展開する本願2

『展開する本願』②
こうした真宗の歴史の中で近世に出た清沢満之師は西洋哲学にふれ、迷うにしても悟るにしても、善人であっても悪人であっても、あるいは宗教を求めるにしても求めないにしても、今ここで生き、何かを欲求しつつ生きている「自己」、それはそもそも「何なのか」という問いを自らに問いかけたのでした。この問いの中で清沢師は真実の自己を成り立たせる無限者にであい、それを 「自己とは他なし。絶対無限の妙用に乗托して、任運に法爾に此の現前の境遇に落在せるもの、即ち是なり」(『絶対他力の大道』) と表しました。
そして今の境遇に自己として在らしめている絶対無限について、師の絶筆というべき『我が信念』には 「無能の私をして私たらしめている能力の根本本体が如来である」 「如来は私に対する無限の能力である」 とも表しました。  自己存在の根拠として無限者すなわち如来のはたらきを感得してそれを表されたのであります。如来のはたらきを心のはたらきで表すだけではなく、単純に今ここにある存在、その存在をして存在たらしめているはたらき、それを「根本能力」として表したのであります。

前号で「アミダ仏のはかりなきいのちを離れては私たちは一息もすることができず、一思いも思うことができません。生きることも死ぬることもできません。」と申しましたが、このことを清沢師は、 「現前一念の心の起滅、亦自在なるものにあらず、我等は絶対的に他力の掌中に在るもの也」 とか、 「生死は全く不可思議なる他力の妙用によるものなり。」 と『絶対他力の大道』に述べておられます。
以上のようにアミダ仏のはたらきを私どもの存在をして存在たらしめている能力(妙用)と表したことは、真宗教学の歴史の中で画期的なことでした。  要するに迷っているにしても悟っているにしても、善を行うにしても悪をなすにしても、行為する〈存在そのもの〉は無限の能力であるアミダ仏によって存在せしめられているのであります。自己存在の成立根拠はアミダ仏であるといわれるのです。ですからその場合のアミダ仏はアミダ仏の光明と言うよりは寿命、アミダ仏の寿命無量のはたらきと言えましょう。

宗祖はもっぱらアミダ仏の光明無量のはたらきを中心に浄土真宗の教義を構築されましたが、清沢師はアミダ仏を寿命無量でも語るという視点を発表されたといえましょう。いわば存在論で語る真宗が登場したのであります。
今ここにいる何ものか(個物としての私)、それは何であり、何によって存在しているかという人間の普遍的な問題の中で真宗を表していかれたのでした。 宗祖は『浄土文類聚鈔』にアミダ仏の本質を、

「寿命延長、よく量ることなし。  慈悲深遠にして虚空のごとし、  智慧円満にして巨海のごとし。」

と、アミダ仏のはたらきを寿命と慈悲と智慧の無量なるはたらきで表しておられますが、これに対して清沢師は『我が信念』にアミダ仏は、 「第一の点より云へば、如来は私に対する無限の慈悲である。

第二の点より云へば、如来は私に対する無限の智慧である。  第三の点より云へば、如来は私に対する無限の能力である。斯(か)くして私の信念は、無限の慈悲と、無限の智慧と、無限の能力との実在を信ずるのである」 と述べています。宗祖はアミダ仏を〈寿命と慈悲と智慧〉で表し、これに対応して清沢師はアミダ仏を〈能力と慈悲と智慧〉として表しておられます。
このように宗祖が無量寿命といわれたのを清沢師は「無限の能力」と表現しました。
従来は寿命無量を慈悲の功徳として語られてきましたが、清沢師は寿命無量を無限の能力、いわば個々の存在をして存在たらしめている「力」で言い表わしたのです。

こうして私たち(衆生)はアミダ仏の寿命無量によって今此処に存在することができ、寿命無量を離れて私たちは一瞬たりとも存在しえないと教えられるのです。私たちは寿命無量のはたらきによって今、今と落在しつつある。寿命無量のいのちの外に私のいのちはない。私の善悪のあり方や自分の才能や姿形の如何にかかわらず、寿命無量は私をして私たらしめている能力であって、私の存在根拠として、私の行いの善悪を超えて、私を包み、私を掴んでいるのです。
こういう清沢師の問題意識と同質の問題意識をもって、清沢師以後、真実の自己を追求していったのが西田幾多郎博士でした。
西田博士は仏教に理解のある哲学者として人間存在の根本構造に肉薄していきました。そして清沢師が言おうとした寿命無量と人(個物)との関係を博士はさらに論理的に表現しました。すなわち寿命無量を我を超越したはたらきとか実在界といい、寿命無量(真実在)と人の関係について次のように表現しました。

「我々の自覚の本質は、我を超越したもの、我を包むものが我自身であるということがなければならぬ。」(西田幾多郎全集旧版第四巻。一二七頁)

「本当の実在界は我々が中にいる世界でなくてはならぬ。自分を包んでいる世界でなくてはならぬ。自分がその中にいる世界とは自分の知識の対象界ではなく、自分がその世界に生まれ、働き、死んで行くものでなくてはならぬ。それが本当の実在界と考えることが出来るものである」(同全集第十四巻。一七七頁) といっています。

「我を超越したもの、我を包むものが我自身である」これこそ清沢師の、 「無能の私をして私たらしめている能力の根本本体が如来である」と同じ〈道理〉でありましょう。すなわち、我を超越したものが絶対無限の妙用であり、それは我を包んでいるものでありつつ、真実の自己として今ここにいると。無量寿のアミダが我(等)を越え、我(等)を包んでいることは、有限は無限の中にあることであり、そのことは従来から言い尽くされてきたことですが、

無限者が真実の自己であるーー我を超越しているものが、我自身であるーー

という見解、これを取り上げられることは、真宗では殆どなかったと思います。自我しか知らない凡夫にとってアミダ仏は絶対他者的なはたらきとしておおむね表現されてきたと思います。

ところがここではアミダ仏は真実の自己となっている、と言われる。これは自我とアミダ仏の関係だけで宗教を語ってきた従来の教学では殆ど言われなかったことであります。
しかし現代ではそういう表現では十分対応できなくなってきています。なぜなら近世以後、自己の存在そのものが問われてきたからです。
というのは自我(通常の私)は決して宙に浮いているものではありません。自我は自我としての働きがありますが、それはどこを根拠として成立しているのかと問わずにはおれません。
自我はものごとを判断し選択し決断する能力ですが、その働きが今ここで働くことができるのは、自我の働きがそこにおいて働いているという場がなければなりません。それがいってみれば「自己」であり、自己がなくて自我だけぽつんと働くことは当然できません。

ではその自己はどこにあるのか、それは自我が作り出すことはできません。自我はむしろ自己の中の一つの働きです。その自己は自我の作ったものではありません。自我がそこに於て働くところ、それが自己ですが、この自己は当然自我が設定したものではなく、自我ならざる「他」の働きであります。
そこでこの「自己」とは何であり、どこにあるのか。それに応えたのが清沢師でした。 「自己とは他なし。絶対無限の妙用に乗托して、任運に法爾に此の現前の境遇に落在せるもの、即ち是なり」 で絶対無限なる「他」なる働きが自己となって、現前の境遇に今、今と落在しつつある。ここに自己があります。この自己の一機能が自我でしょう。
そして絶対無限と自己と自我という三相構造になっているのが人間存在であるともいえましょう。

こうした構造を自我の立場から述べると、「アミダという絶対無限者が自己となって現在化し、この私(自我)を支えてくれている。生かしてくれている。助けてくれている」と表現できます。ですから自我から言うと絶対無限者は我ならざるものであって絶対他者です。けれども自我なる私を今ここに真実の自己において成立させている無限者からたまわった自己であります。自己は自我のものではなく、逆に自我は自己のものであります。そしてこの自己は絶対無限からたまわった自己です。 ですから逆に迷いとは、真実の自己を見失い、自我しか知らず自我を〈私〉として固定して深く執着している状態をいいます。
ただ真宗はどこまでも自我を立場として語りますので、アミダ仏の働きは自我を越えた働きであって「私(自我)はアミダ仏である」とは決して言わないし、言えないのであります。しかし、「アミダ仏が真実の自己となって自我の私を支えている」あるいは「アミダ仏を離れて私は存在し得ない」「アミダ仏の外に私は無い」といえます。
そしてアミダ仏と自己の関係は、アミダ仏という無限者(寿命無量)の現在に於ける一限定が自己である、といえましょう。アミダ仏の今此処に於ける自己限定が真実の自己であります。自我もこの自己における一機能ということになります。(続)

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