真宗大谷派教団の機関紙「真宗」の平成二十八年六月号に載せられた池田勇諦師の『御本尊還座式』での記念講演(平成二十八年三月三十一日)の内容は、今後の大谷派真宗教学の展望を示唆する講演であった。
●伝統教学の核
まず池田師は、香樹院徳龍講師の言葉である「南無阿弥陀仏は百千音聲の法なり」(注一)を引用し、南無阿弥陀仏は音声の法であり、阿弥陀仏は音声仏であるといわれる。すなわち称えられる南無阿弥陀仏は「仏が私たちの上に名告り、現れてくださるお姿だということ。つまり呼び声である」。
また「呼び声としての称名は、それ自身のうちに聞くこころをまで成就されている呼び声であり、称名はすなわち聞名ですから、称名の主体は仏です」、そして「称名念仏は、いつでも・どこでも・誰にあっても、すべて所行の法、音聲仏のお出まし、この身に仏が来てくださった!事実」と仰せられる。
そして「ここにこそ私たちの真実の生き方、それが開かれる一大転換が孕まれている」と。
これが講演前半の内容の要点である。これは大事な点で、このことはすでに伝統教学によって説かれ続けてきた内容である。
●近代教学の核
そして師はさらに続けて、後半で次のように話される。
「私たちは私たちの思いを超えて阿弥陀仏につかまれている。仏願が私たちに願ってくださっていることは、〈汝の本座に帰れ。あんたのおり場に帰れ〉、この一点ではないでしょうか。私たちは自分の本当のおり場を離れ、自我に生きているから、孤独や不満や不安が起こるのである。音声の法を聞き続けていく、そこに真実の生き方がある。私の思いを超えて、この身を突き動かしている如来に、すでにつかまれている、これがこの身の事実であったと、そこに気づかせていただく、この一点が大事である。
そしてそこには当然、仏に背いている私、仏に背いている世の中の在り方を問わずにはおれない歩みとなる」 と。この短い講演の中に、真宗の伝統教学の核と大谷派近代教学(あえていえば清沢教学)の中心的な核が表示されている。
●聞名に誓いを聞く
ただ、大谷派の現代教学はこの二つの核の関係がなお不統合なまま今日に到っている。この核が不統一のため、門信徒は聴聞してもうろうろしてしまう、これが大谷派の現状だと思われる。
今回の講演ではこの二つの中心点(核)が提示されているが、二つの核の内容がなお不透明であるとともに、この二つの核の間にどういう関係があるのかが示されないままであった。
そこでこの問題を宗祖の教えを通して考えてみたい。
同じ講演で池田師は宗祖の『一念多念文意』の
「名号を称すること、とこえ(十声)、ひとこえ(一声)きくひと」(聖典。五四五頁)
を引用し、十声一声の称名を聞く、称名はそのまま聞名であると言われる。
その通りであろう。称名の主体は阿弥陀仏であり、阿弥陀仏は衆生の称名の場において南無阿弥陀仏の名号となって喚びかけたもう音声仏(音声法)である。
さて問題は、如来は南無阿弥陀仏となって喚びかけたもう、その喚びかけの内容が何なのかということである。それはこの講演では示されないままであった。
これは非常に大事な点で、それはいうまでもなく第十八願であり、念仏往生の願である。
称えているお念仏の声は、念仏往生の誓いの名号(喚び声)である。
宗祖の『唯信鈔文意』(聖典。五五一頁)に、
「聞名念我というは、聞というは、きくという。信心をあらわす御のりなり。名というは御なともうすなり。如来のちかいの名号なり」
とあって、〈聞名〉とは単に名を聞くのではなく如来の誓いの名号を聞く。名を聞くは誓いを聞くのである。誓いとは念仏往生の誓願であり、〈聞く〉とは念仏往生の誓願を聞くのである。
ところで、念仏往生の願とは大経の第十八願であるが、しかしそれは『歎異抄』第二章に「善導の御釈」とあるように善導大師の第十八願の解釈、すなわち、
「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚」 (もし我成仏せんに、十方の衆生我が名号を称せん、下十声に至るまで、もし生まれずは正覚を取らじ)(聖典。一七五頁)
に明かされている内容である。大経の第十八願文で言えば、
「乃至十念 若不生者 不取正覚」 (乃至十念せん、もし生まれざれば正覚を取らじ)(聖典。十八頁)
の願文が念仏往生の誓いである。 宗祖の『ご消息』でいうと、
「弥陀の本願ともうすは、名号をとなえんものをば極楽へむかえん](聖典。六〇六頁)
との願である。それを、称名念仏の声において聞くのである。
●法然の場合
こうした宗祖の了解は、宗祖が法然聖人の法語等を編輯された『西方指南鈔』の中にすでに示唆されている。
「阿弥陀佛は、〈乃至十念 若不生者 不取正覚〉とちかひて、この願成就せしめむがために、兆載永劫の修行をおくりて、今已に成佛したまへり。この本願業力のそひたるがゆへに、諸佛の名号にもすぐれ、となふれば、かの願力によりて決定往生おもするなり。かるがゆへに如來の本誓をきくに、うたがひなく往生すべき道理に住して、南無阿弥陀佛と唱てむ上には、決定往生とおもひをなすべきなり」(真宗聖教全書四の一七九頁。大八木興文堂)
「しかれば、たれだれも、煩惱のうすくこきおもかへりみず、罪のかろきおもきおもさたせず、たゞくちにて南無阿弥陀佛ととなえば、こえにつきて決定往生のおもひをなすべし。決定心をすなわち深心となづく。その信心を具しぬれば、決定して往生する也」(真宗聖教全書四の一九一頁)
とある。ここで〈如來の本誓をきく〉というのは〈乃至十念 若不生者 不取正覚〉という、いわば〈称えるばかりで助ける〉という誓いを聞くのである。
〈南無阿弥陀仏ととなえば、こえにつきて決定往生のおもひをなすべし〉で、この誓いを口に称えるお念仏の声において聞き〈往生間違いなし〉と受けとるのだと仰せになっている。それが素直に聞き受けている姿である。
なぜなら口に南無阿弥陀仏と称えると、称える念仏の声について〈乃至十念 若不生者 不取正覚〉の誓いを聞く。すなわち「称えるばかりで助ける」の大悲の本願業力を、称えているお念仏において聞くのだから、おのずとそこに「助けて下さる」との「決定往生のおもひをなす」ことになるのである。
この法然聖人の二つのご法話は同意趣であり、これを編集された親鸞聖人は、自らの称名において〈聞其名号〉し、名号に表されている念仏往生の誓いを聞信するところに不退転に住するという意義を大経の本願成就文の上に明らかにされたのである。
池田師の言われるように、一人一人に称名として現れたもう南無阿弥陀仏は「仏が私たちの上に名告り、現れてくださるお姿だということ。つまり呼び声である」。ただその喚び声は私たちにどう喚んで下さっているのか。それは〈乃至十念 若不生者 不取正覚〉という誓いの喚び声である。
称名において念仏往生の誓いを聞く信心、その信心一つで往生が定まるのである。ここに伝統教学の核がある。
●金子大栄師の領解
金子大栄師は、
「〈我が名を称えよ〉の一句こそ、人間の生活をいたみ、人間のために祈り、人間のために根本的な救いを与えたい慈悲からの言葉である。だから〈我が名を称えよ〉という一句を聞くこと、それを念仏というのである。念仏というは何であるか。念仏というは他にあるのでない。〈我が名を称えよ〉という言葉を聞くことである。で、南無阿弥陀仏を称えるのであるが、その南無阿弥陀仏を称えるということは、最も純粋な意味では〈我が名を称えよ〉というその声を聞くことよりほかにない、それを本願の名号と呼んで、親鸞聖人は〈本願の名号は正定の業である〉とおっしゃっている。吾々は仏の名前によって救われるのである、という道が開けたのが念仏の教えである」(『教行信證講話』七二頁。文栄堂)
と仰せられているが、全くその通りであると思う。
●清沢満之と近代教学
さてもう一つの核、それは近代大谷派教学の要点で、それを今回の講演では「すでに思いを超えて阿弥陀仏につかまれている事実に気づかせていただき、そのおり場に帰る」と話されている。いわゆる大谷派の教化の中でしばしば申される「思いは自力であり、事実は他力である。思いを超えている事実に帰れ」とのことである。安田理深師の言葉でいえば「思いに死んで事実に生きる」である。
以上のことはもと清沢満之師が、 自己とは他なし、絶対無限の妙用に乗托して任運に法爾に、此の現前の境遇に落在せるもの、即ち是なり。 (池田師訳――自己とは他でもない、人間の考えや言葉を超えた阿弥陀のはたらきに運ばれ、自然のままに道理に随って在る現前の事実こそ、真の自己である) と表現された内容に基づいている。
現前の境遇、それが今ここの事実である。この現前の事実こそ私のはからいに先だって与えられている私の真の居り場である。
この居り場を離れて、自らの思いを中心にしていわゆる(自分の思いを叶えようと計らう)立場に固執するところに苦しみがある。自分の思いを叶えたいという自我の欲求とか「こうあらねばならない」という自分の信条(思い)に固執して苦しむのである。
それゆえ〈自分のあらゆる思いを超えて、すでに与えられている今の事実そのものに帰れ〉と説いてきたのが近代大谷派教学の核である。そしてこの教説は多くの人をうなずかしめたのである。
●事実はつかまえられぬ
だが、では〈どうしたら今ここの事実に帰ることができるのか〉という点がはっきりしなかったのと、近代教学が、伝統教学に於ける本願念仏の信心(本願の行信)とどういう関係があるのかが不透明なままなので、近代教学の話にうなずくことはできても、そこからは道がつかずうろうろとしてしまうというのが教化の現場の実状ではなかったか。
その点、池田師の講演はその問題に少し触れておられ「音声の法を聞く」ところにその道があることを示唆しておられる。
本願念仏を聞く信心という伝統教学の核と、思いを超えてすでに私をつかんでいる事実に帰るという近代教学の核は、どうつながっているのか。
実は、思いを超えた事実いわゆる〈純粋事実〉というものは、今ここにすでに全面的に働いている事実であり、私たちの存在もそれに於いてあり、今・今と流動しつつある事実である。しかもこの事実は私たちの思惟分別で対象的につかむことはできない。
これを教化の現場の事例でいうと、 例えば、仏法聴聞して「他者や人生を自分の思い通りにしたいという自分の思いで苦しんでいた」と自己批判するが、やがて又自我の思い中心の生活に引き戻されてしまう。そして又聴聞して自己批判するという、自己批判(思い)の繰り返しから出られない。
あるいは、「自分の思いではなかなか引き受けられないけれども、どんなことが起こっても身の事実は引き受けている」と聞いても、その〈身の事実そのもの〉に帰ることができない。ただ「身の事実はすでに引き受けているんだなあ」と考えている〈思い〉から出られない。それは〈事実〉をなお対象化して考えているのであって、考えてつかんだものは事実ではなくて、事実に対する新たな〈思い〉いわば概念に過ぎない。
こうしたことは、禅の言葉で「向かわんと擬すればすなわち反く」とか、ある女同行が「阿弥陀様は袖つかまえにかかると逃げなさる」と言っている事柄である。純粋事実(阿弥陀仏)は私の側からつかめるものではない。つかまえようと計らうとそれは逃げてしまう。
むしろつかまえんとする主体の側にすでにそこに働いているのであって、あまりにも身近すぎて対象的に捉えられないのである。そしてこちらからそれをつかまえにかかることを〈計らい〉という。
計らいでは捉えられない、如何にしても阿弥陀仏はつかまえることはできない、こちらから一指も触れることはできない。いわゆる我が力にては力およばず、「いずれの行もおよびがたき身」なのである。
●本願念仏の救い
事実(阿弥陀仏)はつかまえられぬが、事実はすでに私とともにあって私を成り立たしめ、私をつかんでいる。ただ私たちはそれに気づかない。 気づかないゆえに、阿弥陀仏の功徳は私の上に活性化しない。
たとえ「阿弥陀仏は私を生かしている」などと頭で分かっても、それは〈事実〉をどこまでも対象化して〈そう思っている〉にすぎないのである。生ける阿弥陀仏にふれていない。そしてどこまでも思い計らいから離れられないのである。
こうしてみずからの力(計らい)では如何ともしがたく、「できない なれない わからない」という壁にぶつかるのである。いわば「往(ゆ)くも死せん、回(かえ)るも死せん、住(とど)まるも死せん」という三定死の場に出さしめられる。
しかるに、その捉えんとする私をすでにつかんでいるのが純粋事実、つまり阿弥陀仏である。有難いことに阿弥陀仏は、計らいどうしの私に背後から喚びづめに喚んでいて下さっているのである。「お前の力では阿弥陀仏はつかまえられぬ。助からぬ汝である。けれどもそんなお前をどこまでも離さない。引き受けている」と。いわば「助ける」「引き受ける」と背後から喚びかけて下さっているのである。その喚び声が南無阿弥陀仏の名号である。
そこにはからずも称える南無阿弥陀仏において「我が名を称えよ」「まるまる引き受ける」「助ける」の驚くべき大悲のお心が知らされるのである。お念仏に於いて南無阿弥陀仏の喚び声を聞き、この仰せに喚び覚まされて「ああ、阿弥陀仏が全面的に引き受けて下さるのであった」と知らされるのである。
そこに不思議にも阿弥陀仏の大慈大悲の心は助からぬ我が心に届いて下さり、凡心に離れなくなりたもうのである。これを「摂取不捨の利益」という。宗祖は『正像末和讚』に
「弥陀の本願信ずべし 本願信ずるひとはみな 摂取不捨の利益にて 無上覚をばさとるなり」(聖典・五八八頁)
と仰せられている。如来大悲の誓願を信受する時、摂取不捨の利益に預かるのである。
●信心に弥陀の実在を知る
こうして私に離れざる摂取の大悲心を知るのである。そこに、「助けるでタノメ」と喚びかけたもう阿弥陀仏は〈今ここにまします〉ことをほのかながらも感知せしめられるのである。
南無阿弥陀仏の名声は「〈我は〉ここにいる。汝とともにいる」と仰せ下さる阿弥陀仏のましますことを感知せしめられるのである。 そうすると、「今ここ、我ならざる、我を超えたはたらき(阿弥陀仏)」に私は置かれていることを知る。すなわち「現前の境遇に落在している身」であることを知るのである。私に離れず、私を受けとっている大いなるいのちの用き(阿弥陀仏)をほのかながらも知るのである。
この量りなき用きはいつでもどこでも、今ここにまします。今ここにいる刻々の自己存在の事実、それが「生かされている事実」であり、生かしめたもう用きが阿弥陀仏すなわち寿命無量である。
無量寿は、一切の存在(個物)の場所を成立せしめている〈場所の場所〉、いわゆる「絶対無の場所」(注二)として活動したまう。
この万人に共通する普遍の事実、これに目覚めるのが宗教の根本目的であるが、このことを清沢満之師は強調し、その影響下に大谷派近代教学は形成されてきたのである。
●念仏が無ければ難行道
お念仏なくして純粋事実〈如来〉にあうこと、それは可能ではあろう。自己批判を尽くし思惟を尽くして、その極、であうこともあろう。あるいは禅定に依る方法もあろう。しかしそれは人間の側からの行(修習なり訓練なり)であって難行である。愚悪の衆生が容易に近づける道ではない。
しかるにお念仏は、人間の側の修行ではなくて、如来から与えられる行である。しかも極めて行じ易き行である。如来は称名念仏という易行を選択し、これを衆生に与え称えしめ聞かしめて、そこに大悲の願心を表現したもう。この如来選択の易行を受行(注三)し、行に表現されている本願の思召しを聞く。
もしも、「今ここの身の事実に帰れ」とか「生かされているいのちに目覚めよ」とか「思いを超えて、一切を引き受けている身の事実に気がつけよ」とか言うだけで本願の念仏がないなら、知性による教義理解(思い)の中を空転するばかりとなる。こうして「目覚められない」「帰れない」「分からない」という現実にぶつかり、その前でただうろうろしてしまうのである。
●弥陀をタノムが事実に帰る
しかるに本願念仏の仏言(仰せ)は、凡夫の力では純粋な事実に帰ることも目覚めることも到底不可能であることを知らせる。いわゆる「助からぬ身」であると知らせたもう。 と同時に、その助からぬ身に「そのままなりで引き受ける、マカセヨ」と仰せ下さるのである。その「助からぬ者を助ける」と喚びかけたもう大慈大悲の仰せが南無阿弥陀仏の名号であり、お念仏の声である。
助からぬ身に南無阿弥陀仏の大悲の言葉を聞く、そこにはからずも大悲心が届いて下さる。お念仏を聞くという〈聞其名号〉において、「至心廻向したまえり」で、仏心は凡心に届いて救いが現実化するのである。
ここに〈愚鈍の凡夫〉にも開かれている道がある。
これを一言にて言えば、南無阿弥陀仏は、どこまでも得ようつかもうと計らう自我を全面的に否定し、そこに如来ご自身を真実主体として露わにしたもう真実の言葉である。 南無阿弥陀仏を聞き南無阿弥陀仏とたのむ、そこに阿弥陀仏なる純粋事実におのずから帰せしめられるのである。
そこを『自然法爾章』では、
「弥陀仏の御ちかいの、もとより行者のはからいにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまいて、むかえんとはからわせたまいたるによりて、行者のよからんともあしからんともおもわぬを、自然とはもうすぞとききてそうろう」(聖典。五一一頁)
と仰せ下さっている。南無阿弥陀仏と聞かせ南無阿弥陀仏とたのましめて、阿弥陀仏に〈むかえ〉取られるのである。いわゆる帰せしめられるのである。
こういう無上の方便が本願念仏の法である。この本願念仏という大悲の真実の言葉を通して、阿弥陀仏につかまれている身の事実に〈帰る〉のである。
こうして、本願念仏を聞く信心で助かるという伝統教学と、思いを超えている今ここの事実に帰るところに救いがあると説く近代教学が、〈聞其名号〉の信心一つにおさまるのである。
●終わりに
近代教学の特色は人間存在の普遍的な事実(真実)を開示し、自我の思いを破って純粋な今ここのいのちの事実に帰するところに人間の真の救いがあることを表示してきた。この救いは同時に真実の自己発見であるという普遍的価値を表した救済論であった。
こうした近代教学がもっている現代的意義が、『教行証文類』等に構築されている浄土真宗の伝統教学の上に統合されてこそ、現代に応答する豊かな真宗教学(注四)が可能であろう。
今回の池田師の講演は、伝統教学の核である本願念仏の仏法と近代教学の「自己存在の事実に帰する」という核とが提示された講演として大変に示唆的であった。
(了) 注一。禿 義峰編「安心小話」(一六三頁。無我山房) 注二。西田哲学でどう意味づけられているかは正確には知らないが、この言葉そのものが言い得て妙であるので用いた。 注三。『淨土文類聚鈔』に「最勝の弘誓を受行して」(聖典。四〇二)とある。 注四。本願念仏に統合されない近代教学に留まるなら、本願寺派の教学とは齟齬をきたしかねないし、きたしたままであり続けるであろう。