展開する本願3

『展開する本願』③
では真宗ではどうして自我を立場としてアミダ仏と人(衆生)の関係を語るのでしょうか。
それは私たちが煩悩具足の凡夫であるとい うのが現実の私の姿だからです。私たちは真実の自己を知らず、アミダ仏を知らず、ただ自我しか知りません。そしてこの自我に非常に深く執着しています。いわば我執我愛の自我です。現実の私はどこからものを考え、何を中心に人生を考えているかと申しますと、我執的自我の立場から考えています。是非善悪、優劣、損得など、自我を中心にものごとを考えています。この煩悩的自我が現実の生活の中心になっていて、この立場から離れて生活をする事ができないのです。これが煩悩具足の凡夫の日常です。 凡夫の姿を『佛説無量寿経』には非常に詳しく説かれています。その一端を引用しますと、

「世人、薄俗にして共に不急の事を諍う。この劇悪極苦の中において身の営務(ようむ)を勤めて、もって自ら給済す。尊もなく卑もなし。貧もなく富もなし。少長男女共に銭財を憂う。有無同(どう)然(ねん)なり。憂思(うし)適(まさ)に等し。屏営(びょうよう)愁苦して、念(おも)いを累(かさ)ね慮(おもんぱか)りを積みて、心のために走(は)せ使いて、安き時あることなし。田あれば田を憂う。宅あれば宅を憂う。牛馬(ごめ)六畜・奴婢・銭財・衣食(えじき)・什物、また共にこれを憂う。思いを重ね息(そく)を累(つ)みて、憂念を愁怖(しゅうふ)す。」

(現代語訳ーー 世間の人々はまことに浅はかであって、みな急がなくてもよいことを争いあっており、この激しい悪と苦の中であくせくと働き、それによってやっと生計を立てているに過ぎない。身分の高いものも低いものも、貧しいものも富めるものも、老若男女を問わず、みな金銭のことで悩んでいる。それがあろうがなかろうが、憂え悩むことには代わりがなく、あれこれと嘆き苦しみ、後先のことをいろいろと心配し、いつも欲のために追い回されて、少しも安らかなときがないのである。田があれば田に悩み、家があれば家に悩む。牛や馬などの家畜類や使用人、また金銭や衣食、日常の品々に至るまで、あればあるで憂え悩む。それらのものについてとにかく心配し、何度もため息をついて嘆き恐れるのである。)

とあります。
この『仏説無量寿経』は二〇〇〇年以上も前にインドで説かれた経典ですが、この一節だけでもいつの時代も変わらぬ凡夫の姿がリアルに説かれています。  こういう現実に生きている凡夫の「私」に働きかけて、正しいあるべき状態に至らしめようとしてくださる南無阿弥陀仏の願力を聞く、これが真宗の聴聞であります。
ですから、アミダ仏のいのちの外に私のいのちはないと言えても「我はアミダ仏なり」などということはまったく言えないのであり、言わないのであり、どこまでも「煩悩具足の私」なのであります。
このような自我にとってアミダ仏はまさに我ならざる大智大悲の用きであり、量りなきいのち、すなわち光明無量・寿命無量であります。

ただ自我でありつつ一個の物として私たちが存在し、他の諸物や他者と関わる働きが可能なのは、それを可能にする場があるからです。自我がそこに於て生き、そして働き得る場所はいつでも今此処に与えられている場所であります。この場所は色もなく形もなく、目に見えない無限定な、いってみれば量りないいのち(寿命無量)のはたらきであります。
この寿命無量に気がつかず、自我しか知らず、自我に固執している迷妄こそが、克服されなければならない問題であると仏教では教えられるのです。   そしてアミダ仏と人との原関係を言い当てた宗祖のお言葉が「摂取不捨の真理」というお言葉であると、私は受け取りたいのです。

この摂取不捨の真理は人の迷悟・善悪・能力の有無などの差違を超え、いつでもどこでもだれにでも貫通している平等の真理でありましょう。そしてこの真理は、悟ったり信じたりして初めて成立するというような真理ではありません。人の迷悟・人の行いの善悪に先立ってはたらいている真理であります。そしてこの摂取不捨の真理の上にありながら、それに無知であるところに迷妄があり、苦悩が起こってきます。
摂取不捨の真理に無知ゆえに、この世の相対的な価値、いわば財産とか権力とか名声とか人間関係とか、そういうものに重心がかかりすぎるようになります。そこから貪欲になり、自分の欲望に対して邪魔をする者を排除しようとして、自他が対立し害しあうなどの悪業が生まれてきます。

逆に摂取不捨の真理に目覚めた者は智慧を得、自他に共通しているいのちに気がつきはじめます。「一つのいのちをみんなで生きている」ことに気がつきはじめます。そこに他者に心が開かれ、他者の苦しみに共感し、他者の幸せを願うという、そういう慈悲が少しづつ少しづつですがおのずから生まれてくるのであります。
そのように無限の寿命と無限の智慧と無限の慈悲が一切衆生に摂取不捨の真理としてはたらいているということは、同時にこの真理に背くと人は憂苦と悪に傾かざるをえないという厳しさをもっております。

ではいかにして摂取不捨の真理に目覚めることができるかということですが、自我しか知らない迷える凡夫の側から摂取不捨の真理を対象的に捉えようとしてもそれはまったく不可能であります。摂取不捨されているもの(人)が摂取しているもの(仏)を掴むことは絶対に不可能であります。ここに道を求める者の壁があります。人の自我からこの真理へは断絶があります。人からアミダ仏に架(か)かる橋はないのです。人間の自我(自力のはからい)でこの壁を乗り越えることはできません。
このような人間の限界を知りぬいて、摂取不捨の真理に気づかせよう、出あわせよう、目覚めしめようと、摂取不捨の真理の方から衆生に名号でもってはたらきかけてくる、そういうはたらきがあることを釈迦如来が発見し、説かれたのが『佛説無量寿経』であります。そのはたらきは、広大な摂取不捨のはたらきであるアミダ仏の本願力として説かれています。

本願力のはたらきによって私たちは摂取不捨の真理に出あい、その利益にあずからしめられるのであります。それが私たちの救いであり、真宗の救済はこの摂取不捨の利益をいただくことであります。
以上真宗の教えの基本構造を簡単に申し上げました。ここからさまざまな課題や問題をさらに詳しく探求されていかねばなりませんが、そのことに少し触れておきます。
その一つに、よく私たちのいのちを「賜りたるいのち」といわれます。すなわち、私(人)のいのちはアミダ仏から賜ったいのちであるというお話をしばしば聴きますが、これについては少し注意しなくてはならないと思います。

たとえば、キリスト教などで、「神は万物の創造主であり、人間も神の創造物として神様から賜ったいのちである」と言われます。これはキリスト教界ではどう解釈されているのか分かりませんが、真宗でこれと同じように受け取って、私たち人間のいのちは量りなきいのちのアミダ仏からいただいたいのちであるという風に単純に受け取ると、これは注意を要します。
と言いますのは、ここには、〈いのちそのもの〉と〈いのちの取る形〉との関係の問題があります。
そこをどう考えるのかということですが、寿命無量のアミダは有限ないのちの根拠であり、アミダ仏のいのちを離れて人のいのち(万物)はなく、アミダ仏のいのちと人のいのちは一つであります。私のいのちを押さえて見ればアミダ仏のいのちの外にはありません。人だけではありません、さまざまな生きとし生けるもののいのちはアミダ仏のいのちによって成立しているのであり、アミダ仏のいのちを分有しているといえましょう。

ただ問題は、衆生のいのちの形、いわばいろいろな人の形、牛の形、犬などの形態や心(意識)のさまざまな性質というような形相もアミダ仏から与えられる、あるいは決定されるのかというと、そうはいえません。
そういう衆生のさまざまな形は自らの業因とさまざまな外縁によってであると仏教では言われるのでありましょう。様々な因縁によって形づくられるのであるということです。その縁のなかで、自らの行業の縁を業因といいます。それまでそのものが行ってきた善悪の行業の因です。その他にさまざまな外縁によって、衆生のいのちはさまざまな形として現れているのであります。象(かたど)ったのはアミダ仏ではありません。それぞれの業因業縁であります。

このようにそれぞれの業因業縁によって衆生のいのちの相(姿形・性格など)に違いがあるのですが、それと〈いのちそのもの〉との関係を波と海水で譬えてみますと、業因業縁によってかたどられた衆生のそれぞれの姿は大小さまざまな波のごとくであって、しかも有限ですから生れて滅します。
一方、どのような姿の波もすべて海水のほかではありません。海水が元でそこに現れるさまざまな姿が波であり、波は生じ滅する有限にたとえられ、海水は総ての波の元であって生まれも滅しもしない無限に譬えられます。このように衆生のいのちとアミダのいのちの関係をこのような波と海水との関係に譬えることができましょう。ですからどのような形のいのちも共にアミダのいのちの他にはなく、万人万物はアミダ仏の平等ないのちをいただいているのです。

しかるに自己がアミダ仏のいのちのほかにないことを知らず、有限ないのちの形に執着し、互いに比較し、優劣を競い、対立し、さまざまな業を重ねてきたのであります。
さて、現代は物質文明が盛んであって、物質を研究し利用する自然科学が発達して、人間生活に非常に大きな影響を与えています。ところで人は一個の物質的存在でもあります。人は他の諸々の物との関わりの中にある一つの物です。ですから他の諸物が物質として物質的な自然の法則の中にあるように、物として存在している私たちも他の諸物と同様に自然の法則の中にあります。ですから物質界の法則を無視して生きることはできません。逆に自然の法則を正しく正確に理解して、それに対応して生産し創造していくことが求められています。

そして人は一面全く物でありながら、同時にそのつど判断し行う自由な主体(心)であります。この心の領域に於てアミダ仏のはたらきを知るのです。アミダ仏の救済は衆生の心の領域に於ける衆生のめざめ(信心)として語られるのであります。
さて清沢師は先述しましたようにアミダ仏の寿命無量を〈無限の能力〉と言い表しましたが、『絶対他力の大道』には次のようにも表現しています。

「宇宙万有の千変万化は、皆是れ一大不可思議の妙用に属す。而して我等は之を当然通常の現象として、毫(ごう)も之を尊(そん)崇(すう)敬拝するの念を生ずることなし。吾人にして智なく感なくば則ち止む。苟(いやしく)も智と感とを具備して此の如きは、蓋し迷倒ならずとするを得んや。一色(しき)の映ずるも一香の熏ずるも、決して色香其者の原起力に因(よ)るに非ず。皆彼の一大不可思議力の発動に基(もとず)くものならずばあらず。」 と。

そうすると無限の能力である寿命無量は大自然の広大なはたらき、いわゆる物質的力用ともなってはたらいているといえます。諸物を成立させるはたらきであり、万物を万物たらしめている根元のはたらきと言えましょう。こうした広大な物質的な用きも寿命無量のはたらきの中に含むことになりますから、寿命無量は心の領域も物質の領域も統合しているいのちのはたらきと言えます。物質の領域と心の領域は二つ並んであるのではなく、無量の寿命の用きの二面でありましょう。
ですから寿命無量は衆生救済の光明のはたらき(本願力)だけではなく、万物をして万物たらしめているはたらきでもあります。
アミダ仏のはたらきをこのような領域まで包む真宗の世界観、いわば物質界の領域まで包むような世界観でないと、自然科学の領域のみならず政治経済の世界を真宗の世界観の中に位置づけることが難しくなります。それでは現代人にトータルな人生観・世界観を提示することはできないと思います。ことに現代は自然科学が人間の文化全体に大きな影響を与えています。真宗の教義体系もこれらを統合するような世界観にまで展開されなくては、現代の問題に応答することは難しいと思います。(了)

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