法蔵菩薩の修行をどう受け取るか

法蔵の願行への問い

無量寿経に説かれている法蔵菩薩の〈発願・思惟・修行とその成就〉の経説をどう了解するかという問題を考えてみたい。
法蔵菩薩の願行とその成就の経説でまず問題になるのは、法蔵菩薩が一切衆生を浄土に生まれしめたいと誓願し、「一切衆生が浄土に生まれないようなら我は正覚(仏)を取らない」とまで誓われて兆載永劫の修行に入られた。にもかかわらず一切衆生が浄土に往生しない先に法蔵菩薩は成仏されて阿弥陀仏となられた、という。
この矛盾とも言える経説をどう了解すればよいのであろうかという点である。 曇鸞大師の理解  この問題はすでに曇鸞大師が問題にされていて、『浄土論註』に、

「巧方便とは、いわく、菩薩願ずらく、おのが智慧の火をもって一切衆生の煩悩の草木を焼かんに、もし一衆生として成仏せざることあらば、われ作仏せじと。しかるに、かの衆生いまだことごとく成仏せざるに、菩薩すでにみづから成仏す。たとえば火てん(ツケ木)をして一切の草木を摘みて焼きてつくさしめんと欲するに、草木いまだつきざるに、火てんすでにつくるがごとし。その身を後にして、しかも身先だつをもってのゆえに巧方便と名づく。」    (解義分・善巧摂化章)

と答えられている。  阿弥陀仏は、法蔵菩薩としての因位の願では、一切衆生を仏にならしめるのを先にし、ご自身は「その身を後にし」て成仏しようとされ、本願成就では、法蔵菩薩ご自身の身が先に仏となって一切衆生を救いえる仏になりたもう、と大経に説かれている。

それゆえこのおいわれを聞くことは、本願の因位でも果位でも「一切衆生を平等に救いたもう大慈大悲の阿弥陀仏まします」とお聞かせいただくことになる。  そこでこのおいわれを曇鸞大師は、〈巧みな大悲のご方便である〉と讃えられるのである。 従果向因の菩薩行  なおまた、この法蔵菩薩の願行は以下のようにも解せられている。
すなわち法蔵の願行は、凡夫の菩薩が修行して仏になるというのではなくて、いろもなくかたちもない法性法身が法蔵菩薩として因位の位に降りて願行成就されるのである。いわば不完全な段階(凡夫)から完全(仏)な段階へと進んでいくという因位から果位への修行(従因向果)ではなくて、すでにまします久遠の真実(法性法身)が因位の菩薩に下って久遠の真実を荘厳(顕現し回向する)したもうご修行という、すなわち〈従果向因〉の菩薩行であるといわれている。

宗祖聖人が、
「この一如宝海よりかたちをあらわして、法蔵菩薩となのりたまいて、無碍のちかいをおこしたまうをたねとして、阿弥陀仏と、なりたまう」                           (「一念多念文意」) と述べられているように、法蔵菩薩は一如(法性法身)から現れた菩薩であると仰せられている。
ということは因位でいえば法蔵菩薩としてのご修行の相であるが、果位からいえば功徳円満な仏であるといえよう。それはちょうど半月や三日月は表から見ると欠けた姿であるが裏からいえばいつも満月であるように。
それゆえ、法蔵菩薩の願行の姿は因位から果位へという相をとりながら、全体が久遠の阿弥陀仏の働きの相であるといわれるのである。

直線的な時間論での世界観
この問題についてはすでに先人によって言いつくされているであろうが、時間論からあえて愚考してみたい。
キリスト教やイスラム教では、人の生における時間を直線的に考えている。すなわち人は神によっていのちを与えられて誕生し、やがて死ぬ。死後、世の終わり(終末)が来るまで霊魂は不滅で不活性のままに続き、世界の終末に神の審判を受けて天国あるいは地獄、または煉獄に生まれる、と説かれている。またあるキリスト教では、神を信じた人は死して直ぐに天国へ昇天すると説く。ともかく、こういうのがオーソドックスな教義とされている。  これは、人の主体は初めがあり終わりに至るという、いわば時間を直線的に考えている。
なお今日の一般的な人生観でも短い間の直線的な時間軸で〈生〉を考えている。親から生まれ、永くて百年ほど生き、そして死して一切終わる。これは、ある意味であっという間の一生であり、「生から死への時間がすべて」という見方である。これも時間を、過去から現在へ、現在から未来へと一方的に動きゆくという時間の見方である。一般の学校で習う自然科学(ニュートン力学)では時間は直線的に移りゆくと教えられ、それは現代人の人生観に影響していると思われる。

円環的時間論での世界観
一方、仏教では衆生の生を円環的、循環的な時間で考えている。衆生は、生まれ、老い、病み、死して、また生まれるという生死流転を繰り返しているという。生まれ変わり死に変わりして主体は、五道(地獄・餓鬼・畜生・人間・天上)・六道をへめぐりながら連続し続けると説かれている。ただし、これは迷いの生の姿であり、これを〈分段生死〉という。
仏教の目的はそういった生死流転をこえて不生不死の領域(仏)に至るのが目的である。そして仏になれば、そこに留まるのではなくて、迷える衆生を救済し続けるために、菩薩となって苦の世界に入り、生まれ変わり死に変わりしながら衆生を救済し続ける、これを〈変易生死〉という。
大乗仏教では、分段生死の凡夫から変易生死の菩薩へと転換し、無窮に循環しながら働きゆくのを目的とし、それがあるべき姿とする広大な循環的世界観である。

こうした〈存在における円環的な生死流転〉以外に、宇宙論においても仏教ではやはり円環的、循環的な時間軸で見ている。
宇宙は、生滅を繰り返していると説く。宇宙が生まれるのに二十劫(成劫)かかり、それが維持される間が二十劫(住劫)、そして宇宙が壊れていくのに二十劫かかり、宇宙が滅んでなくなっている間が二十劫(空劫)と説かれている。この成・住・壊・空のプロセスをくり返し続けているという長大な宇宙観である。

勿論、これは古代インドにおける仏教の宇宙観であって科学的に証明されているというようなものでない。しかし最先端の現代の宇宙論にもこれに似た説がある。
なお空間的世界について、キリスト教などでは、神が世界を創造し、やがて世界は終末を迎えて終わるというように時間をやはり直線的に考えている。

円環的に見た法蔵の願行
そこで仏教の円環的な時間軸から法蔵菩薩の誓願とその成就の経説を考えてみたい。 「法蔵菩薩が発願して五劫思惟し、本願を選択摂取して修行し、既に阿弥陀仏と成られて十劫を経ている」という大経の経説を直線的な時間で考えると、法蔵菩薩は願行を成就し終わって、今はもう阿弥陀仏であって法蔵菩薩ではない、ということになる。
しかし、これを円環的な時間軸で考えてみると、法蔵菩薩は発願思惟し、願行成就し終わって仏に成られたが、それは円環しているのであって、初めがあって一回りして終わると、終わった点がまた初まりである。そしてまた菩薩行を修行し、ぐるっと回って願行成就して終わるが、そこがまた初まりである。円は始点から回って終点に至り、そこがまた出発点となるように。  このように無窮に円環的に法蔵の願行は続いていくと見ることができる。 救いの法は成就している。
このような円環的な時間軸で見た場合、「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまえり」(「浄土和讃」)で、法蔵菩薩の願行は、すでに成就して阿弥陀仏になっておられるという、これは何を意味するのであろうか。  それは、一切衆生を仏にするという法蔵菩薩の願と行は成就して、「一切衆生を救うことのできる大法はすでに成就している」ことを表す、と了解してはどうであろうか。

法蔵菩薩の願行成就によって一切衆生を助ける法は完全に仕上がっていて法は衆生にすでに回向され、一切衆生に喚びかけている。
阿弥陀仏は「汝を往生せしめる功徳はすでに出来上がっている。助けるぞ、助かるぞ」と一人ひとりによりそって、喚び続けておられる。私たちが念仏を申し、そのお念仏が耳に聞こえてくるということは、回向された法(出来上がった仏因)が今私に「汝を助ける、引き受ける」と、〈南無阿弥陀仏〉の名号として与えられ喚びかけられているということである。それは、 「我仏道を成るに至りて名声十方に超えん。究竟して聞こゆるところなくは、誓う、正覚を成らじ」(「大経」) という誓いが成就して、その名号を今聞かされているのである。
その名号を聞き受ける(信受する)ことが南無阿弥陀仏の法(仏因)をいただくことである。仏因をいただけば、私の往生が定まるのである。  救いの法は聞き受けさえすればよいほどに出来上がっている。ちょうど難病の病人(機)を直す特効薬(法)を長年かかって作り、それを患者の口元までもってきて、「さあこれを飲んでくれよ、助かるぞ」と仰せ下さっているようなものである。患者は飲みさえすればいい。
衆生は名号の法(仰せ)を「ハイ」と受け取るだけでいい。それは、「助ける」という法の仰せのままを〈聞く〉〈聞き受ける〉だけのことである。無量寿経ではそこを「その名号を聞いて、信心歓喜する」と示されている。南無阿弥陀仏を「汝を引き受ける」という仰せとして聞いているままが、〈このままなりで助けて下さる〉と弥陀をたのんでいることになっているのである。

機の信心成就が課題
だから法蔵菩薩はすでに阿弥陀仏になられたということは、一切衆生が仏になることの出来る法(仏因)はすでに成就していることを表している。  ただしかし救いの法は成就されていても、一人ひとりの機の上に信心として法が回向成就されているとはいえない。
もし一切の機の側の信心も十劫正覚の時にすでに成就したのなら、一切衆生はすでに信心を得てすべて仏になっているということになる。
そうなると法に対する機の意味は無いことになる。機は法にいかに応答し、法をいかに映し出すかが常に問われているのであって、そこに機の側の責任もあれば自由もあり、機の意義もある。
しかるに衆生はお助けをいただきたいともおもわず、仕上がっている法をそのまま受け取ることもしない。こうして法は一切衆生に回向されているが、救いの法を機の側が受け入れていない現実がある。いわゆる信心成就の問題が残る。しかも救われていない機が無数といっていいほどいることになる。
そこに万人にお助けの法が信受されねばならないという課題がある。

信心成就への法蔵の願行
その課題のゆえに、法蔵菩薩はすでに阿弥陀仏になっておられる上に更に利他の願行を行い続け、一切衆生の上に法を成就せしめたいと永劫にわたるご修行をされているのではなかろうか。
衆生は無数であるから法蔵の願行も永劫となる。それを〈法蔵菩薩の兆載永劫のご修行〉というのではなかろうか。
こうして法蔵菩薩の願行は、 「たとい、身をもろもろの苦毒の中に止るとも、我が行、精進にして忍びて終に悔いじ」(「大経」) と、一人ひとりのために永劫にご苦労したもうのである。

一人ひとりの法蔵の願行
なお〈一人ひとりの法蔵菩薩〉ということについては、『浄土論』や『論註』では、浄土の菩薩は無数の衆生の処に至って利他の修行をされると説かれていることが参考になろう。世親の『浄土論』には、
「かの菩薩を観ずるに四種の正修行功徳成就あり、知るべし。何者をか四となす。一には一仏土において身動揺せずして十方に遍して、種々に応化して如実に修行し、つねに仏事をなす。(乃至)二にはかの応化身、一切の時に前ならず後ならず、一心一念に大光明を放ちて、ことごとくよくあまねく十方世界に至りて衆生を教化す」
また『浄土論註』には、
「願はくはわが国のうちには無量の大菩薩衆ありて、本処を動ぜずしてあまねく十方に至りて種々に応化して、如実に修行してつねに仏事をなさんと。たとへば、日の天上にありて、影は百川に現ずるがごとし」
と説かれている。天上の太陽や月は無数の川にその影を映すように、浄土の菩薩は十方世界の衆生に分かち至りてて仏事をなされる、と説かれている。それは一人ひとりに寄り添い仏事をなされる法蔵菩薩の姿でもあろう。
真実の無限(真無量)は、有限なるものにそれ自身を現すのが、真実の無限であって、有限に無限を現さないような無限は真実の無限ではない、といわれている。「まことの無限は一切の有限を包むとともに、小さな塵のような有限の上にまことの無限を現す」と先達は仰せられている。
分段生死している一人ひとりに法を与えるべく、一人ひとりのために法蔵菩薩は願行し続けている。
しかも機の上に信心が成就するのは本来「一念」であって、機の方には手間もヒマもいらない。お助けの法は完全に成就されているので、法が機の上に成就するのは「聞く一念」で可能である。それほどまでに仕上げられている法である。十劫正覚の時に出来上がった法をいただくのはいつでも今可能なのである。にもかかわらず衆生は自らをたのむ故に法を拒絶し続けている。

信心成就は法蔵の願行成就
そういう衆生の一人ひとりに信心を成就せしめんとして一人ひとりに寄り添って法蔵菩薩は願行を続けておられる。  時至って機の上に信心が成就されることによって、法蔵菩薩の願行も成就され、一人が法を信じて救われた時、一人ひとりの法蔵菩薩も仏に成られる、といえるのではなかろうか。以前「数数(さくさく)成仏」という言葉を聞いたことがあるが、それはこの意をあらわした言葉ではなかろうか。  逆に私が法を拒絶し、疑ってやまないなら、私における法蔵菩薩はいつまでも仏になれず、御苦労をおかけし続けている。法は極難信の法ゆえ、「ただ不思議と信じる」ばかりの難信の法を機の上に信受せしめんとの、どこどこまでものご苦労である。  この法蔵菩薩の大慈大悲の願行のおかげで「その名号を聞いて信心歓喜」(「大経」)し、「南無阿弥陀仏はこんな私のためでありましたか」「ああこんな私のための法蔵菩薩様のご苦労であった」と信受されるのである。

法蔵の願行は還相の利他行へ
親鸞聖人が、
智慧の念仏うることは
法蔵願力のなせるなり
信心の智慧なかりせば
いかでか涅槃をさとらまし
(「正像末和讃」)
と詠われたご和讃などは、法蔵菩薩を、阿弥陀仏になる前の過ぎ去った菩薩というよりは、現在に働いて下さっている法蔵菩薩の願行のご苦労を感佩されておられるように伺われる。
では一旦私が信心決定し往生成仏したら、もう法蔵菩薩の願行は〈私においては終わってしまった〉のであろうか。
そうではなくて、法蔵の願行は、私の真実主体となって、今度は還相の菩薩としての働きへ転じていき、これによって衆生を救う利他の行を無窮に始められることになるのではなかろうか。
こうして、法蔵菩薩の願行は成就して南無阿弥陀仏になられ、私たちがこの身のままでまるまる助かる法はすで成就している。そしてその法を衆生はそのままいただくばかりで助かるのであるが、法蔵菩薩はその法を信受せしめんとして、どこどこまでも一人ひとりにおいて利他の修行をし続けて、信心の機を成就しようとして下さる。であれば私たちの往生の行も往生の信もすべて法蔵の願行のおかげである。

そして法蔵菩薩の願行は一人ひとりを還相の菩薩たらしめて、無窮なる衆生救済の利他行として働き続けていかれるのであろう。であれば法蔵の願行の修行と還相の菩薩の利他行とはその体は一つであるともいえよう。
以上のように、仏教の円環的な時間論から法蔵菩薩の願行とその成就の経説を伺うなら、法蔵の願行は過去・現在・未来へと永劫に御苦労下さるお姿であると、大変有難くいただかれるのである。

(了)

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