〈不死こそ救い〉
昨年の春、ご門徒の納骨法要のために川西市内にある霊園に行き、法要を終えて、立ち並ぶ墓石の中を歩いていた。ふっとある墓石に書かれた文字が目にとまった。「我を信じるものは死んでも生きる」と書いてあった。
「ああ、いい言葉だ」と思い、確か聖書の言葉だと思い出して、帰宅して調べるとヨハネ福音書に「私を信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、私を信じる者は、いつまでも死なない」とあった。もしこういうことが本当に言えるなら、それこそ、真の救いである。
現代人の一番の関心は長寿健康である。しかし長寿には限界があり死の壁は立ちふさがっているので、不安と嘆きは免れない。 「死んでも生きる」「いつまでも死なない」道はないのであろうか。これが生あるものの根本の願いである。 キリスト教で、ヨハネ福音書のこの言葉をどう理解しているのかは知らないが、この言葉に対応するような宗祖の言葉は『教行証文類・信巻』の本文の一番初めに
「謹んで往相の回向を案ずるに、大信有り。大信心はすなわちこれ、長生不死の神方」
とあるお言葉であろう。信心は「長生不死の不思議な方法」であると述べておられる。また『略文類』には「長生不死の妙術」と記しておられる。
まず〈長生不死〉と云う言葉ですぐに思いつくのは、阿弥陀仏の徳である無量寿という言葉である。長生不死とは無量寿すなわち量りないいのちと言い得よう。
そして、先取りして云うなら、もし量りないいのち(阿弥陀仏)こそまことの自己であるとするなら、自己は長生不死であると言える。いただいた真宗信心に〈自己は長生不死である〉という智見(智慧)の意義があるなら、信心において「私は死なない」と言い得るであろう。 それは大いなる恵みであるが、信心においてそう言えるのであろうか。
〈私は煩悩的自我〉
私たちは普通、判断し選択し決定している〈私〉を自己と考えたり、他者と比較したり競ったりしている〈私〉を自己としている。あるいは肉体(もしくは脳)を自己の当体と考えている。 しかし、西田幾多郎が
「迷いと云うことは、我々が対象化せられた自己を自己と考えるから起こるのである。迷いの根源は、自己の対象論理的見方に由るのである」 (「場所的論理と宗教的世界観」)
と言う如く、それらはみな対象化された自己であって、真実の自己ではなく、むしろ自我である。さて、自我は判断し選択し決定する機能であるが、自我が無明とセットになっているのが我執的自我であり煩悩的自我である。それが凡夫のさしあたって〈私〉と言っているものである。
煩悩的自我は、肉体を〈私〉と同一視しているので、「この私(肉体的私)はたとえ長寿で健康であっても死ぬほかない」となり、憂苦と不安が人生の基調となってしまうのである。
〈自我を弥陀に引き渡す〉
しかるに阿弥陀仏の本願のお心を聞くことによって、私の心は我執我愛の煩悩的自我と教えられ、煩悩的自我は悪と憂苦の元であると知らされる。
一方、称えているお念仏は、称えているままがお聞かせいただく弥陀のお助けであるが、お念仏のお心は、阿弥陀仏が私のすべての罪と死を引き受け、私に「そのままなりで助ける。まるまる引き受けて仏にする」との広大な大悲の思し召しである。どこまでも我執我愛の私を助けずにはおかないという大慈大悲である。
一方で私(自我)の心は真実なき我執我愛の塊であり、無知無能の者であると知らされ、一方でそんな私を「そのままなりで助ける」と仰せ下さるお念仏のいわれを聞かせていただく。そこに、どうしてみようもない助からぬ私と知らされ愛想が尽きてくると同時に、そういうものを引き受けて救わんとする弥陀の大慈悲心を知る。
そうすると、自我的私を見限り、〈私〉を阿弥陀仏に引き渡すことが自然に起こるのである。 救いなき私と知らされ、その私にナムアミダブツと喚びかけたもう「まるまる引き受ける」の大悲のお心が「我がためであった」と身に浸みて感じる時、はからずも大悲心が私の心を貫き心の底に届く。
すなわち大悲の心が「至心に回向したまえり」で「真心徹到する」のである。それがそのままが阿弥陀仏に〈私〉を引き渡したことになり、阿弥陀仏におまかせしたことになるのである。
〈弥陀とは何か〉
信心が発起すると、称えているお念仏が、時々ふいふいとあたかも大悲あるものの喚び声のように感じられるようになる。「ここにいる」「連れていく」「助ける」「引き受ける」との大悲のお心として感じられてくる。ほのかであっても、この感知はなくならず、年月の中でだんだんと強く感じられてくる。
そうすると、喚びたもう大悲心と私(自我心)との関係は、喚びたもう大悲心の働きの方が根柢であり、主であり、自我に先立っているものであり、一番身近なものであることが知らされてくる。
名師といわれた松原致遠師は「阿弥陀様は私の背中におられる」と日頃仰っていたとのことである 喚びたもう大悲のはたらきは、感じられるのは〈ほのか〉であっても、それは消えず、むしろそれこそが常に今ここに無条件に、自我の私に働いている。
大悲心は常に今ここに無条件に私に働いていることが感知されるが、同時に、今という時とここという場は、刻々と無条件に与えられている事実であることが知らされてくる。 大悲の用きと、いつも「今ここにあらしめられている」という存在の事実の常住性というか絶対性を疑うことはできない。それ以外のものは皆変転し生滅している。
今という〈時〉は対象化できないが、時を離れて存在はない。〈場〉は対象化できないが場を離れて存在はない。 時となり場となって現在しつつあるはたらきは、〈私〉に於いては自我を超え、自我に先だってある〈いのち〉といえるであろう。
そこでもし、常に働いている慈悲(智慧)という心的性質を「光明(心光)無量」に収め、現在という時と「ここ」という場に全存在がおかれ、それが刻々と連続しつつある全体を「寿命無量」の用きに収めると、光明無量と寿命無量になり、この二つが離れないものであるとして、それを〈私における阿弥陀仏〉と了解したいのである。
清沢満之師はそういう働きを 「自己とは他なし。絶対無限の妙用に乗托して、任運に法爾に此の現前の境遇に落在せるもの、即ち是なり」 と、現前しつつある絶対無限の妙用と言い、そしてそれが今ここに限定しているのが真実の自己であると表しているのではなかろうか。
また『臨済録』には 「赤肉団上に一無位の真人あり、常に汝ら諸人の面門より出入す。未だ証拠せざる者は看よ、看よ」 とあるが〈一無位の真人〉とはこの働きであると言えるのでは無かろうか。
大谷派のスローガンである 「今、いのちがあなたを生きている」 という〈いのち〉も同じ働きを言い表していると了解できる。
〈弥陀は声であう〉
阿弥陀仏(以下、弥陀)は〈ほのか〉に知れると言うことは、ぼんやりしてあやふやと云うことではない。弥陀は月や目前の机のように対象化して知ることはできない。だから、目の前に置いて確認するというわけにいかない。
弥陀は、知られる対象ではなくて、むしろ知る側にあるといえよう。対象化されて知られたものは、知るものではない。
対象的に知ることができない弥陀はどこか遠いところ、次元を超えたところに働いているのではなくて、今ここに現在しつつある。
弥陀は対象的に見ることはできないが、その働きを音声いわば言葉として聞くことができる。その言葉とは名号であって、弥陀は南無阿弥陀仏という大悲心を表現した言葉となってご自身を現している。それが私のところに現行してナムアミダブツとお聞かせ下さる。
だから南無阿弥陀仏の名を聞かせていただくところに弥陀にあうのである。弥陀は対象化して見ることはできないが、名を聞いているままが弥陀にあっているのである。弥陀は声(名声)であう。念仏の声は我が声であるが同時に弥陀の声であり、声であう弥陀なればこそ〈ほのか〉にあうというあい方である。
〈弥陀こそ真の自己〉
弥陀は喚ぶものであって、私(自我)は喚ばれるものである。弥陀は救うものであって私は救われるものである。弥陀は摂め取っているものであって私は摂め取られているものである。弥陀は乗せるものであって、私は乗せられているものである。
このような関係であるから、阿弥陀仏は主であり、私は客である。 しかも弥陀は単に私の外から私に関わるだけではなくて、私の心の内に入り私の主体となりたもう。
弥陀(仏心大悲)は私に入りて信心の智慧となり、弥陀こそ真実主体であることを知らして下さる。主体と言っても何かある実体というようなものではなくて、私の心に離れず、私の心を根底的に受け入れている大いなる心であり場所的な働きである。
弥陀はそういう意味での真実主体となりたもうゆえ、弥陀は〈自己〉〈真実の自己〉とも言い得よう。その自己は自我と区別されるが、自我と自己とは離れない。自我は表層的であり、自己は根底的である。
自我と自己の関係を希有の念仏者松並松五郎さんは
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 名から声から口元までも 私に目鼻を付けたような 所作までよく似て瓜一つ ほんにまあほんにまあ 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 ほんにまあほんにまあ 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 聞くに聞くほど
南無阿弥陀仏
と詠っている。自我と自己は別でありながら「よく似て瓜一つ」である。
〈自己は死なない〉
弥陀を知らない自我はそれだけでは不安定であるから、さしあたり肉体を〈我・我が物〉として妄執する。こうして、死すべき肉体と一つである〈私〉しか知らない煩悩的〈私〉は、死への不安と憂苦をまぬがれない。
しかし、今ここに働いている弥陀を自己とする時、「私は死なない」ということが言い得るであろう。しかしそれは、〈永遠のいのち〉というような実体を想定して、それを私というのではない。 〈生まれて死ぬ肉体としての私〉ではなくて、自我に即して自我に先だって、今ここに常に事実として働いている働き(弥陀)のほかに自己はないと知らされる。
そこに「長生不死」なる自己をほのかに知ることができる。この自己はまさに「死なない」と言えよう。 金子大栄師の詩に
「花びらは散っても 花は散らない 形は滅びても 人は死なぬ」
とあるが、この場合の「人は死なぬ」とは、死んだ人の思い出とか面影というようなものでは勿論なく、人(個物)として現れている〈いのちそのもの〉いわば真実の自己のことであるはずである。
ただ「長生不死」の信心の実際的実感はどうかというと、日々の実生活の中で、ふいふいとお念仏の御名において現れて下さる弥陀の仰せ、「汝を助ける」という仰せを聞く。それが反復されていくのである。
その仰せを聞くところに「ああ、阿弥陀仏は私とともにまします。浄土へ連れて行って下さる。私は死んで滅んではいかない」と喜ばせていただく外にはないのである。
〈弥陀は自己というより救い主〉
そのように弥陀を知り、それが真実の自己とほのかに知っても、日常生活においては煩悩的自我でとかく生きている。 妄執的自我を離れ得ない日常においては、自我は日常生活の〈私〉であるから、「阿弥陀仏は自己である」と主張するのではなく、むしろ弥陀をどこまでも真実の救い主として仰ぎ、その大悲を喜ばしていただくのである。
そして、現実の日常生活においては判断し選ぶ自我が必要であり、語ったり書いたりする当体である自我は阿弥陀仏の救いを表現する大事な役割を担うのである