疑いと信心の関係

弥陀の誓願不思議は深遠な仏智から現れた誓願であるから仏智不思議ともいう。仏智とは、自他一如と悟る仏の智慧といわれている。すなわち、知るもの(自)と知られるもの(他)は一体不二であると目覚めている智慧といわれている。
山も川などの外界も、手や足などの身体も、更には脳も、知られるものであって知るものではないとともに、知るものと知られるものは分離できない一つの事実である、と悟っている智慧といわれて、それを無分別智という。

しかるに私たち凡夫の心の内実は自我の心であって、分別を本とする。  いわゆる「私(自)は私であって、(他)のものではない。知る私は知られているもの(他)とは別なものである」と分けて判断する知、それが凡夫の分別的知性である  だから凡夫の分別的知性では無分別智の境界は分からない。
無分別智である仏智から現れ出たのが阿弥陀仏の誓願の言葉。この仏智の言葉に対して凡心である分別心が向かうと必ず疑惑になるのではなかろうか。いわゆる分別的知性では捉えることのできない仏智の領域から現れ出た本願の言葉を、凡夫の分別的知性で捉えようとすると、「本当だろうか」という疑いが必ず出てくる。

弥陀の本願は不可思議であって、思議をもととする私の知性ではとても納得できる話ではない。いわば、2×2は4の話なら納得がいくが、2×2が100といわれたらもう分からなくなる。弥陀の本願は言ってみれば2×2が100というような話である。  弥陀の本願は「悪業深く煩悩だらけの汝をそのままなりで我が願力ばかりで仏にする」という不可思議な誓いの仰せだから、私たちの知性的分別では真に了知することはできない。それで疑うことになる。

ところで真宗の教えでは弥陀の本願を信じる信心一つが仏になる正因であると説かれている。そこで真宗の聞法に志し、本願を信ずるべく本願を聞くのであるが、自我の分別心では本願の不思議を信じることができない。すなわち疑いを離れることができない。そういう壁にぶつかるのである。
しかも凡夫の心は六大煩悩(貪・瞋・痴・慢・疑・悪見)を具足しているといわれている。その中、〈疑〉という煩悩は「仏教の真理に対して心がためらい決定しないこと」といわれ、仏法に対して起こす煩悩と説かれている。このような煩悩から離れられないのが煩悩具足の凡夫である。宗祖聖人も『一念多念文意』に

「 凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて(乃至)臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」

と仰せられ、煩悩は生涯なくならないといわれている。それゆえ、本願を信じたいけれども、疑いの煩悩ゆえに信じることができない。聞法求法の道はこの壁にさえぎられるのである。  修行や学問の有無も関係なく、如何なる人間的な資質や状態も問われることもなく、平等に開かれている本願の救済。しかるにこの本願を疑うゆえに弥陀の救済にあずかれないのである。
弥陀の救済にあずかるには疑いを除けば良いのであるが、疑いを我が力で除くことはいかにしても不可能である。凡心の本質は分別心であり、疑いの煩悩は凡心に具足されていて取り除くことができないのである。  これによって第十八願の願文には「唯だ五逆と正法を誹謗せんをば除く」と説かれ、正法を否定する謗法のものいわば本願を疑って受け入れない者は浄土に生まれることから除かれる存在であると示されている。

ところがこの問題を私どもに先立ってすでに考え尽くして下さったのが法蔵菩薩であり、法蔵菩薩は衆生には

「清浄の信楽なく、法爾として真実の信楽なし」(『信巻』)

と観察し、真実の信心がなく本願を疑惑する罪ゆえに、生死出離の縁が無いことを徹底的に見られた、とお聞かせいただいている。  たとえ念仏往生の本願でもって一切衆生を救おうとしても、本願の名号を衆生が信受することができなければ救済は成立しない。たとえば、重病人を治す特効薬(本願名号)を作って、それを病人に与えても、薬を飲(信受)まなければ病気は治らないのと同じである。ところが衆生は疑いを除くことができず、本願名号を信受することができない、まことに出離の縁なき衆生である。
そこで法蔵菩薩は念仏往生の本願を信じる信心までも衆生に与えて救おうとされたのである。そしてそのために第十八願に   「至心に信楽して我国に生まれんと欲え」  と誓われたのである。十方の衆生に対して「十方衆生が念仏往生の誓いをまことと信じ(至心信楽)我が浄土に生まれることができると安心させてやりたい(欲生我国)」と願われ、それを誓われたのである。

こうして法蔵菩薩は信心までも衆生に回向成就しようとして「至心信楽の願」を起こし、永き御修行をされた、と宗祖は見られたのであろう。   ではどのようにして本願を信じる信心を衆生に与えようとされるのであろうか。  それは衆生に阿弥陀仏のお助けの広大な慈悲を聞かせることによってである。その広大な慈悲心はほかならぬ第十八願そのものにこもっている。すなわち「乃至十念若不生者不取正覚」と誓う念仏往生の願心こそ大慈大悲の極まりなきお心である。

この「乃至十念せん、もし生まれずは正覚を取らじ」の大悲の誓いを、名号において衆生に聞かしめることによって本願大悲の心を衆生に知らしめたまうのである。驚くべき広大な大悲の願心を聞かしめられ、知らしめられるのを縁として、如来の大悲心は衆生の心に回向成就される。こうして凡心に与えられた大悲心が本願を信じる信心となって下さるのである。
たとえば、天上の月の光が、月の光を仰ぐ私たちの目に届いて、私たちは月の光を見ることができるようなものである。  月の光を見ることが出来るのは月の光によってであるように、念仏往生の願を信じる信心は

「この心(信心)すなわちこれ念仏往生の願より出でたり」(『信巻』)

と仰せられ、念仏往生を誓う大悲の願心から私たちの心に信心が発起してくるのである。  第十七願によって衆生にお聞かせ下さる誓いの名号を聞くことにおいて、名号にこもっている大悲の願心が私たちの心に届いて衆生の信心として回向成就されるのである。それゆえ宗祖は

「万行円備の嘉号は障を消し疑いを除く」(『浄土文類聚鈔』)

と仰せられ、本願の名号には私たちの〈本願への疑惑〉を離れしめたもう徳があるとお示し下さっている。  さて、念仏往生の願心は「乃至十念せん、もし生まれずは正覚を取らじ」の文にことによく表されているのであるが、このお心を善導大師は『往生礼讃』に

「もし我成仏せんに、十方の衆生我が名号を称せん、下十声に至るまで、もし生まれずは正覚を取らじ」

と示された。この意味は「我が名を称えるばかりで助ける」の思し召しであるが、この思し召しについて聖人は『一念多念文意』に

「この誓願は、すなわち易往易行のみちをあらわし、大慈大悲のきわまりなきことをしめしたまうなり」

と仰せになり、「乃至十念若不生者不取正覚」に極まりのない大慈悲の心が表されているとお示しになっている。  なぜ「我が名を称えよ」はそれほど広大な大慈悲心なのであろうか。  それは老少男女・善悪・賢愚・貴賤、信疑などという私たちの状態の云何にかかわらず、私たちのありべのまま、生まれつきのまま、このままなりをまるまる引き受けて必ず浄土に至らしめるという誓い、それが「乃至十念せん、もし生まれずは正覚を取らじ」という念仏往生の誓いである。
ここに阿弥陀仏が一切衆生を平等に救わずにはおかないという広大な大悲のお心が示されている。このお心は

「縦令一生造悪の
衆生引接のためにとて
称我名字と願じつつ
若不生者とちかいたり」

とか

「極悪深重の衆生は
他の方便さらになし
ひとえに弥陀を称してぞ
浄土にうまるとのべたまう」

と、『高僧和讃』にうたわれている。 「我が名を称えよ、助ける」と誓いをかけられている対象は極悪深重いわゆる逆謗・闡提の者、疑惑・無信の者にことに焦点を結んでいる。
そして、「ただ称えるばかりでよい。そのままなりで助ける、なにもいらぬ」との丸助けの仰せは逆に、私たち煩悩具足の凡夫は本願を信じる力はなく、疑いを晴らす力もない、まったくの邪見・疑惑・無信の助からぬ者であって、仏法に対する反逆の徒であることを照らし出される。

香月院師(深励)の御示談中に、ある人が問うて「仏様と凡夫の身上ありきりを聞かせて下さい」と。
その御答えに師は 「仏様の身上は助けてやる助けてやるがありきり、私の身上は助かられぬ助かられぬがありきり」 と、更に言葉を強めて
「仏様の身上ありきりは助けてやるだが、私の身上ありきりは疑いばかりじゃ」と言われたという。また金子大栄先生がよく引用される先達のお言葉に

「疑い晴らして信ずるにあらず、晴れざるは凡夫の心なり」

とあるが、実際その通りで、疑いの晴れないのが凡夫の心である。  このような凡夫が「称えるばかりでまるまる引き受ける、そのほかになにもいらぬ」との念仏往生の願にあわせていただくのである。  光は物に当たってそこに影を生むように、念仏往生の願(光)を聞かしめられることによって、本願を否定して止まない謗法・疑惑・無信の助からぬ身であることを知らされるのである。と同時にその助からぬ者をこそ助けたもう大慈大悲を知らされるのである。

ではなぜ大悲の願心を聞くことによって、信心が私たちに発起するのであろうか。それは不思議としか言い様はない。  仏心大悲に無碍光の徳あるゆえであろうか。宗祖は『信巻』に

「信楽というは、すなわちこれ如来の満足大悲・円融無碍の信心海なり」

と仰せられ、仏の円融無碍の信心海(大悲心)は凡心の煩悩に碍げられずに凡心に融け込んで凡心に離れなくなりたもう。凡心に一体となりたもうのである。これが摂取不捨の利益にあずかるということである。  凡心に届きたもう大悲心は不思議にも弥陀の本願を信じる信心になって下さるのである。だから本願を信じる信心は煩悩の心ではなく仏心なのである。
しかも一度いただいた信心は凡心の疑い心によって壊れもせず、なくなりもしない。  凡夫の疑い心は信心にたいして抵抗ができない。なぜなら信心は仏心であるゆえ真実の心であり、凡夫の疑い心は無明を元とした虚妄の心だからである。虚妄は所詮虚妄であって真実には逆らえない。
疑いと信心はちょうど闇と光のような関係である。周りを全くふさがれた部屋の中の闇は、どれほど長く深い闇であっても、部屋に一条の光がさし込むと、闇は光を通さないわけにはいかない。闇は光に抵抗できないのである。光は闇を破って、部屋を明るくする。  そのように凡心にたまわった信心は凡心の疑い心にさまたげられない、いわゆる無碍の信心であり、どれだけ凡心が疑い心を起こしても、たまわった信心には負けてしまう。  煩悩具足の凡夫であるかぎり、信心をいただいても疑いの煩悩はなくなるものではない。しかしながらいただいた信心においては、疑いの煩悩は往生のさまたげにならないのである。

では、信心がありながらなおある疑いの煩悩とは具体的にどのように表れてくるのであろうか。  それは「本当に浄土があるのだろうか」「本当に浄土に生まれるのであろうか」といった不審がふっと起こるばかりではなく、邪見や?慢などと伴って、自分の心の有様にこだわったり、自分の力への過信などとして表れてくる。  例えば、『歎異抄』(第九章)における唯円房の

「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」

というような不審である。  自分の心の有様を省みて、救われた喜びが乏しいとか、浄土へ早く参りたい心がないとか、あるいは病気になると死ぬのではなかろうかと不安になるなど、本願を信じた者にしてはあまりにもふさわしくない心が起こると、これで助けられる身であるといえるのであろうかというような不審が起こる。
これは自分の心への執われ(「人の執心」)であって、広大で深重な弥陀大悲のお心に全面的に依らないからであるが、そういう姿として現れてくる。
更には、世の中で慈善活動や社会活動を積極的にしている人たちを見て、 「念仏をいただいて称えているだけでいいのであろうか。もっと社会の人々の救いのために私は何か活動をしなければならないのではないか」と、お念仏に満足できず、本願のお力に物足りなさや不足を感じる場合などである。

これらは『恵信尼文書』によれば、聖人が人々を救わんがために三部経を読誦しようとされたことを、なお「名号のほかにはなにごとの不足にて」と思う「人の執心、自力の心」であると反省されたように、これらも疑いの煩悩の表れと言えるのであろう。
これは信心がないからではなくて、かえって信心があるから、信心の智慧によって照らし出された執拗な「自力の心」(自分の力への過信)である。
それゆえ聖人は『正像末和讃』に

「 小慈小悲もなき身にて
有情利益はおもうまじ
如来の願船いまさずは
苦海をいかでかわたるべき」

と和讃され「小さな慈悲心すらない己の力で人や社会を救えるとか、救おうなどとは思わない」と自力への過信をすて、「自他の救いは一筋に如来の本願力に依るほかはない」と仰せられている。
お念仏(本願力の働き)だけでは不足で、自分の行う社会的な善でこの世の人々を救うことができると思ったり、社会的な諸善を行って自分を満足させたいと思うのは、弥陀の本願力への信頼が不足している、いわゆる自力への執心であろう。
もちろん、お念仏に充足した上でさまざまな社会的な善をそれぞれの縁にしたがって行うことは結構なことであり、お念仏をいただいた者はそういう諸善に心がけるべきであろう。本願力を全面的に信頼しつつ、仏恩に応えるべく小さな善であってもできる縁があれば大いになすべきであろう。  私たちは煩悩具足の凡夫である限り、たとえ如来の本願を信ずる信心をたまわっても、疑いの煩悩はなくなることはないであろう。それは、聖人が『ご消息』の中でくりかえし「凡夫のはからい」をいましめられていることや、三部経読誦をしようとした心を「人の執心」「自力の心」として自己批判をされたことによっても知らされる。

疑いの煩悩は自らの力や知性に対する過信として、弥陀の本願を軽んじ、弥陀の本願への信頼の不徹底さとして現れてくることを教えられるのである。
そして、たとえ自力疑心からのはからいや自力の執心(自分の力を信頼する心)が起こっても

「仏智うたがうつみふかし
この心おもいしるならば
くゆるこころをむねとして
仏智の不思議をたのむべし」
(『仏智疑惑和讃』)

で、弥陀の本願力こそが真に自他を救いたもう真実の功徳であると、広大な本願のお徳にそのつど帰らせていただくのである。  それは、弥陀の本願を信じていないからではなくて、むしろ本願を深く信じていればこそ、その信心の智慧より自らの心の中にある自力の疑心や執心が〈深い罪〉として反照され、いよいよ仏願力に帰せしめられていくのである。
ところが信心がいただけていないと、自分の疑惑の心や本願をあやぶむ自分の思いにたぶらかされて、不可思議で広大な弥陀の誓願力を見失うのである。
以上、疑いの煩悩と信心の関係を述べたのであるが、妙好人で有名な三河のお園同行の〈疑いの歌〉に、

疑いよここききわけていんでたも
そちが居るゆえ信が得られぬ

疑いにここをのけとは無理なこと
むねをはなれてどこに行きましょ

疑いよ是非行かぬならそこに居よ
そちにかまはず信をとるべし

疑いはどこに居るかと問うたれば
かわりに出て来る念佛の声

とあって、信疑の実際の関係が巧みに歌われている

(了)

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