頷きよりも驚き

近年、弥陀の本願との出遇いを語る場合、「うなづく」という表現をよく聞く。いわゆる「本願にうなづく」とか、「念仏の心にうなづく」とか「仏の大悲にうなづく」などである。
しかし、弥陀の本願との出遇いを表現する言葉としては「うなづく」ではなくて「驚嘆」とか「驚喜」とか、いわゆる「おどろく」という表現がふさわしいのではなかろうか。  宗教的経験ならずとも、日常生活において時々驚くことがある。例えば大自然の神秘的な光景や生命の不思議な生態などを見ると「すごいなあ」と驚く。また思いもよらぬような事にであった時も同様である。阪神大震災の当日の朝、神戸方面に自転車で駆けつけて見た街の光景は驚くばかりであった。
そういうように「不思議なこと」とか「思いのおよばないこと」とか「思いがけないこと」とかに出遇う時、人は驚く。

さて、弥陀の本願はしばしば「弥陀の本願不思議」とか「誓願不思議」と言い表される。たとえば『和讃』には

「いつつの不思議をとくなかに
仏法不思議にしくぞなき
仏法不思議ということは
弥陀の弘誓になづけたり」

とある。ここでいう五つの不思議の中には竜神不思議や衆生多少不思議などがあり、それらはいわば大自然のいとなみの不思議のことであるが、こうした大自然の不思議なはたらきにふれるだけでも私たちは驚くことが多い。しかるに弥陀の本願はこのような不思議の中でさらにそれ以上の不思議なはたらきであると讃歎されている。  このような不可思議な弥陀の本願とは何かについて聖人は『ご消息』に

「弥陀の本願ともうすは、名号をとなえんものをば極楽へむかえんとちかわせたまいたる」  とも申され、

「縦令一生造悪の
衆生引接のためにとて
称我名字と願じつつ
若不生者とちかいたり」

とも和讃されているが、弥陀の念仏往生の本願は、大自然の驚くべき不思議さ以上のまことに「驚くべき」恵みではなかろうか。

私たちは自分を「助からぬ身」と知れぬゆえこれを聞いても驚きもしないが、「無知無力、逆謗の死骸」にとっては「ただ称えるばかりで助ける、そのほかに何もいらぬぞ」と喚びかけたもう阿弥陀仏の誓約は、まさに〈非常の言〉であり、〈永劫の初事〉であり、大慈大悲のきわまりなき仰せではなかろうか。
それゆえ、本願に出遇った姿を大経には「かの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍」すると説かれている。弥陀の本願は「躍り上がって喜ばざるをえない、それほどの不可思議で広大な恩徳」であることが示されている。
なおこれに関して、聖人は『ご消息』に

「聖道門の法は思議の法、浄土の教は不可思議の教法」(『真宗法要』)

と仰せられている。いわば因縁空の道理や唯識や華厳の道理など、深い仏法の道理を説くのが聖道門の法であるが、それらは「思議の法」であっていわゆる「人の思議がなお及ぶ教法」である。それゆえこういう深い道理を聞く時には、人は、〈ああそうか、なるほど〉と「うなづく」。すなわち「うなづく」という語は、人間の知性における了解するとか理解するとか納得するということを想わしめる表現である。
しかるに「浄土の教は不可思議の教法」であって、この教法に出遇う時はもはや凡夫の思議をへず、了解や納得を飛び越え、不可思議なる誓願にただ単純に「おどろき」、大悲の願心を渇仰するばかりである。

(了)

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