戦後に生まれた私たちが学校教育で教えられた世界観は物質的な世界観であり、この世界を知るのは科学的合理的な知性によってであると教えられてきた。
科学はどこまでも物質の領域に関わる学問であるが、そのめざましい発展は人をしてすべてを科学的知性から見るようにならしめていく。
今日その端的な例が脳科学で、心とは何かという問題にしても、心は脳の働きであると同定し、脳を観察研究することによって心は解明できるとまで云われるになった。
科学では、現実的に、知覚され、観測され、計量されるものこそ確かなものであって、対象的に観測計量されないものは不確かなもの、あるいは観念的乃至は単なる空想と位置づけられる。科学的で合理的な知性で確認されたことだけが正しいとされ、それ以外は誤りかあるいは不明なこととして退けられる。
自然科学においては存在するのは物(生き物を含めて)としての大自然だけである。 それゆえ科学的な世界観には神も仏もなく、来世も過去世も認めない。あるのは徹底して現世だけであり、人は死んだら無に帰する。
◇ 日本人は戦国時代を境に徐々に現世主義化してきたといわれる。江戸時代の文化はすでにその色合いを濃くしてきているが、明治以後、急速に取り入れられた西洋の自然科学とその合理主義的な考え方は現世主義をさらに推し進めた。
戦後の教育は専ら科学教育が中心となり、こうした現世主義的な見方は今日の日本では極端なまでに浸透したといえよう。
こうした物の見方を身につけた上で、後から仏教を学んできたのが私たちである。私たちが身につけてきた物の見方の基礎は科学的合理的な知見であって、その枠組みの上で仏教を学んできたのである。そうすると、仏教を学んでも知らず知らず、科学的合理主義的な知性に合えば、それを受け入れ、合わねば受け入れないという態度で学んでしまう。 試みにこのような合理主義的な知見を本にして真宗の教法を敢えて捉えてみれば、まず死後の浄土も死んで浄土に生まれることも認めない。浄土もこの世においてのみ有意味であり、往生もこの世での事であり、還相回向も現在の私の人生上のでき事とする。いわんや輪廻転生はまったくの負の神話である。
そして、阿弥陀仏とは「はかりなきいのちの仏」であり、私たちは「阿弥陀のいのちから生まれて、阿弥陀のいのちの働きに生かされ、最後は阿弥陀のいのちに帰る」と解釈されるが、その実「はかりなきいのち」というのは要するに自然科学でいう大自然の大いなる生命の働きのほかではない。
◇ このような理解が一概に誤りであるとはいえないであろう。しかしこうした理解は今日の現世中心の科学的合理主義の考え方に深く影響された結果であると言えよう。
私たちはその時代社会の思想傾向や情況の影響を知らぬまに深く受けている。その傾きをよく自覚しながら仏教を学ばなければ、仏教が現代社会を教化するのではなくて、仏教が現代社会に〈教化〉せしめられることになりかねない。
(了)