愚鈍な私にとって〈いのち〉とは、具体的には先ずは「私の身体」である。 そこでこの身体を含めて物質的なるものを仏教(南伝)の解釈(注一)に従って理解すればーーー物質は四大すなわち地(堅さ、重さを作るエネルギー)・水(ものを結びつけるエネルギー)・火(熱や物を変化させるエネルギー)・風(ものを引き離すエネルギー)という四つの基本的要素的なエネルギーによってできている。それらの四つの要素の関わり合いの度合いによって、さまざまな形になり、しかもそれらさまざまな物は相互に関係しながら常に流動し変化しつつあるものであって、実体的かつ固定的な物ではないーーーと説かれている。
であれば私たちの身体は物質的エネルギーの活動の取る一つの形と見なし得る。
* 一方、これを現代科学の中で考えると、〈いのち〉である身体は、目とか鼻とか胃とか心臓とか頭とか足などの機能や器官がお互いに関わりあってできている。それらの器官も小さな細胞の集積であり、その細胞もさらに細かく分析していけば高分子の化合物としての分子の集積である。分子をさらに探っていくと原子の集積になる。原子は一定の性質をもった物質の基本的な構成単位であり、原子は原子核と電子で成り、原子核は陽子と中性子で構成され、原子核の周りを電子がまわっているといわれ、これら最小の物質の構成要素は素粒子と呼ばれる。
そして、身体のような生命体に限らず、物質的なあるゆるものは原子、もう一つ云えば素粒子の集合体であって、山も木も水も天体も、また人工的な建造物もみな素粒子の集合体だといえる。
さて、あらゆる存在の基本的な構成要素である素粒子の実体は何かというと、現代物理学の泰斗・故ヴェルナー・ハイゼンベルグは 〈あらゆる素粒子がエネルギーで構成されている。エネルギーを世界の本原的実体と定義される。
エネルギーは事実、それからあらゆる素粒子、あらゆる原子、したがってあらゆる物が作られる実体である。
エネルギーは動くものであり、エネルギーは世界のあらゆる変化に対する基本的な要因と呼んでよい。エネルギーは物質にも熱にも光にも変わりうる〉 (『現代物理学の思想』)
と云い、素粒子の内実はエネルギーであるという。万物は素粒子でできているのであるから、あらゆるものはエネルギーに依って成り、しかもエネルギーは物質に変換されうるばかりではなく熱にも光にも変わりうるのであるから、物体はもとより、熱も電気も光もエネルギーが展開するすがたといえる。
そして重力や引力も当然エネルギーであるから、宇宙空間は、原子が一面に飛び交っているところの、計り知れないほどのエネルギーがダイナミックに働いているところのフイールドであるといわれている。
なお、素粒子というのは決して実体的な粒子ではなく、相互に常に関わり、常に変化しつつある、エネルギーのダイナミックな活動の基本的なパターンをいったものであるといわれ、しかもエネルギーには変化すれども減りも増えもしないという〈エネルギー保存の法則〉があるので、エネルギーの展開活動はなくならないという。
こうしてあらゆるものがエネルギーにおけるそれぞれの形であるなら、我々のいのちである身体は、原子ないしは素粒子の集合体として、絶えざる変化をなしつつあるエネルギーが一つの形をとっているものだといえる。これが「いのちとは何か」の一つの答えであろう。
このように見ると、仏教的にも現代物理学的にも、私たちの身体的ないのちは、心とか精神な働きは別の領域とすれば、物理的なエネルギーの一つの活動体であるといえる。
* それなら、私たちのいのちと阿弥陀仏の寿命(いのち)との関係はどうなのであろうか。
このことについて法然聖人の『西方指南鈔』に源信僧都の言葉として、
「能化の仏は命ながく、所化の衆生は命みじかきあり、華光如来のごとし、仏の命は十二小劫、衆生の命は八小劫なり。(乃至)能化・所化ともに命みじかきあり、釈迦如来のごとし、仏も衆生もともに八十歳なり。あるいは、能化・所化ともに命ながきあり、阿弥陀如来のごとし、仏も衆生もともに無量歳なり」
と仰せられている。これによると仏と人はいのちに長短があり、能化・所化の位相に違いがあっても、いのちそのものは同一であって、阿弥陀仏の寿命と私たちの寿命とは共通項であることが示唆されている。
さらに『西方指南鈔』には
「仏の功徳を論ずるに、能持・所持の二の義あり。寿命をもて能持といひ、自余のもろもろの功徳おばことごとく所持といふなり。寿命はよくもろもろの功徳をたもつ」
と法然聖人は示され、寿命には能持の義があるといわれる。能持とは能く保ち維持する力であって、寿命の働き以外の仏の功徳(衆生救済の徳など)が保たれているのは仏の寿命としての能持の力によってであるとされる。
しかし、寿命における能持の義は仏の寿命だけではあるまい。人の人たる性質を能く保ち維持するのも人の〈寿命〉である。寿命あればこそ、考えたり行動したりする人の働きを為すことができる。バラの花なども同じで、花の性質(色・香など)を保つのは花の〈いのち〉であって、いのちが枯れるとバラの花の属性である色香は速やかにあせていく。 さてエネルギーは「物を動かしたり、物に変化を与えたり、あるいは生物に生命を維持させたりする源となるもの」と物理学では定義されているが、とくに「生命を維持させる源」という働きは仏教でいう寿命の「能持」の義と重なる。そうすると能持の働きである寿命は、その実エネルギーの働きのことだといえるのではなかろうか。
* このような物質的な自然界の力を仏教の中で捉えたのは近くは清沢満之師である。師は『朧扇記』に
「宇宙万有の千変万化は皆是れ、一大不可思議の妙用に属す。(乃至)一色の映ずるも、一香の熏ずるも、決して色香其者の原起力に因るに非ず。皆彼の一大不可思議の発動に基づくものならずばあらず」
「生死は全く不可思議なる他力の妙用によるものなり。(乃至)我等は寧ろ宇宙万化の内に於て彼の無限他力の妙用を嘆賞せんのみ」
といい、さらに『我が信念』では
「私の自力は、何等の能力もないもの、自ら独立する能力のないもの、其無能の私をして私たらしむる能力の根本本体が、即ち如来である」
といわれている。
このように清沢満之師は、万物の存在とその働きは絶対無限の不可思議な用らきによって成立し、さらにこの絶対無限の妙用は自己を存在せしめる「能力の根本本体」であるといって、それを端的に如来であるいっている。とすれば、清沢満之師は如来の働きの中に、万物を万物たらしめる広大な物理的エネルギーをも収めていると伺うのである。
* さて、寿命には能持の働きがあり、その内実は物理的なエネルギーの働きであるとすると、阿弥陀仏は無量の寿命とされるから、寿命無量の阿弥陀仏は無量のエネルギーであるという側面をもっているといえるのではなかろうか。
そうすると私たちのいのち(身体)の中身は物理的エネルギーであるから、私たちのいのちは無量のエネルギーである阿弥陀仏のいのちの中に統合されているともいえよう。これに関して『涅槃経』(寿命品)には 〈たとえば阿耨達池の四大河を出すがごとし、如来もまた爾なり。一切の命を出したもう〉 とあり、如来のいのちから一切のいのちが現われ出ると説かれているが、このことは少なくとも如来の寿命と人ないし万物のいのちとはその体が一つであることの経証になろう。
* このような話に対して〈如来は大悲の智慧〉であって、大自然の物質的な側面や物理的なエネルギーなどとは関係がないと批判されることは十分承知している。しかし、物質的な領域の基礎となるエネルギーの力を真宗大系の中に位置づけることによって、真宗の世界観を自然科学までも包括した世界観にまでに展開することができるのではなかろうか。そうすると阿弥陀仏の光明無量の働きである衆生救済に直接関わるのが宗教の領域であり、自然科学が専ら関わるのは、阿弥陀仏における寿命の側面である物質的領域だという視野も自ずから開けてこよう。
(了)
注一。スマナサーラ『ブッダの実践心理学』(物質の分析編)参照。