痩(やせ)せる也。信心を得たりと雖ども、我機の臺は悪性なれば時々邪見我慢(まん)の芽を生ずる故に、之をきり去ることを忘れてはならぬ也。「そのまま、うちすて候はば、信心もうせ候べし」。

一一〇 香樹院の客舎に招かれて
嘉永三年九月九日、香樹院の客舎に招(まね)かれて酒など賜はりけり。その時、師には法義の御話ありけり。  香樹院云く、凡そ人々は、我心中をこしらへる事にかかりて、居る故、其心中は、我がこしらへもの也。教へる人も唯理屈のみを教へて造ることに骨(ほね)を折(お)るなり。唯、信心とは、聞其名号信心歡喜(もんごみやうごうしんじんくわんぎ)の八字を我腸(はらわた)とするばかりなるに、さう思ふ人甚だ少なきは殘念(ざんねん)也。  存云く、唯仏の力一にて、助け給ふぞと信する外に聞其名号といふ事もなしと聽聞(ちやうもん)致し居候。  師云く、それでよし、それでよし。

一一一 この度の往生は如何
この度の往生は、算用合せて落つくにあらず、算用は親のあなたがあはせ給へば、我等の手許は、算用のあはぬなりで御たすけを信ずる也。

一一二 機之問題
嘉(か)永三年八月十二日夜、つらつら思ふ樣は、とかく、我心中は、我たのみ心があとからあとからながめられ、機世話(きせわ)の離れかねたる心中也。  たのむといふ事は、阿弥陀如来のたすけ給ふ事を信ずる事だと思ふて見れば、誠にやすらかなれども、さう思ひながらも、尻目つかひの離れ兼ねたるは我心中也。  思ふに、これが計らひといふもの、機あつかひといふものにやあらむ。若し機あつかひなれば、これは雜修也。されば、この機あつかひをさつぱり離れて、さらりとした心中になりたく思ふ也。然し、また退いて思へば、やはり、自力のはからひにあらずや。思へば、思ふ程、機世話のやかれて、一夜心中大に苦惱(くのう)せり。  ふと思ふに、元祖は聖道の行をつとめる人に對して行からすすめ給ふ、これ皆な應病与藥(おうびやうよやく)の御示にて、つづまる所は、本願の不思議を信ぜしむるに在り。されば、私如き機のながめらるる病のある身には、その病に應ずる御藥を頂くの外なき也。私の病に適中の御藥とは、『末灯鈔』教名坊(けうめうぼう)へ下されたる親鸞聖人の御消息に云く、「ただ不思議と信じつる上は、とかく御計らいあるべからず候。往生の業には、私の計らひはあるべからず候也。穴賢穴賢。唯如来にまかせ参らせおはしますべく候」。また、同鈔に云く、「ただ不思議と信じつる上は、とかく御計らひはあるべからず候。往生の業には、私の計らひあるばからず候也。穴賢穴賢。唯如来にまかせ参らせおはしますべく候」。また、同鈔に云く、「ただ不思議と信ぜさせ給ひ候ひぬる上は、煩はしき計らひあるべからず候」。また同鈔に云く、「仏智不思議と信ぜさせ給ひ候ひなば、別に煩はしく、とかくの御計らひあるべからず候」。また『和讃』に、「不思議の仏智を信ずるを、報土の因としたまへり」ともいへり。  これらの御化導は、真に私の機あづかひの病には、相應の妙藥也。然らば、凡夫往生の鏡(かがみ)たる『御文』に「たのめ」とある御言は、我藥にならざるかといふに、既に「弥陀を」とのたまへば、仏智をたのむも、弥陀をたのむも、畢竟同じ事なるべし。

一一三 弥陀の名義を知らざれば往生かなふまじきや
問ふて云く、たのむものを助け給ふといふ。然らば、弥陀の名義を必ず知らざれば、往生かなふまじきや。唯弥陀の御助けとのみ信ずれば、之れにておうじょうすべきや。  答へて云く、『六要鈔』に、「知与不知、共得往生」といへり。何れも往生する也。

一一四 下女の箸箱
御三家の鎗(やり)には別に鎗印なし。その印なきが即ち御三家の印也。家内一同の箸箱(はしばこ)には、各々その名を記すれども無筆の下女の箸箱には何らの印なし。その印なきが即ち下女の印也。  我他力の印は、「無義を義とする」也。

一一五 うらうらとは、のどかなる心也
『古徳傳』七に「ただ、うらうらと本願をたのみ、南無阿弥陀仏と怠らず稱せよ」とのたもう。  『呉竹集』に、「うらうらは和の字也。のどかなる心地」とあり。然れば、うらうらと本願をたのむといふは、理屈などをせせましくいはず、唯うららかに、ほんのりと頼む意なるべし。  『帖外御文』五、蓮如上人の御歌に
ほれほれと弥陀をたのまん人はみな  罪は仏にまかすべきなり
今、このほれほれと弥陀にたのむといふと、うらうらと本願をたのむといふのと、自ら同意なるべし。

一一六 まかせたる娘
若き娘が御前(おんまえ)に参りて了解(りやうげ)を長々と申上げられたれば、師はお喜びなされた。それでは、親が若し御身を餘家(ほか)へでも嫁入せよと言ふても行くかやとの仰せに、はい参りますと答へたれば、益々御喜びなされた。

一一七 同時前後
信の頂(いただ)けぬは明師にあはさるが故也、こごとが盡(つ)きぬのは、きき樣がたらぬ故也。これで淺間しいの、邪見なのといふものでない。丸つきり、あさましいから助かり、邪見であるから頼むのじや。然らば、たのむのが先きか、たすかるのが先き乎。何れでもない。同時前後じや。順ひ奉る心が、即ち頼(たの)む心也。

一一八 雹
『華厳経論』に云く、「有人見雹請是瑠璃取之?内皆悉成水。後見真瑠璃亦請為雹棄而不取。世人皆然不應取而取、應取而不取也」。『大疏鈔』十九にも之を引けり。

一一九 とりつく所なきを他力といふ
「とりつかぬ、力にうかぶ蛙かな」。こは芭蕉門下十哲の一人丈草の句となん。魚は鰭(ひれ)を水中に動かし、鴨は水かきを水中に動かす。濁り水中に浮んで、聊かも動かず、水力のみにまかすは蛙也。今も、仏りきのみにまかせてとりつく所なきを他力とはいふ。

一二〇 大事
私云く、衆生は、我後生を大事にせねども、弥陀は衆生の後生を久遠劫来大事と思ひ給ふ。

一二一 真似なりとも
「上みれば足らはぬこともありぬべし、下みて暮せ人の世の中」といふは、世間の事也。後生の事には、我より上の人をみて、せめて、まねなりともせよ。

一二二 親の御恩を知るも親の力也
他力の不思議にたすけらるるといふ事を信じたるも他力不思議の力也。如来の御はからひで往生するぞと信ずる心も如来の御はからひより起る也、親の御恩を知るも、親の力也。「明月によりて明月を見る」。然らば、念仏の行者は、全く仏の御力ぞと信じ喜ぶべき也。

一二三 書き損じたる手紙は引き破るにあらずや
実行坊恵燈云く、我あしきこと、つとまらぬことなどに道理をつけるがあしき事也。故に赤尾道宗は、あしき心をひき破りて御慈悲を信ずるとは申されたり、ありがたきこと也。  又云く、久遠劫来の親さまを御みそれ申さぬ樣にすべしと。

一二四 仏凡一体
日生信女は、この南無阿弥陀仏は阿弥陀樣也、私也と存申候。

一二五 蚊虻
蚊虻(ぶんぼう)、若し鳳凰につきぬれば、九空(そら)にかける也。鳳凰の羽根がそのまま蚊虻の羽根となれば也。なりしは、とりつきたるが為めにして、我等も信じまかせば、弥陀の願行が我願行となりて浄土に往生することを得る也。

一二六 往生を如何程にか思ひ定めたるや
『黒谷傳(くろたにでん)』 に云く、  「禪勝房(ぜんしやうぼう)、ある人に往生をば、如何程にか思ひ定められて侍べると問はれければ、左の手のこぶしを右のこぶしにてうたんに、うちはづすまじきほどに覚へ候と申さるをきき給ふて、あな、あぶなやと申されければ、さては、それにすぎなば、何と思ひ定められ侍べらんと申しければ、生あるものの師に帰せんとする程に一定と思へり。我こぶしにて、我こぶしうたんは、はづることあらんぞかしとぞ申されける」。

一二七三 寶と宗旨
慧空大講師云く、宗旨に三寶の別あり。我宗は仏寶也。宗、若し僧寶なれば法相宗の如く習ふて勉むべし。宗、若し法寶ならば仏心天台宗の如く、学んて之を修むべし。宗、若し仏寶ならば仰て信ずべし。果分不可説の極致は知るべからず、習ふべからず、ただ仰ぐべし、信ずべし。

一二八 自分の腹のふくれたか、ふくれぬかを人に問ふは愚也
明信寺云く、信を得たか得ぬかと思ふは、まだ信を得ぬ人也。信を得た人はその論はいらぬこと也。山坂を越えて向ふに行く人の峠を越したか越さぬかと思ふは越さぬうちなり。越した人にはその疑ひは起らぬ也。

一二九 坊主
越中の大車云く、生姜(しょうが)は、風邪藥(かざくすり)に入るもの也。こは、能く人の風邪を治する効能(ききめ)あれども、その生姜の風をひきたるのは、少しも間にあはぬもの也。  坊主は、人をすすめて往生せしむる効能はあれども、その坊主の信なきは、その身になりて、何の益にもたたぬもの也。

一三〇 また、あと先きになりました
渡津(わたし)にて某いへるやう、この渡しを若き時より何度も通りたれども、やうやくこの節では弥陀につれられて渡ると。人難して云く、當流は一念にたすかり、弥陀におくらるる也。故に、弥陀につれられてにあらずと。老婆之をきいて云く、「またあと先きになりました」。

一三一 信ずるにあらず、信ぜらるる也
明信寺云く、人皆な仏の心を知らんとのみ欲して、仏の我心を知り給ひたる事を思はぬ也。

一三二 『關の夜嵐』
尾州守綱(しうこう)寺云く、白河候の作に『關(せき)の夜嵐(あらし)』といふ草紙あり。よみて見れば、種々面白き事あり、八冊ありとなん。雲華院もみられたりと。そのうちに、我きく、蚤(のみ)、虱(しらみ)といふものは、虫のうちにてもいぶせきもの也。然るに、我、その蚤といふものは知りたれと、虱といふものは未だ知らずとあり。これ知るを知るとし、知らざるを知らざりとする也。何事も境界分限也。乞食非人の境界は、蚤、虱を知る、大名の境界にては、我境界にあらざるゆへに虱を知らざる也。境界ことなれば、知られぬ事あり。  仏の境界は凡夫の知る所にあらず、唯仏になることは仏にまかすより外なき也。

一三三 不幸と思ふものは不幸也
幸福と思ふものは幸福也    帖外御文に云く、知禪勝尼常に人にかたりしは、我身ほど、世に果報のものはよもあらじと思ふ也と云云。

一三四 主人、店頭に大福帳をつけて居る、僧来り問ふ。主人云く、『大般若経』を轉讀しつつありと    伊賀の三左右門、ひまなく念仏して、帳面(ちやうめん)をつけそこなふを妻の諫(いさ)めければ、この世の僅かの事ですら、忘れじと帳面につけるのに、永劫の迷ひを轉じてたすけ給ふ御恩の念仏をいかで忘るべきやと云々。

一三五 助けられし覚えなき身には、太儀に思ふならむ
ある時、老人あやまりて水中に落ち、人ありて危(あやう)き 所をたすけたり。  その年の節季(せつき)に、餅(もち)をつきて共に祝(いは)ふ事限りなし。この時、老人、先日我を水中より扶(たす)けくれし人にまいらせんといへり。家内皆な諾(たく)せり。翌年の節季に、また、餅をつきて祝ひ、之を扶けくれし人に参らせんといふ。子息(そく)云く、今年もまたやり給ふ乎。その時、老人云く、如何にも、参らせんと思ふ也。あゝ、汝等は。左樣思ふも道理也。助けられし覚へなき身には、太儀に思ふならむ。今も地獄へ落る我を助け給ひしことの身に覚えあればこそ、御恩報謝も出来る也。この覚悟なき人が、報謝を太儀がるはその筈也。

一三六 一人居て喜ばヾ二人と思ふべし
霜月(しもつき)十九日預修(よしゅう)報恩講の前夜所為らく、明日は我祖弊寮へ入りたもう、何をか宗祖に饗(けう)し奉るべきや。思ふに、聖人の教通りの信を頂くにしかず。「至心信樂己を忘れて、速かに無行不成の願海に帰する」より外はなき也。

一三七 明信寺示談
安政四年十月九日後生を大事とて明信寺の宅に至る。このとき、同寺云く、
一。今まで聞きたる事に聞きたしてそれですます也。それで決定の心はなき也。今までは凡心也、その外に仏の御恩を頂いて往生を決定する也。
一。我領解を以て虚実を調(しら)ぶ可からず、仏の手許にさへ夜があけなば、我心の虚実(きよじつ)をたヾすには及ばぬ也。
一。當流にはさとるにあらず、我等はさとられぬ故に、親樣の方のさとりをその儘貰ひうける也。行者のさとるは未来也、此世ではさとられぬ也。

一三八 正客、御相伴
勢州しま女云く、三河にそのといふ女あり、ある時、御本山御影堂(ごえいどう)にて、四人の同行打集(うちあつま)りて法義を語る。信州の僧、その傍にて潜(ひそ)かに之をきヽ、法談終りたる時、件の僧その女に對して、ありがたきことを聽聞せり、誠によき御相伴を致したりとて禮を述べられたり。その時その女云く、御相伴とは、如何なる御心得にて候や。御相伴にては今度の往生は覚束(おぼつか)なし。我こそ本願の正客(しょうきゃく)なりとおうけが出来てこそ往生すべしと申されたれば、伴の僧、誠に難有御異見(ゐけん)をうけたり、これ生涯(しょうがい)の大幸なりとて、深く喜ばれしと物語ありたり。

一三九 背水之陣
機の深信は、川をうしろにして陣(じん)どりをする也。

一四〇 池大雅
行忠云く、越後に畫人ありて上京して雨の日大雅(が)をその家に訪へり。先づ足を洗ひ給へと摺鉢(すりばち)に水を入れて来れり。足を洗ひて上にあがりければ、女房は直ちにその摺鉢にて味噌(みそ)をすり、食をこしらへ、酒を飲みたり。大雅云く、子と我とは海内の畫人也、合作せばやと一枚の畫をかけば早速卷(ま)きて勝手(かって)の方に持ち行きたり。程なく、肴出づ。乃ち知る、畫を代として肴を求めたりしをと云云。

一四一 里謠正調
ある人の口づさみに
合點(がてん)ゆかずばゆくまでききやれ   きかば合點のゆく御慈悲
合點したのはききたにあらず  それは知りたの覚へたの
合點せいとは口ではいへど  不思議不思議の外はない

一四二 学字解
香樹院云く、学の宗に就て『光記』に持(じ)也といふ釈あり。字書になき面(おも)白き解也。然らば、有学(うがく)とは、教を持つ分齋(ぶんざい)也、無学(むがく)とは教を持つことを用ひず、自然にまなぶ也。有学無学の釈名も能く出来る也。

一四三 歌四首
〇    世の冨は月すむ夜半におく露の   風(かぜ)をまつ間の光なりけり
〇    かりの世のさかりをまたぬことはりも  ふさながらちる花にこそ知れ
〇    おしからぬ命ながらもたらちねの  ある世はかくてあるよしもかな      〇    風そよぐ野邊(のべ)のあさけの秋萩に  おく露(つゆ)よりも身(み)ははかなけれ

一四四 商賣片手
在家には信をうる人多く、出家には少なし。その故は、在家は我商買止(しやうばいや)めて我身が助かりたい斗(はか)りにきく故に信をうる也。出家は、きヽて、それを我商買の為にする也。所謂商賣片手(しやうばいかたて)にきくゆへ信を得ぬ也。

一四五 東都の狂歌師
近来、東都に森羅萬象(しんらばんしやう)といふ狂歌人あり。その人の歌に
我妹(いも)は月の桂(かつら)をうみ出す   武藏野といふはらはかりもの

一四六 頓成の御糺
香樹院云く、頓成(とんじやう)機の深信の義を立つるに就て二條御役所の御糺(ただし)となり、二條御役所より、二種深信御糺に就き講者よりその義、書(か)き認めあげよとある時、香樹院の書上(かきあげ)に云く   「二種深信ともに他力也。就中、機深信他力といふ こと最も肝要也。頓成は機の深信は法を信ずるまでの 善方便といへど然らず、總じて、古来の異解不正義を つのる者數々あれども、皆なこの習より起れり。我機 のたすかられず、自力の善根も分別もまに合はぬとい ふことは、法藏因位のとき、識知したまひて、それ故 に、その行者のなすべき願行を仏の方になし給ひたる を六字に、成就し給ふ故へ、六字をきく所にて、この 機の方の所修の善不善、すべて無益なりと知るは、方 藏因位の識知より起る也。かヽるものを願力にてたす けたもうといふは、もとより也。故に、二種ともに、 他力より起さしむるもの也。これ浄土真宗開山の極秘 也」。  と。二條の奉行云く、衆生がたのむゆへに、仏がたすけ給ふを他力とは、固よりきけり。我身のたすかられぬといふ機までも、全く他力とは今度初めて知りたり。いかにも開山の正意ならむ。親鸞聖人他力の衆意、奇妙奇妙々々。と。之れより、江戸公議までの御捌(さばき)となり、御老中及び御奉行も、この二種深信他力の宗教には、みな感心せられたり。  存云く、機の深信他力と知りたるやうにて知らざりしものは私なりき。それ故に、立かへり立けへり、我胸の穿鑿(せんさく)せし事の勿体なや。噫、これを知るは仏祖の御恩也。近くは頓成の逆縁(ぎやくゑん)也。   私云、法に協ひたる形式のみの教よりも、反て間違ひた  る事実も、実際的なれば、人を益すること甚だ多し。

一四七 歌三首
安心
このみのりきヽうる事のかたきかな  我かしこしと思ふばかりに
無常
世の中の常なきことの知らるヽは  仏のみちに入る初めなり
他力
なかなかにこヽろをそへず唱ふれば   生るヽことの安き極樂

一四八 不可言
大車(しゃ)云く、ある信者云く、御安心の御謂れは、初めは口にいはれず、それよりいはれるやうになり、またいはれぬやうになる也。いはれぬやうになるは、餘り廣大なる事が分るからであつて、唯不思議と信ずるより外なきが故也。

一四九 使は来れり
源三位頼政(よりまさ)の歌に云く、
花咲(さ)かば告げむといひし由里の  使は来たり、馬に鞍(くら)置け  遠くから見ていては、櫻か雲か思ひ定め難きも、いよいよ向ふから、花咲けりと申し来れば、一人手に落ちつく也。この方のみの心では落ちつかれぬも、御勅命をきけあ自然に疑ひは晴れるなり。

一五〇 まける事、まけぬ事
雲溪云く、まけきらひのものなれども、唯御報謝には人にまける事をいとはぬもの也。

一五一 歡喜地
歡喜地(くわんきぢ)に三あり、聖道門の歡喜地は一大阿僧劫の滿(まん)ずる時に得る也。浄土門中の化土では、観経上下品の利益三小劫にして得る也。真実信心の人は、信の一念に得る也。

一五二 無價の寶
有人云く、金は箱(はこ)にあればつかはずとも、つかへると思ふ故へ樂みにある。此世だけの寶でさへ、あれば樂しみになる。南無阿弥陀仏の寶を我胸に貰へば樂み深し。

一五三 細川侯と西吟
妙道寺隠居云く、某月廿八日に細川三齋(さい)侯、西吟(ぎん)を呼び給ひ、酒をすすめ、鯉(こい)を得たればとて吸物(すひもの)として出し給へり。  西吟、うやうやしく頂きて啜(すす)れり。侯云く、貴僧喫するやと。吟の云く、「啜汁者君之賜也(たまものなれば)。不食肉祖忌日(きじつ)也」と。  侯大に感心し給へり。

一五四 下げ札
門野説誠云く、山道を獨歩するに、道に「左山道、右往還」といふ下げ札あり。その先きにまた分岐あり、また其通りの下げ札あり。また少し行くと、其通りの下げ札あり。その下げ札に順へば、紛れなく行く也。  『正信偈』に「不斷煩惱(だんぼんのう)」の下げ札あり。御『和讃』に「願力無窮(がんりきむぐう)」の下げ札あり。また先に行けば『御文』に「罪はいかほど深くとも」の下げ札あり。下げ札を信じて参るが極樂浄土也。

一五五 夢
香樹院の歌に
夢や夢、うちかさなれる夢のみぞ  さめしうつヽも夢の世のなか

一五六 負ける事
信次郎、是からは、唯負ける事に骨を折るぢやぞや。

一五七 心持ちの悪い時は
香樹院に一蓮院のお尋ねに、信には疑ひなけれども、それでも心持ちの悪い時が有ますが、こんな時は、いかヾしたらよろしきや。
香樹院の仰せに、そんな事は他にいはずとも、念仏していらしやれのう。

一五八 如来樣の御力ばかりの同行
三州牛田の金次、信次郎氏より直接にきヽしといふ話に云く、  一蓮院樣、江戸に御越(おこし)の折、詰(つめ)所にて四人斗(ばか)りの同行への御示談に、唯如来樣の御力斗りと御きかせになり、その御帰館(きかん)の途(みち)すがら、信次郎に仰せられけるやう。信次郎今晩の四人の同行は、何処の誰々といふよりにきの同行斗りたつたが、よりぬきの同行斗りの斗りにならずに、如来樣の御力斗りの同行になりし者が少ないと御なげきありしと云云。

一五九 歡喜銘
幸得人界生  幸逢泰(あふたい)平世
幸具足五根  幸得衣食住
幸遇誓強縁(ちかひのごうゑん) 幸得易行法
幸汲(くむ)真宗流  幸値(あふ)真知識
幸得大信心  幸近無上果

一六〇 御慈悲を頂いて、初めて、我身の何たる事を知る
傳説云、備中に五瓢先生あり、初め四瓢を得、更に一瓢を得ずして之を煩ふ。  或時、酒を飲みて泥酔し、濁り自から笑ふて云く、過りたるかな、我之を外に求めし事。我身是一瓢と。

一六一 日は朝な朝な東より出で夕な夕な西に沈む
江州高野村廣部(ひろべ)信次郎への御話に、一生骨を折つてきヽたれど、どうなるものでも、かうなるものでもなかつた。たヾ、もう、如来樣が助けてくださるのであつた。これは、三国一の学者でも、なかなかしる事はかなはぬ。

一六二 この儘
美濃国定右衛門といふ人、仏法を大事にきけども、未だ安心が出来ぬ故に、京都に上りて一蓮院に願ふて示談ありし時、一蓮院の仰せに、   そのまヽ御助け下さるのぢや  また種々申上げたれば、   そのまヽ御助け下さるのぢや  まだ分らぬ故に、種々申上げたれば   そのまヽ御助け下さるのぢや  といふて、御引きなされた。

一六三 うろうろしています
私は、うろうろしています。さうかそのうろうろして居るものを御助け下さるヽのぢや。

一六四 この棒杭
周歡云く、關東の人、同行をつれて上京す、京のこなた追分の棒杭(ぼうぐひ)を見て、住持にあの棒は何の為ぞやと問ふ。住持の云く、右へ往けば伏見と教ゆる也。同行曰く、それは知らぬにもあらず、然るに、この棒は、京へ行きたるをきかず、唯人に教ゆるのみ也と。住持、棒杭こそ我也とて謝(あやま)りけり。

一六五 百姓、商人、人類
全慶(けい)云く、田をつくる故に百姓也、商ひする故に商人也。  人道を守る故に人間也。

一六六 「こそ」の義
密(みつ)正云く、「こそ」は他につけるべし、手前につけると六ヶ敷也。子は親なればこそ、親は子なればこそと思ひたき也。夫婦兄弟皆然り。また衆生は、阿弥陀樣なればこそと思ひ、阿弥陀樣は罪ふかければこそ助るぞとのたもう也。

一六七 六字三重の義理
唯泉寺云く、越後の僧にきけり、六字に三重の義門あり。一。六字六字の義門。これは、仏の方よりも、たのむものをたすけんと呼びたまひ、衆生もたのむばかりでたすかるとうくる也。譬へば、釣をたれるに、さげたる糸の針の如く、さげたるも、くひつくも、倶に一の釣針(つりばり)也。二、二字四字の義門。南無はたのむ機也、阿弥陀仏はたすけ給ふ法也。これは、十両の金を三両と七両と合して、十両とするが如く也。三、二字四字即六字の義門仏はたすける程にたのむ也。衆生はたすけたもう仏をたのむ也。故に南無のたのむ機も、助けたもう阿弥陀仏になれず、たすけ給ふ仏も南無するものをたすけ給ふ故に、南無といふも六字なり、阿弥陀仏といふも六字也、これは、十味合した藥を丸めたれば、これを二に斷(わ)りてもどちらにも十味(み)がこもりている道理也。

一六八 仏前の御燈明
諦信云く、北国に厚信の家あり、寝(い)ぬる時、家内中、かはるがはる仏前へ参り御燈明(おあかり)をけすが常なりき。ある夜、下男、番にあたり、掌(たなごころ)を以てさんとして油こぼれたり。勝手にかへり、恐る恐るその事を告げ、之を詫(わ)びけり。その時、主人云ひけるは、「それは誠に難有也。若左なくんば、明日まで、我仏前に出ることなかりしなるべし。ありがたき御縁也」とて、自から仏前に行きて油をふきけるとぞ。

一六九 強き碁うち
強(つよ)き碁うちは、二十手も三十手もさきが見へる。弱(よわ)き碁うちは、さきが見へぬ。われらは、弱き碁うち也。阿弥陀樣は強き碁うち也。

一七〇 大違ひ
茶は人がのむ、蛇は人をのむ。すこしの違ひが大なる違ひとなる也。

一七一 一たび一むきとなりて弥陀をたのみ奉れば、この後は右むいても左をながめても、十方の諸仏の之を証誠し給ふことを見る也    一向とは一むきなり。一むきとは、一方むきなり。左もながめねば右もながめぬといふことばかりではない、我身もながめず、横目つかひせぬばかりではない、尻目つかひもやめてしまうて、阿弥陀仏にむかひ奉てあるゆへに、たすけてやらうの阿弥陀さまに、一方むきに御向ひ申しあげて、あなたをたのむばかりなり。

一七二 信力乎、仏力乎
信心でたすかるか、仏力でたすかるかといふに、どちらも御教化の御ことばにあるゆへにどちらもすてられぬ。そんなれば、両方のもちやいかと云ふに左にあらず、たのむ信心の力でたすかるのなり。けれども、その信力と信に力のあるのは、すなはち願力からあたへられた力なり。私に一譬喩を以て示すべし。大車(くるま)に重擔(おもに)をつけて子供にひかするには、親があとから己れがおしてやるほどに、さきへ回りて車を引けといふ。子供の力で車の動くはづはないけれども、あとから親が力を出しておすゆへに、親の力が子のちからになりて、重き車もゆくなり。その子に力はなけれども、親の力が吾ちからになりて、車がゆくゆへに、子がひくけれども、子の力は親の力なり。今も後生ほどの大事が、衆生のたのむので助かるはずはなけれども、阿弥陀さまの方に、大願業力あるゆへに、その願力で衆生に与へて下さるゆへに、願力か衆生の力となりて浄土へ往生をとげるなり。私に案ずるに、人多く法をきけば衆生の方に助かる力が出来て、往生するとおもへども不爾(しからず)。法をきけば、衆生の方に助かる力のなきことかしれるなり。ゆへに、弥陀の御力のみをたのめば、浄土に往生するなり。

一七三 信は母也、行は父也。子の為めに、時には親同士が互に腹立て合ふて一致し給はぬともあれど、一致し給はぬは、実は一致し給ふ御慈悲から也。    『和語燈録』四廿二右云く「一念十念にて往生すといへばとて、念仏を疎相(そそう)に申せば信が行を妨るなり。一念十念を不定におもへば、行が信を妨るなり。故に信を一念に生きるととりて行を一形にはげむべし」と云々。

一七四 後生の三位 (図にて省略ーーHP文書作成者)

一七五  『論註』に云く劣夫の驢に跨つて上らされども、轉輪王の行に從へば、便ち虚空に乘つて四天下に遊ぶに障碍する所なきが如し」    仏智不思議につけしめてと云ふことあり。つくといふが大事なり。就人就行(じゅにんじゅげう)は正義なり。又仏法不思議につけとなり。亂世のときに信長につくあり、秀吉につくあり、家康につくあり。家康につかぬはみなつきそこなひなり。家康につきたれば、世か治りたれはみなそれぞれ地所を下されて大名となれり。われら生々世々つきそこなひをして、自力のおもひにつきて居たり。只今人間に生れ、他力の御教化をきヽても、自力がはなれられかねてたのみごヽろにひつつひたり。まかせごヽろにつひたり。うたがひはれられたと云こヽろにひつ就たり。ありがたひこヽろにひつつひたり。理屈の分かつたにひつつひたりする。これみな就きそこなひなり。左にはあらず。信じたこヽろや、、思ふたこヽろにつくにあらず。仏智の不思議につけとのたもう。つけしめとはそれも我力でつくにあらず、つけしめとありて、仏の方から就しめて下されたゆへにつきたるなり。

一七六 私は吾身は悪き徒らものなりと思ひつまりませぬ
或人云く、どうも私は吾身のわろきいたづらがおもひつまりませぬと。答へて云く、いたづらものがいたづらものとおもひつまらぬなれば、夫でいよいよおもひつまるなり。いたづらものでありながら、それがいたづらものと思ひつめられぬやうないたづらものとおもひつむべし。古語に云く、因地倒者(よりてたおるもの)因地立(たつ)。と。

一七七 信心に御慰み候
『維摩経(ゆいまきやう)』菩薩行品に云く、「以智慧劒破煩惱賊。」『般舟讚(はんじゅさん)』に云く、「利劒即是弥陀号」。これ聖道浄土のちがひめ也。『維摩経』に云く「汝等己發道意有法樂可娯不應復樂五欲樂。」『御一代記聞書』に云く、、「我心にまかせずして心をせめよ、仏法は心のつまるものかと思へば、信心に御なぐさみ候と仰せられ候。これ聖道浄土の一致也。

一七八 我親
周瀬の人云く、私はこれから阿弥陀樣を親樣になつてもらひたいやうに存じたが間違ひ、阿弥陀樣は、久遠劫来親樣であつた也。

一七九 底なき御慈悲
或女人云く、今まで底亡き御慈悲に底を我方り入れたるが誤也。あな淺間敷さよ、今こそあきらかに知られたり。  又云く、御慈悲の水の流れは清くして、タブタブして居れども、此方から聞へたといふ大きな土手をつきて居る故に、御教化の水がながれこまぬ也。此度は、此方の土手を切りて貰ふて、御慈悲を頂けば、あなたの御慈悲は、小さき胸の内にタブタブといたヾかる也。

一八〇 人生は浄土参りの道中也
膳橋(ぜんけう)云く、弥陀の浄土へは、死してから往くにあらず、信の一念にはや發足して、やがて死る時行きつく也。

一八一 戀ふ方は如来也、戀ひらるヽは衆生也
たのむと云は理屈ばりたることにあらず。『帖外御文』五十六右にのせたる蓮師の御うたに、「ほれほれとみだをたのまんひとはみな罪はぶつにまかすべきなり」。ほれほれは『古徳傳』のうらうら也。うらうらは和の字なり。角立てヽたのむこヽろをおこすにはあらず、やわらかに阿弥陀さまをたのみ力にするなり。うららかにと平生いふことばなり。家中やわらぎあふて、くらすをうららかにくらすといふなり。

一八二 水は湯になつても、水の時と同しく濕性は失はぬ也
問云機信心は信後に通ずるや。答生涯に通ずるは先輩己来の正義とみへたり。『叢林集(さうりんしゅう)』五八左云「西岸上の得脱までは貪瞋(とんじん)つねにおこる。乃至。されば、蓮臺の上までは、無有出離之縁の凡夫なるべし。此土入聖(しどにつしやう)していたる浄土にはあらざるなり。されば、二種信心は一もやむことあるべからず。

一八三 罪深くならば如何あらんとも思へ
我あさましきことを思ふて案ずることはあちらこちら也。もとより、仏は罪はいかほどふかくとも、我を一心にたのまん衆生をばとのたもうなり。つみふかくなくはいかヾあらんとも思ふべし。罪ふかき身ならば、いよいよ私のことにおもふてたすけたもうことにうたがひを晴すべきことなり。ありがたやありがたや。

一八四 救濟の三種
一人井戸に落(お)つ、之を救(すく)はんと欲して縄(なわ)を下す。その時落ちたる人の、縄によりて井戸より上るに、大凡そ三種の別あり。
一。縄にすがること雖ども、両足を以て畳石(たたみいし)を踏(ふ)んで上る。この人、上ると雖どもその恩を思はざるが故に謝言(しやげん)なし。
二。縄にすがると雖ども、すがる手を以て恃みとするあり。この人、また厚恩を思はず。
三。唯、その縄をひく人とその縄とを恃みて上りたる人は、深くその恩を謝するもの也。  初めは鎮西(ちんぜい)の救(すく)ひ也、次は西山の濟(すく)ひ也、後は今家の救濟(すくひ)也。

一八五 ながめる心、ながめぬ心
御助けを聞きた上に、信じ心や、頼み心をながめるとながめざるものとあるべし。予は、之をながめる方なれども、往生の一段のさはりとなるや否やと雲溪師に問ひたれば、師の云く、さはりにはならぬ也。ながめる心をすてヽながめぬ心を買ひとるは自力也。そのまヽの御助けなれば也。

一八六 戒忍云く
戒忍云く、一老母夫に訣れ、一少女を愛す、燕(つばめ)その家に巣をかけ、三子をおきて死す、少女之を慰め、砂糖水(さとうみづ)もてそだてぬ。後、生長して去らんとす、その燕子の足に糸をつけ、来歳も我家に来れといへり。その年の冬、彼少女死しぬ。母悲しみに堪えがたし。来夏、燕子来り、少女を尋ねるが如し。母云く、我掌中に来れ・少女の所を教へんと、燕子手に来る。母、助詞の墓の松につれ行けば、三日三夜、その松上にあり、声かれ、腹斷(き)れて死す。  あはれなる事也。

一八七 念仏為本
『涅槃経(ねはんぎやう)』に云く、「我は欲を根本となす、一切苦惱は愛を根本となす、一切疾病は宿食(しゆくじき)を本となす、一切の斷事は闘諍(とうそう)を本となし、一切悪事は虚妄(きよもう)を本となす。」  我等は、「念仏を本となす」べき也。

一八八 仏の機に契へば
相生の婦人云く、一切の人の機に入ることはならぬものにして、一人の機に入れば、一人の機には入らぬ也。されば、仏の機に契(かな)へば、自ら一切の人の心に契ふもの也。

一八九 罪障と疑惑
張の雲溪云く、山程あつても障にならぬは罪也。露程あつても障になるは疑也。  又云く、疑は物の不定なるより起る。物の定まれるものには疑なし。西瓜(すいか)買ふには、赤白を疑ふ也、必ずしも赤からねは也。湯をみては、冷(ひやや)か温(あたた)かを疑ふ、ぬるきあり、冷かなる事あれば也。されど、火を見ては、あつきを疑はず、火は必ず、あつしと定まり居れば也。阿弥陀仏・我等が為めに修行最中ならば疑ふべし・本願成就せばよろしきが、如何あらん。浄土建立せばよろしきが、如何があらんと。然るに、今は修行中にあらず、本願既に成就し、浄土既に建立せられ、仏はたのむ衆生を必ず救ふべしとのたもう、若し人、之を疑ふならば、火がもしや冷かならん歟と疑ふが如き也。

一九〇 「あるべき」甚兵衛
北越の貞信尼云く、山越に「あるべき」甚兵衛といふ人あり、如何なる事起るも、この人常に、「あるべき」事といへば人々かく名けたる也。

一九一 計らひの手
計ひの手のはなされた所が弥陀をたのむ一念也。
すがる手を力とはせじおさな子の  いだきあげたる母をたよりに  小兒の親に負れては、しつかり母にとりつかづに、手をはなして、菓子たべたり、手慰(なぐさ)みして居るのは、母が決して落しはせぬと、背後より手をそへて居るが為め也。小兒の手をはなして居るが、反て母をたのみにして居る也。今も萬事はからひの手をはなれて、如来にまかした所が後生たすけ給への意也。

一九二 我等が一生の綱渡り
輕業(かるわざ)を見るに、他人の事なれども、若し綱(つな)でもきれたらと思ふと、機弱(よわ)き我等はひやひやする也。我等が一生の綱わたり、出入の一息の綱が絶えたならば、三間四間の所を落(お)ち行くにはあらざる也。如来の之を見るに耐(た)えずしてその落ち行くものをたすけんと御成就なし下されたるが南無阿弥陀仏の名号也。

一九三 我心は贋物也、仏の心は実物也
自から、我、我に懺悔(ざんげ)して云く、存、古へ一念の時往生治定といふ所に疑ひあり。その一念に真贋(しんがん)あるべし。予が信の一念若しや贋物(にせもの)にてはなきや、さらば往生不定なりと案じたり。それより寝食(しんしょく)安からず、日夜苦(くるし)めり。今思ふに、一念の信心といふは、我心を真にして落付(おちつ)くにあらず。この機は間にあはぬもの・願力のお助けじと、初めて知られた一念なれば、よき心を握(にぎ)りて落付くにあらず、何となれば、この方の真実心は・虚假雜毒(こけざふどく)のものなれば也。何時握りて見ても、我心は贋物也。うそがうそと知られた一念が、弥陀の利他真実にたすけられた真実の一念也。
たのまずよ、よきもあしきも我心  とても他力にまかす身なれば
たれも知れ、おのが心のすて処  たすけ給への外はあらじな

一九四 持ちた安心、まかした安心
唯泉(ゆいせん)寺云く、吾身代を任すに・金あれば任(まか)しがたく、借金あれば任し易し。  第十八願の往生は・善根を以て障(さわり)となす。反て悪業は我等が往生の障にはならぬもの也。

一九五 黙して念仏すべし
己年極月二十七日、香樹院師を病巣にたづねければ、師私に對して   「何人も人にたづねず、黙(もく)して念仏すべし」。と授けら る。 私の云く   「然らば、唯御不思議にまかせ奉りて、念仏を唱へるば かりにて候か」と。師の仰せに、「不思議といふは、今まで命ながらへたるが不思議也」。 私に案ずるに、好言多からず、深く心底(てい)に感ぜり、すべて、ものを人に尋ぬるは、身に不定の思ひあれば也。願力の不思議にたすけらるると信じ決定すれば、往生一定也。何ぞ人に尋ぬることを用ひんや。これ愚僧の心中を識知して、一言を以て疑を拂はしめ給ふの妙論なるべし。  また、香樹院命終近き時、人假乞ひに行きたれば、同師曰はく、  「からだの暇乞(いとまご)ひに来たか、心の暇乞ひの来たか」  と、ありがたき事なりと人々いへり。

一九六 總勘定
三州の龍運(りううん)云く、物を買ふに、直ちに金を出さずにして通帳(かよひちやう)で取りて置く時は易し。されど、節季には一度に勘定せねばならぬ也。  人々、平生罪を作る時、常に臨終の夕を思ふべし。

一九七 身につくものは
有人の話に云く、盗人磔殺(はりつけに)さるヽ時の辭世(じせい)に 平生に盗みし金は身につかで身につくものは今朝のひと鎗  後生を願はず、金ためる人に之をきかせばやと思ふ也。後生を願ふて死んでも一生也。後世を願はずして地獄に落ちても一生也。同じ人間一生なれども、後生を願ふと願ざるとは大違ひ也。

一九八 知りさうなもの
『御一代記聞書』に云く、「仏法は知りそうもなきものが知る」と。私は之を反對(あべこべ)にいふ、「仏法は知りそうなものが知らぬ」と。自から用心すべきこと也。

一九九 水の上には坐られず、屏風にはもたる事は出来ぬ也
安心といふにつき、安に安置(あんち)の義と安易(あんゐ)の義あり。安置は心のすはりと云ことなり。仏像を安置するば仏像をすへることなり。仏壇を安置するも仏壇をすへることなり。この義邊は他宗に通す。みな安心あり。天台なれは一心三観、これを以てこヽろのすへやうは行者のこしをすえんとすれども、流水に畫をかく如くにして、すえがたし。若存若亡にして、今度はすはりたやふにおもふてもかはるなり。いかヾせば、 変らぬ樣にすはるぞと云ふに、阿弥陀仏の因位永劫の御すはりをおもふべし。五劫に思惟してたのむはかりて助けんとすはり、苦毒の中をも忍て修行して必すたすけんとの御すはり也。すなはち、仏の決定心なり。この仏の決定心が行者の決定心となり。仏のすはりがわれらがすはりとなるなり。その安易の義はやすきこヽろなりさらに何の造作もなしとのたまう。造作すれは仏の機に入らざるなり。機あつかひは造作なり。「葺きかへて雨こそもれぬ板ひさしてりすひあらせ不破の關守」。仏は機の造作をきらひたもう也。

二〇〇 蘇生の思ひ
「身をすてヽ法を求むるより信はうる也」。  存、嘉永第五、冬十一月十五日夜發病、死になん死になんとす。その時、死にたる心にならまほし。然れば、今は殘夢也。これよりは、世になき分にして、唯稱名して往生を期すべき也。その時、既に死せば、如何なる事ありとも、又蘇生して頓着せんや。之を忘れておくれな、存。 『御一代記聞書』に云く、「坊主は人をさへも勸化せられ候に、我を勸化せられぬは、あさましき事也。東都ありがたき僧の辭世の歌に、
我為めの法とは知らでいたづらに  人に教ゆるものヽみとせし
存命のうちに、この事の知られし事、何たる不思議の御手まはしぞや。  病氣は人間の藥也。

二〇一 養生訓
退(たい)一歩。是最上の養生也。

二〇二 死活
龍温云く、「碁(ご)は一石にて死活定まるもの也」。對手一石を下さんとする時、傍に人あり堅唾(かたづ)を呑んでうかヾひつヽありたり。その故を問ふ。云く、、「足下が助言せんとする故也」。問て云く、「我未だ助言せず、せざるに撲(う)つや」。答て云く、「助言した後ならば、我汝をうつとも、何の益かあらむ」。  味ふべきこと也。

二〇三 武藏野の月
明信寺云く、「仏の御慈悲は大也、行者の心は小也」と。然るに、存、今迄、我心を大ならしめんとして苦み、仏の大悲を小さく思ふて居た故に安心なし。左にあらず。この方の心は小也。弥陀の大悲は大也。我等が小心を仏の大心を以て覆ひつヽんで助け給ふ也。易行院の歌に・
あきらけき光を四方のかぎりにて  月のなかなる武藏野の原
多くの人々、ひろびろしたる武藏野に出でヽ、空中の孤月をみることを詠めども、今は左にあらず、廣野は小也月光は大也。野は月のうちに藏まる。我等が心は小也。阿弥陀仏の大悲は廣大なれば、かヽる小心凡心をも・このまヽながら・如来の大悲大心につヽまれてこの世にながらへ、命終り次第浄土に往生する也。

二〇四 「必墮無問」と「必至滅度」
必とは、まちがはぬ事也。我等は地獄は必定すみか也。これを「必墮無問(ひつだむけん)」といふ。必ず堕(おつ)る也。然るに、信の一念に、その必をつけかへて、必ずたすけ給ふ。四十八願の必至滅度(ひっしめつど)を思ひ合はすべし。『和讃』に、「のせてかならずわたしける」とあり。『御文』に、「我を一心にたのまん衆生をば、必すたすけたもうべし」との給ふ。

二〇五 冬籠り
古歌に、
後の世ときけば遠きに似たれども   知らずや今日もその日なるらん
他国といへば、遠いやうなれど、国境(こくけう)の家ではすぐちかき也。
難波津(なにはづ)に咲くやこの花冬籠(こもり)  今を春邊(はるべ)と咲くやこの花
信心の人の一生は冬籠り也、他人には知れざれど、命終れば、花咲て往生する也。

二〇六 改名之辭
あけくれに、仏の心にしたがはむと思ふべき也。わが名をあげむ、こがねを多くたくはへんなど思ふて・文などよむは淺間敷事(あさましきこと)也。仏の心といふは、廣く諸(もろもろ)のいきとしいけるものを安らかにせむと也。これは、仏のものをあはれみ給ふこと也。いでや仏のみことならば、仏の心にこそ、從ひたくおぼゆれ。その廣くものを安らかにするには仏、の大きなる心に随ひて、心大きにもたむ。死たる後、我、仏とならずば、廣く諸の国のものを導(みちび)く事なりがたく、また、この世にては孝子とならざれば、廣く、豊葦原(とよあしはら)の人を導くことかたし。ゆめゆめ、心ちいさく・擬講(ぎこう)・嗣(し)講などにならんと思はヾ菩薩の二乗に落ちたるに等(ひとし)しと思へ。それも我慢(がまん)に候はんは淺間し。擬講にも、嗣講にも、足らぬ力にて、早く進まんは、無下に心ちいさき也。また、心大きくとも、身につとむることなくば、何れの時か望みをとげんや。いでこの上は、つとめといふものを守り、ほとけの御恩に報ゆべし。もの安ぜんの心より、仏の御名を稱へて・はげめよや存・我つとめを  天保十五辰年、二月第八日、竊改名常和偏為守仏抑止門制耳。

二〇七 「松影のくらきは月の光かな」
帰(たの)むといふは、たヽ弥陀の名号に立むかひ、本願の月に打向ひ、かヽる者かたのむばかり、となふるばかりにて無始劫来の迷の根を切りて。往生をさせたもうは願力なり。名号の力なりと信じ奉りて回顧せざるなり。幾重にも幾重にも、ふかく弥陀を帰(たの)み、わが思ひの方へ深入すべからず。弥陀の願力の方名号の方へふか入して、今までの自力をつのり弥陀たのまぬあやまりを願力名号より引やぶらせていたヽくことにて候也。されば、大和上(香月院)の深信の辧に機法二種は同時なり。弥陀をたのむ処が機のまにあはぬことを深く信ずる処なりとのたもう。御ことばも今こそ思ひ合され候也。

二〇八 心は浄土にすみ遊ぶ
永(なが)く生死をへだてけるとは、一念の時娑婆(しゃば)に居ながら、生死を隔てヽ下さるヽなり。況(たと)へば大海の魚をたらんとして猟師が網(あみ)をひきまはす。其網の中に入たる魚は、まだ大海の中に居れども、網を以てへだてられて、もはや外へ逃ることはならぬ。今金剛堅固(こんごうけんご)の信心を得たる人は、其一念のときに、心光のなかに攝護して、光明でへだてらるヽ故に、もはや生死の海にあり乍ら、外に逃ることはならぬ。生死にあり乍ら、生死をへだてられて、遂に命終れば、自然の浄土に往生を遂げ奉るなり。

二〇九 箒
自から定めては、あとよりあやぶみが起る。たとへば、くづれかヽりたる箒(ほうき)を以て掃除(そうじ)すれば、はけどもはけどもはきたる跡(あと)に塵(ちり)が殘(のこ)るなり。行者の心中さつぱりとしたやうでも、是でもどうやらの心後から後から起るものなり。

二一〇 かくす心、知り給へる親
有人タキ女云、今迄此心では如何とおもふたは、七八才にもなりたる小供が、わが臍(ほそ)の脇(わき)にあるあざを親にかくして居るがごとく、親はうみおとしたる初よりよく知ておる。我等があさましき心を、阿弥陀さまない面白なく、今日まではかくす樣にしてきたれども、阿弥陀さまはもとよりわれらが知らぬさきから御存知なり。

二一一 「衆の為めに法藏を開いて、廣く功徳の寶を施す」
米屋に玄米あり、白米あり、白米の中に通途の白米と上等の白米とあり、上等の白米、ばかりでよかりそうなものなれども、買手がいろいろ故にこれが三種なけねばならぬ。聖道門は玄米の如し、浄土門中の自力は通常の白米の如し。他力の念仏は上等の念仏の如し。しらげた上にしらげかけた白米の如きなり。さて、こヽに喜ぶべきは、世間の米は玄米より白米は高し、白米より上等の白米は尚ほ高價なり。今それとはあちらこちらで、聖道門より十九二十の願はやすし、十九二十の願より十八願の他力は一番やすし。これが代取りて賣るのでいい、「為衆開寶藏廣施功徳寶、」と、あなたの御慈悲から下さるヽのぢやによりて、寶は十八贋になると高い安いの論はいらぬ、代なしにて下さるの也。

二一二 十大願
一。願我為善知識之臣、將豊葦原群生導西方。
二。願我為講官第一、正高倉不篤(とく)実(じつ)弊(へい)風(ふう)、令護僧儀。
三。願我令高倉学轍(てつ)復香遠院己来至香月院之古、
四。願我自所手舞足踏、心裡所居、專守五悪五善。
五。願我自省温良寬厚、而整正嚴粛、不失人、不受蔑、乃恭安。
六。願我言色常和、和顔愛語、不苟語、常不忘駟不舌之訓誡。
七。願我不悪敵我者、以為善知識翻罪吾身。
八。願我敬上慈下、以超過尋常。
九。願我稱名不怠、思仏恩深、不忘百行本。
一0。願我節飲食、麩求衣食精、唯偏豫歡寶池上之樂果。
己上十願不賴仏祖冥加、焉得成之。

二一三 学問と止観
「問云。止観息諸縁務亦教息務学問朝不待夕旡常身也。何期數年區々学文耶。答云、若名利学問則不得免来難。樹心報恩之地以学文、則終命於讀書塲亦何有悔。雖分骨砕身須研(べしみがく)経論釈意。是高田覚信坊壽逼于一瞬而勵(はげむ)稱名之流乎。顔回(がんくわい)亦云、朝聞道夕死可矣。唯常悪名利我慢也。又應謝仏祖鴻(こう)恩也。

二一四 あほになれ二首
〇   あほになれ、あほにあらずは此度の  浄土参りはあやうかりけり
〇   あほにさへなること知らぬこの身にて  浄土参りはうれしかりけり

二一五 唯四寸のみ
小人の学は耳より入て口に出づ、耳口の間、唯四寸のみ。君子の学は耳より入りて心に徹すといふことあり。元照律師も「無邊(へん)聖徳攪(らん)入識心」と仰せられたり。

二一六 月三首
〇    みちぬれば缺くるならひのかがみぞと   空に見せつる月のかげかな
〇    おもひ入てこヽろのおくにすまさばや     とよらの寺の秋の夜の月
〇    うゐの空雲のみかける月かげを  ころものうちの珠となさばや  雲華院曰く、手のうらかへすよりも早く一念に仏になる也

二一七 無楽之藥
智者の樂(たのし)みは、樂みなきを樂むゆへに樂み盡る日なし。  愚者の樂みは、樂みを設けて樂むゆへに樂み盡きて苦(くるし)み多し。
よのなかに苦はなきものを我と我が   樂を求めて苦みぞする
これは、『日用心法鈔』といふ書に出づ。  又云く、腹八分(はらはちぶ)、醫者いらずといふことあり。  又云く、一生を安樂にする守り本尊あり。如何なる方かと尋ぬれば、家職(しょく)大明神也。  存に於ては、学問化導家職なり。

二一八 証誠
『阿弥陀経』には、十方諸仏の証誠あり。我等は御慈悲より逃れんとしれど、十方より仏が出たまひて逃がし給はぬ也
〇    ふる寺のあふぐばかりの木の間にも    萩さきそめてときめきにけり
〇    わが家のむしすまさばやこの萩を 白露ごめにに手をり帰りて

二一九 聖道門の人と浄土門の人
聖道門の人も、浄土門の人も、共に生死の海のなかなれども、それに違(ちが)ひのあるのは、泳(およ)ひで居るのと、船に乗つて居るのと也。  聖道門の人は泳いで居る故に、妻や子があつて足手まとひをするとすぐに溺(おぼ)れてしもう故に、これをおしのけ、之れをはらひのけて、さとりの岸をめがけて進む也。如何に水練(れん)を能く心得て得るものでも海中にありては、少しも手足をやすます事能はざるのに、今は妻も子も一所に本願の船に樂々と乗りて光明の廣海に浮ぶ、我身は、何たる幸福ぞ。

二二〇 揚柳観音
揚柳観音(ようりやうくわんのん)とて、柳(やなぎ)を手にもち給ふは、柳枝の風にまかせて東へでも西へでもなびくが如く、人をすヽめるに向ふの機にしたがふて柔和(やはらか)にどちらへでも、身は衆生の為にしたがふて、仏法をすヽめ給ふの表示也。  われわれも柔和になけねばならぬ也。人にまけて信をとらずべき也。

二二一 病人と普請
一軒の家に生死もはかりがたき程の病人があれば、普請(ふしん)は初められぬ也。  御門徒(と)が一人でも、往生の一大事に就て病氣にかヽつて居るならば、御本山も普請どころではない。病人がなくなりてから、普請は初めたし。まして、生死もはかりがたき大病人でありては。御心配下さるは御門徒の心中じや。

二二二徂徠の文
十阿(あ)和上云く、徂徠(そらい)の若きとき、東涯(とうがい)の門にありて文章をかく。門人、集まりてその失をいへり。東涯云く、然れども、公等一人も是の如き文章をかき得ずと云云。東涯は生涯、徂徠の文をあしくいはず。唯一度いへり。云く、徂徠の文は鬼(おに)の面(めん)をきて小供(こども)をおどすやうな文となん。

二二三 讀書法
香樹院云く、信心をうるは、いろいろの書をよまずとも『御文』一通にて足れり。若し『御文』一通をば、懇(ねんご)ろによめば、必(かなら)ず信を得べき也。  存云く、然らば、割れは疫癘(えきれい)の御文にて信を得て、往生を遂げしめ給はんんことを決擇(けつちやく)せむ。

二二四 先手と後手
碁(ご)を圍(かこ)むに、先手後手(せんてごて)の違ひにて勝敗(かちまけ)あり。先手をゆけば勝ち也。如来は先手にして、我等は後手也。  明信寺云く、者を人より貰(もら)ひたると、拾(ひろ)ひたるとは違(ちが)ふ也。貰ひたれば禮をいふべき也。仏の御慈悲を貰ひた

二二五 片山里の田舎では、都より持ちて来て下された土産の菓子で、その人をもてなす也我等は頂いた名号で心置きなく御禮をいたすべき也。

二二六 まぎれる事
まぎれるに二あり、一は世の中にまぎれて後世者とみへぬあり。二には、信者にまぎれて信なきあり。行者思ふべし。

二二七 願ひ、且つ樂む
明信寺云く、学問をして学者になりたくば、信を得て安樂国(あんらくこく)に至るべし。
安樂国にいたるひと
五濁悪世(じょくあくせ)にかへりては
釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)の如くにて
有情利益(うじやうりやく)はきはもなし
釈尊ほどの学者にならばよきにあらずや。  又云く、願(ねが)ひはあれども樂(たのし)みにならぬ人あり。樂しみても欲し願はぬ人ありと、私に思ふ、放逸はおもしろけれども、ねがふ欲心はなし。金持ちになりたいといふ願ひはあれども、樂みといふ所に至らず。今度の後生は、願ひ欲する所にして、また樂みになる也。  又云く、信心の心得に事(じ)と理(り)とあり。理は易(やす)く、事(じ)は難(かた)し。如何となれば、道理(どうり)は早く呑(の)み込(こ)み易けれども、事にかけるといふと、我心はさう思ふやうにならぬもの也。理の通りの事(じ)で、我身にあらはれて、理事無碍(むげ)になりたるが、誠によく聽聞したる人也。  又云く、唯我身を喜ぶべし。麦飯(むぎめし)食ふて地獄へ行く人さへあるが、我等は米飯食ふて極樂に生れる也。かやうな仕(し)合せものは、又と世になき事よと喜ぶべし。

二二八 向ふ所は唯一而己
信も報謝(ほうしゃ)も、我心の向(むか)ふ所は唯仏(ぶつ)の方(ほう)也。それを知らずして、信ぜられたかと我心に向ひ、御恩を歡ぶ心になられたかと我心に向ふは誤(あやまり)なるべし。信は仏邊(べん)を信じ、報謝も仏邊の恩を思ふべき也。

二二九 信と明師
信(しん)の頂(いたヾ)けぬものは明師(めいし)にあはざるが故なり。小言(こヾと)の盡(つき)ぬのは聞ようが足らぬ故なり。是(これ)で淺間(あさま)しいの、あれで淺間(あさま)しいのと言(い)ふ樣(やう)な者ではない、丸(まる)きり淺間しいのぢや。このまるきりあさましいまヽで助(たす)けて下(くだ)さるとの仰(おほ)せなら不足(ふそく)も小言(こごと)も云(い)ひやうがないではないかこれが頓(やが)て信(しん)と云(い)ふものぢや。

二三〇 捨石
香樹院云く、皆な人は信をとらんと思ひ、また、たのみ心にならんと思ふ。それは、あんまり、欲が深(ふ)かすぎる也。取ることにのみ骨折りて、自力をすつることに骨を折ることを知らぬ也。碁をうつにも、捨(すて)石が大事也。信をうるにも、雑行(ざふきやう)をすてるが大事也。

二三一 生仏不二
今家相承(そうじやう)の意は、我心口を以て往生の業因とせず、仏の正行を以て、然かも、我往生の願行とする也。南無の時、阿弥陀仏はうる也。宗祖聖人の詠なりと傳ふ。
南無といへば阿弥陀来にけり一つ身を  我とやいはん仏とやいはん

二三二 今日までは、我と我心をつめて行き所なく苦んでいたのに、今度はあなたの御慈悲につめられて、極樂より外に行き所なし    譬へは將碁の王が何処へも行き所のなくなりた所かつめたのなり。行者の方でこの心一つの仕方のないやふになりた処が、おもひつめた処なり。

二三三 「朝な朝な仏と共に起き、夕な夕な仏と共に臥す」
ある女云く、われ往生を一定すれども、我意他事を常に思ひて仏恩を妄るヽは如何せん。答て云く、わか妄念をおしのけて喜ぶは自力なり。妄念を拂はずして、其妄念の中から喜ぶなり。たとへは、座敷一杯に仕事をとりちらした所に他人来る。まつ暫し待ちたまへといひて、掃除して案内するなり。至つて心やすき内輪(うちわ)の人なれば、其とりだしたるなかへこヽろおきなく通して、其中にて咄しをするなり。これ他人と内輪(うちわ)との違ひなり。此胸をあらためて煩惱をおしのけて稱へるは弥陀を他人あしらひにするなり。妄念の中よりとなふるは阿弥陀如来を内輪あしらひにするなり。我心中をもとより知しめす阿弥陀仏なれば、少しもかくすことはない、みな御承知ゆへ、妄念を拂ひのけることはいらぬなり。

二三四 雨降りに傘を
賴めといふことをいやがる。たヽ御助けのなみれはよいと口にはいはねとも、心の底におもふなり。たとへば、天氣のよきとき傘をかしてやらうと云ふと、誰でもいやがるものなり。それは、此方に難義がかヽる故なり。一天かきくもり真暗になり、はやぼろぼろと雨がふりかけるけれども、近所に近づきはなし。こまつたものだ。如何せばと思ふて難義千萬の処に、思ひがけなく今みずしらずの人が傘を貸してやらうと云ふたら邪魔(じゃま)に思ひはせぬ。いやではない。さては如何なる親切(しんせい)ぞと思ふて喜ぶなり。たのめぬなり。今死んでゆかねばならぬのに、助けて下さる仏はなし、わが心は思ふやうになられはせず、今も旡常の雨風が来たら如何せんと思ふ所に、おれをたのめがきこへたら、いやではない。さてはいかなる御まことぞと弥陀がたのみ奉るなり。

二三五 無盡藏
南旡阿弥陀仏の六字は丸々御回向也。阿弥陀仏は三世の親ゆへにおし氣もなく六字皆な給はるなり。世間の子をもちたる親に、いろいろあり。七八人の子をもちたるもあり。また一人子にして、親一人子一人なるあり。子が大勢あると親の身代は大にして、其を大勢の子にわけると身上か小さうなるなり。一人子なれは、親が百貫目の身上なれは、子も百貫目の身上となる。われらは一人子である故に、南無阿弥陀仏は阿弥陀さまにありても六字、われらにうけても六字なり。此六字は、汝一人か為に成就せり。汝にやらずして誰にかやらん。南無もやる。阿弥陀仏もやる。たのむ心もやる。助ける法もやる。たヽ吾をたのめたすけんとなりて、六字が丸で戴かれたら、南旡阿弥陀仏の主となるなり。主となりたら、精出して金はつかふちや、寶の持ちくさりにならぬやうに、金あらば何事もなすべし。六字の主となりたからは、精出して稱ふべし。

二三六 徂来の幼時
御一代聞書に身をすてヽ法を求めよと云云。徂来(そらい)、幼にして仁齋(じんさい)の門に入り、学ならす。母、学ならずは生て帰るなと申せし故へ、堀川出水の時、投身して死せんとす。齋之を止む、齋其故を問ふ。愚にして学ならずと。師云く、其水にはめる身を書物の中にはめよ、学者となるべしと。之に從ふて大学者となれり。我等も地獄の仕事にはめる身を、御法儀聽聞にはめて見よ、信がえられぬと云ふことなし。

二三七 仏は善根功徳の主也。善根功徳を仏に供養するは、三井岩崎の金持に一銭二銭の金を施すやうなもの也。私に云く雜讀の善を以て仏に手向るは淺間敷ことなり。毒を人に食はしむるは大罪人なり。親に毒藥を飲ましむれば、実に無上の罪人ならずや。

二三八 殿への料理
昔、織田信長毛利(をだのぶながもうり)の從者を擒(とりこ)にす。ある時、信長、其許(そこもと)は毛利の家で何役なりしやを問ふ。曰く料理人なりと答へり。さらば、よき料理せよ、口に恊(かな)はヾ汝を許さんと。直に料理を奉れり。佳ならず、次日又奉らしむ。佳なり。是に於て、料理人曰く、初日は毛利家にありては殿に供へる料理なり。二日目は、家臣に、三日目は下人に出す料理なりと。信長きヽて大に愧ぢたりと。

二三九 ほんま
明信寺の云く、當流の行者は、ほんまに思ふあかり也。無常がほんまになり、後生大事がほんまに思はれ、たすからぬ事がほんまに思はれ、御たすけがほんまになり、ほんまにありがたく歡ばるばかり也。

二四〇 我が為め
又云く、善きも悪きも、我が為めとなれば、外へはやらぬ也。信を得たる人は、人の善きも、我為め也。人の悪きも我為め也。皆な、我方へこけこみて、喜びの縁となり、或は我への異見となると。 今日に及んで、思ひあたれり。   宿(やど)かさぬうらみもはれて野邊(のべ)の月

二四一 孟子曰
孟子(もうし)曰く、人少きときは則(すなわ)ち父母を慕(した)ふ。大考は身を終(おは)るまで父母を慕ふ。  五十にして而して慕ふものは、予、大舜(たいしゅん)に於て之を見る。

二四二 如の字の起原
越中の佐治兵衛云く、善知識の御名に如の字をつけ給ふは、善知識の御教化は祖師聖人の如くじやといふことで如の字をつけたもうと聽聞(ちやうもん)せしと也。

二四三 五邪
『大智度論』第十九に云く
一。為利養故現奇特相。
二。為利養故自説功徳。
三。ト相吉凶為人説法。
四。高声現威令人畏敬。
五。説所得供養以動人心。
これを五邪といふ也。おそるべし。

二四四 自然
信次郎云く、師の仰せに  當流には信心を得ぬと地獄へ落る也。信心を決定するといふは、御助けを決定することじや。  阿弥陀如来の御誓ひの、もとより行者の計らひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませて、むかへんと計らはせ給ひたるによりて行者の善からんとも悪からんとも思はぬを自然とは申すなりときヽて候。

二四五 たのむ事、首尾よく浄土へ
又仰せに、たのめとは、我がたすけてやる事が行者の方へ通(とほ)らぬ故に、それを通うさんが為め我をたのめと仰せらるヽのじや。  信次郎、ある時、  首尾(しゅび)よく浄土へ参りたいものじやと思ふ心が御座りまするが、是は往生の障りになりはせぬかと御尋(たず)ね申上げければ、御仰せに、  それは、往生の障りにはんらぬ也。首尾よく浄土へ参りたいの心で後生大事に聽聞あるがよい。後生一つは御誓ひの御不思議で御助けに預るのじや。  その証拠は南無阿弥陀仏也。

二四六 聽聞の手の上るといふは
たのむばかりで御たすけろいふが名号の御不思議じや。たのんだとて信じたとて助かるやうな事ではなけれどもたのむ計りで助かるといふのが名号の御不思議じや、それがまた誓願の御不思議じや。  ある時の仰せに、  我も聽聞の手の上らぬ事じやが、信次も上らぬ事じやのう。何時も同じ事ではならぬ。さて、その聽聞の手の上るといふは我機のひくくなる事じや。

二四七 五十金
大雅(が)、祇園(ぎおん)の社邊の書肆(ほんや)にて珍書(めづらしきほん)を見出す。價五十両といふ。金なし。他日、金を貯へ来て沽ふべし。必ず予に之をうれといふて去りぬ。  三年後、五十金を以てその書を求めんとて来る。亭主、長く来り給はねば他に沽りたりといふ。大雅遺憾(いかん)と思へども、詮方(せんかた)なく、帰路(きろ)その五十金を祇園の銭筥(ぜにばこ)に入れて帰りぬ。

二四八 御いとま申して帰るべし
澤庵和尚云く、この世に生れ来るを、人の家に客にゆきたると心得べし。食事の時、我心にかなふたるものは馳走と思ふ也。また炎天のあつきもこたへねばならぬ。寒夜のさむきもこらへねばならぬ也。兄弟夫婦親子は、皆なむつまじくつきあふて、終りには我家に御いとま申してかへるべし。目出度かしく。

二四九 香月院の辭世
香月院の絶筆の歌のなかに
おもはすも迷ひのはては盡にけり  さとりの岸は今日や明日やと

二五〇 流刑
一蝶(ちょう)は公方樣の顔をかき、その鼻毛(はなげ)を美人が數忍集まりて引きて居る畫をかきて、それが為めに流刑に処せられたり。  我聖人も流刑に処せられたり。

二五一 山寺、鼠衣
信次郎よ、昔は山寺がうらやましかつたり,鼠衣(ねずみころも)が戀しかつたり、よろこび心がほしかつたが、そんな心がつヾいたならば、つヾく心をたのしみにして、またも迷ふていたのに、今はたのみにする程の心がないゆへに御慈悲一つがたのまれるやうになつたぞよ。

二五二 真実もの
ある時、女同行五六人、香樹院樣の御前へ出で、御きかせを願ひける時、御講師の仰せられけるやう、  きヽ分け、知り分けしたくらゐで御浄土へ参られるならば、坊主は皆な御浄土に参られる。きヽ分け、知り分けた位で御浄土へ参らうと思ひしは、ひがごとじや。如来樣の仰せばかりが真実(ほんまもの)じやぞよ。

二五三 難有う御在ります
三州牛田の玄衛云く、信次郎よりきけりと。  或時、一蓮院師の許へ四五人の同行参り御きかせに預りたしと願ひければ、師一同に對せられて  「そのまヽの御助けぞ」と授け給ひけり。  一人、「このまんまで御たすけで御座りまするか」といふ。御講師の云く、  「違ふ」。  また、一人、「このまんまで御たすけで御座りまするか」といふ。御講師、また云く  「違ふ」。  暫くありて、また、他の一人、何卒今一度御きかせ下されたしと申しければ、師また一同に對せられて  「そのまヽの御助けぞ」と。  他の一人、声に應じて「難有う御座ります」と御うけ申しければ、師は、非常によろこび給ひ、御浄土で逢ふぞと仰せられしと云云。

二五四 歌五首
〇    野山にてどこへゆくぞと人間はヾ  弥陀の浄土へゆくと答へよ
〇    声しあらばあやうからじな火に水の  なかの細道見ゆも見へずも
〇    そのまヽときくたび毎に涙かな  限りなき身をすてし呼び声
〇    まけて行く人を弱(よわ)しと思ふなよ  知惠のちからの強きゆへなり
〇    にくまれて憎みかへすと思ふなよ にくみにくまれはてしなければ

二五五 「必ず救ふぞ」と呼びづめにして居て下さるヽ如来の御呼び声
この世の事は、なるべく倹約をいたしたきこと也。然れど、倹約して、多くの金銭を死後に残しおくも無益也。すべきものなれば也。然らば、倹約しただけは、御本山へあげるか、三宝になげうつべき也。    江州伊香郡高野村廣部信次郎、三州牛田の玄衛にかくかたれりと。  十八歳の時、美濃国太田新田の尼妙信といふ盲人の方にあふて、初めて御慈悲を喜ぶの身となれり。京都にては、一蓮院樣と申す御講師ありて、殊に御厚信にましますとの殊をきヽ、一度御教化に接せばやと、ある時、上京して一蓮院樣の御住居をとひ申したり。  御侍者の暫くまてとのことにて暫時まちゐたれば、御講師、予に逢ひたいと云ふは、其方か、何用あつて来たとの仰せ。その時、南無阿弥陀仏の六字の御謂れを聽聞仕りたく参りたりと申し上げたれば、それはよく参つた、今まできいた殊もあらう何ときいたと仰せらし故に、「必ず救ふぞ」と呼びづめ、招きづめにして居て下さるヽ如来樣の御呼び声の間違ひないと頂(いたヾ)いて居ります」と申 上げたれば、一蓮院樣には、滿身(まんしん)を動かして歡びましまして、それが六字の御謂れといふのじや、たのむといふも、信ずるといふも、またその事じやぞよと、いと懇ろに御教化下されたり。  それより、時々参りたるが縁となりて、遂に一蓮院樣に随從の身となりたり。  御臨終の折りも、奧(おく)は居らいでも、汝さへ居ればよいとて、臨末の水は私獨(ひと)りお側に居て、私がさし上げ申したりと云云。

二五六 一蓮院師の辭世
一蓮院秀存師の辭世に云く、
今はとて何をかいはん南無阿弥陀  仏ははちすさヽげてぞまつ
「 五濁悪世の我等こそ
金剛の信心ばかりにて
ながく生死をすてはてヽ
自然の浄土にいたるなれ」
あらおもしろや、あらおもしろや。

秀存語録終

仏慧功徳をほめしめて
十方の有縁にきかしめん
信心すでに得んひとは
つねに仏恩報ずべし
親鸞上人

p10其配にp12虫類其配p20畫をしきり 書了て p38畫餅p40家内畫飯 畫飯 畫飯p53畫人一八六忍一九九畫 忍び二五〇畫

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