自力の聞法

卓上に短編法話集がある。その中の話を三つ取り出してみたい。

一。盲学校のある生徒が「目がみえないのは不自由や。でもぼく、不幸やとおもうたことあれへん。不自由と不幸は違うんや」と言った。何という明るさでしょう。

二、歳を取って、ガン手術をして病院通いを続けているある聞法者のお手紙に「ひび割れた古茶碗のような身の上で、人生列車の終着駅が見えてきた感じです。でもこのひび割れた古茶碗、いつこわれてもみ手のまんなかということをありがたく思う」とありました。

三、愛人が出来て離婚を宣告されたアメリカ在住の元妻が、真宗の教えを聞くことによって、自分がいままで勝手気ままにふるまってきたことに気づき「人をうらみ、相手を責めることは間違い責任はすべて自分自身だと、受けて立ったら、主人も相手の女性にもわだかまりがなくなり感謝できるまでになった」という。

*  このいう話自体は尊い話である。ただこの話を聞いた私(聴衆)が「たとえ身体が不自由であっても、それを不幸と受け取らない。そういうような生き方をしたい。それでこそ信心の生活だ」と思い、世間でいう不幸を不幸と受け取らないような人間になろうとするとか、あるいは「いつ死んでも仏のみ手の真ん中と思えてこそ信心なのだ。そういう信心の人になろう」としたり、「聞法をすることによって怨んできた人をも感謝できるようになりたい。そうなるのが信心」と受け取って、そうなろうとする。
これらはみな十九願的立場であろう。この立場はまた以下の形にも表れている。

*「大いなるいのちのはたらきに生かされていることに気がつくことが大事」と聞いて、「私は自分の力で生きているのではない、生かされているのだと気がつくのが信心。生かされていることに目覚めなければならない」

*「人間は我執我愛の煩悩の存在である。仏法を聞くことによって自分の罪悪深重な我が身を知らせていただくことが信心」と聞いて、「自分の罪悪深重なことを自覚しなければならない。罪悪に目覚めるのが信心だから」

*「生きることもし死ぬることも如来のはからいである。そればかりか一切は如来のお計らいである。そのことに目覚めるのが信心」と聞いて、「すべては仏様のお計らいであると目覚めたい、目覚めるのが信心だから」

*「人間のいのちのそこには平和で平等な人間関係を願ってともに生きたいという純粋な願いがある。その本願を我が願いとし、平等で自由なで平和な関係を願って生きてこそ真宗人であり、信心のあかしである」と聞いて「私もそのような純粋な願いに生きていこう。そう生きるのが信心だから」

*「社会には様々な問題がある。そうした問題をになって生きるものであってこそ真宗信心」と聞いて、「社会の諸問題をになうような生き方をしよう。それでこそ真宗の信心だから」  いろいろ列挙しましたが、以上のように受け取る立場を十九願の立場というのではなかろうか。そこには「自己破綻」はなく、したがって「本願(弥陀)をたのむ信心」は発っていない。
この十九願的立場を固執する限り「定散心雑するがゆえに、出離その期なし」(化身土巻)で、いつまでたっても「どうかなろう」「どうかなりたい」という自力の心がやまず、弥陀の本願そのものにあえない。それは、十九願の信心と十八願の信心の区別が付かず、十九願的立場を「真宗信心」そのものと思い誤ってしまうからではなかろうか。

(了)

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