講題『摂取不捨の真理』の要旨 2025年6月19日 土井紀明
浄土真宗は阿弥陀仏の「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」(歎異抄第十二章)教えです。その本願というのは、一切衆生を救わんと立ちあがって建ててくださった法蔵菩薩の四十八願であり、その中心は、
たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん、もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。
という第十八願です。
これは一切衆生に、阿弥陀仏は「至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて」すなわち「お願いだから我が誓いをまことと信じて、わが浄土に生まれるとおもってくれよ」のお心で、つまりは「我が誓いを信ぜよ」との阿弥陀仏のお勧めです。では「我が誓い」とは何かといえば「乃至十念せん、もし生ぜずば、正覚を取らじ」であり、これを「念仏往生の願」といいます。
これは「たとえ十声でも一声でも我が名を称えるものを浄土に往生せしめずはこの法蔵は仏に成らない」という誓願、すなわち「我が名を称えよ、必ず救う」の誓いです。この誓いを「どうか信じてくれよ」が「至心信楽して」のおこころです。これに「ただ五逆と誹謗正法とをば除く」がついているのは、救われなければならない私たちの姿を教えてくださるのです。私たちは「罪が重く仏法を否定して救いから自分自身を除いている」者であるという「助からぬ機」であることをを教えてくださいます。そして第十八願はこの「助からぬ者」に焦点を当てて一切を救おうというお誓いであることを明かしているのです。
そこで第十八願における一切衆生を救済する誓いの内容を明確にするために善導大師は、第十八願の文言を加減し、
もし我成仏せんに、十方の衆生、我が名号を称せん、下十声に至るまで、もし生まれずは正覚を取らじと。
かの仏、いま現にましまして成仏したまえり。当に知るべし。本誓重願虚しからず、衆生称念すれば必ず往生を得。(『往生礼讚』)
と表しました。これによって法然は自らの救いをここに見出し、これを説いたのです。宗祖はこの法然の教えによって救われたことを歎異抄第二章に、
親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。
と信仰告白をしています。
ところで「我が名を称えよ、かならず助ける」という念仏往生の願を、「称えることを条件に助けたもう」願と受け取り、阿弥陀仏の丸助けの大悲心を受け取らないのは第二十願の自力念仏の者のすがたであると、宗祖は指摘しました。そして真実の救いは、第十八願の念仏往生の誓いを、称える名号において、丸助けのおこころとして聞き受ける一念の信心によって、その人に救いが成就することを、宗祖は第十八願成就文に確かめました。「聞其名号 信心歓喜」の信心です。これについて江戸期の高僧香樹院徳龍師のお話しに、
或る同行、翌朝、御暇乞いの御礼に参りければ、(香樹院師の)仰せに。
念仏するばかりで、極楽へ生まれさせてくださるるのじゃほどに。それを念仏するばかりと云えば、また称えるに力をいれる。そこで法然様の仰せに、差別が出来たのじゃ。ただ称うるばかりで助かることを、聞くのじゃほどに。他の同行えもよう云うてくれ。
(『香樹院語録』、平楽寺書店、一九三〇年、五四頁)
とあります。
こうして本願を聞信するところに救いが即座に成立するのです。それを歎異抄第一章には、
弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。
と表されています。摂取不捨の利益が与えられる、これが真宗の救いです。摂取不捨の利益とは現在ただいま阿弥陀仏に摂め取られることです。正信偈でいえば、「極重悪人唯称仏」との念仏往生の仰せを聞き受けるところに、「我亦在彼摂取中(我また彼の摂取の中にあり)」と経験的に知る利益をいただくのです。
以上が大経の教説ですが、この経説に説かれている一切衆生を救いたもう説法は、法蔵菩薩の願行成就の「物語」として説かれています。ところで浄土真宗は「物語」が救いのまことの根拠であろうか、という問題があります。もし説話が根拠になれば、大経に説かれた教義の言葉が真宗の究極の依り処になります。そうすると真宗教義への絶対化が起こる可能性があります。このことは現代の宗教における「聖典主義」あるいは「原理主義」の問題になりかねません。
大経における法蔵菩薩の本願の物語は何を根拠にして説かれたのかというと、普遍的な真理(真実)のはたらきを本に、釈尊はそれを私たち凡夫に知らせんがために、その真実のはたらきの有り難さを法蔵の願行成就の物語として説いたのです。その普遍的な真理を、宗祖は「摂取不捨の真理」(「淨土文類聚鈔」)といわれます。大経において、阿弥陀仏の大悲のはたらきを法蔵菩薩の願行物語として表現されたこの真理(真実)そのものは、法蔵菩薩の願行物語に先立って、無始以来、現在ただいま阿弥陀如来(注1)のはたらきとして実際にはたらいているのであり、その阿弥陀如来の大慈大悲の極まりなきおこころを聞信するところに救いが成就すること、そのことを宗祖は強調されました。(注2)そういうわけで法蔵菩薩の物語は「表現」であり、阿弥陀仏の摂取不捨のはたらきは「事実」であります。この違いを心得ておくことが大事だと思います。
では摂取不捨の真理はどういうものでしょうか。それを自覚的にあきらかにしたのが近代における真宗の先覚者といわれた清沢満之です。清沢師はまず「自己とは何ぞや」と問い、悪戦苦闘して、
自己とは他なし。絶対無限の妙用に乗托して、任運に法爾に、此の現前の境遇に落在せるもの、即ち是なり。(『清沢満之全集』第六巻、岩波書店、二〇〇三年、一一〇頁)
と表現しました。この意味は「絶対無限すなわち寿命無量の阿弥陀仏のはたらきによって、私の一切の計らいに先立って、一瞬一瞬今ここに置かれている存在、それが自己である」といいました。そして清沢師の影響下、曽我量深師は次のように真宗を表しました。
真宗教義は高くして卑く、遠くして近い。余はこれを左の三大綱目に依りて指示し得ると信ずる。
一、我は我也、
二、如来は我なり、
三、(されど)我は如来に非ず。
(「暴風駛雨」『曽我量深選集』第四巻、彌生書房、一九七七年、三五一頁)
また清沢師のこの自覚は後に、哲学者の西田幾多郎によって、
我々の自覚の本質は、我を超越したもの、我を包むものが我自身であるということがなければならぬ。(『西田幾多郎全集』第六巻、岩波書店、一九六五年、一二七頁)
と表されました。これは如来のいのちのはたらきによって私の存在は成立している。如来のいのちのほかに自己はないということです。
このように自己成立の根拠に阿弥陀仏を見出し、それを表明したのが大谷派の近代教学ですが、そういう阿弥陀仏と衆生の関係を宗祖は唯信鈔文意に、
この如来、微塵世界にみちみちてまします、すなはち一切群生海の心にみちたまへるなり。
と仰せられています。すなわち阿弥陀仏(のいのち)と人(のいのち)は一体であるといわれるのです。けれども人は阿弥陀仏ではありません。
この関係は、大乗仏教における中心思想の一つの文言である「一切衆生悉有仏性」にも表されています。この「仏性」の原語(梵語)は二種あり「ブッダター」と「タターガタガルバ」です。この「タターガタガルバ」の意味から、この文句を「一切衆生はことごとくタターガタガルバとして有る」と読むことができると思います。タターガタは如来、ガルバは胎児の意味で、一切衆生は如来の胎児、はかりなきいのち(無量寿如来)の胎児としてあるという意味になります。このように母親と胎児の関係の譬えで、阿弥陀仏と人の関係を知ることができます。母親のいのちと胎児のいのちとは一体であるように、寿命無量の如来と有限ないのちの人(衆生)は一体であるということです。けれども胎児は母親ではないように、人は阿弥陀仏ではありません。
問題は、胎児は母親の中にいることを知らないことです。それが凡夫としての人間の姿です。凡夫は阿弥陀仏のいのちの中にありながらそれを知らず、自我を中心とし、常に無償で与えられているいのちの依り処を見失って困窮し、老病死に繋縛された身として流転しています。そのことに気がついて、出口を求めますが、いかにしても自力執心の計らいから出られないでいます。それゆえ母なる大悲の阿弥陀仏は子なる私たちに南無阿弥陀仏と喚び続けてくださる。それによって「助からぬ私」であると自我の計らいが全面的に否定され、その身に「タノメ(南無)タスケル(阿弥陀仏)」「丸々引き受ける、まかせよ」と仰せくださるのです。そこに「ああ有難い、阿弥陀仏は私を引き受けてくださる」という信心が起こり、それは「私は阿弥陀仏に摂取され生かされている。阿弥陀仏のいのちのほかに私はない」という信心の智慧として展開してきます。この信心の智慧によって生死が超えられていくのです。これが浄土真宗の現世における救いであり、それによって浄土に生まれて仏になり、還相の菩薩として無窮に衆生救済のはたらきをさせていただくと説かれています。これが浄土真宗であります。(了)
(注1)ここでの阿弥陀如来は法性法身と方便法身をわけていません。
(注2)説話は事実ではないから捨ててよいかというと、そうではない。如来の大悲は悟った仏の説いた説話によって伝わる。説話は、今ここにはたらいて、口に称えられ耳に聞かされている南無阿弥陀仏がどれほどの大きな慈悲と智慧であるかを凡夫に知らせるブッダの教説で、これが法蔵菩薩の願行成就の話である。この説話に於いてアミダ仏の大悲を知り、その大悲が凡心に届いて信心となる。説話抜きの説法は大悲が凡夫に伝わりにくい。大悲が届いた信心の、その智慧によって普遍的な真理である「摂取不捨の真理」に目覚めるのである。それが摂取不捨の利益であり真宗の救いである。ただその説話も真理を悟ったブッダによって説かれたものであるから、如来の大悲の真実性が正しく精確に反映されて説かれているのである。だからどのような説話でもよいというわけにいかない。それゆえ真宗で法蔵菩薩の願行成就の物語が大事なのである。