私たち朋友学舎では現在、『教行信証』を学んでいるが、真宗の学びは「謙敬して聞き」(大経下巻)という聞法の姿勢がことに今日大切に思われる。
思うに本願寺派の説教はともすると、現実の問題との接点が希薄で、教義が固定的形式的に、いわば紋切り型に教義が説かれ、教法の一人歩きの傾向が強い。一方大谷派のそれは、真宗の法義そのものよりも総じて〈自己の受け取ったところを語る〉ことが多い。この差異は大谷派に清沢満之師が出たことに関係があると思われる。
◇ 清沢満之師の求道姿勢は、金子大栄師に言わしむれば「自己本位」といわれるものであった。この自己本位というのはとても大事なことで、今日の〈自己中〉という悪しき意味では無論ない。
それは自分におけるナマの苦悩、死の問題はもとより生計の問題、人間関係の問題、社会からの問題提起といった日夜襲いかかる自己の煩悶苦悩をひっさげて仏法を求め、仏法に学びかつ生きるというきわめて自己に真摯な態度をいうのである。
こうした求道聞法の態度は清沢門下の人々に受け継がれて、今日の大谷派における真宗領解の態度的特徴となっているのである。
◇ ところでこの〈自己本位〉の態度は、うっかりすると真宗の依りどころである浄土三部経の仏言、七祖の教説、宗祖親鸞の仰せを軽んじることにもなりかねない。真宗の教法に対して自分が「どう思い」「どう考え」「どのように感じているか」を、教法の内容よりも勢い大事にしすぎることになるのである。
こうした個人性の尊重は、個人の主張が抑圧され国家や政府の理念が押しつけられた戦前の教育の反動で、戦後の教育が一人一人の考えや主張を大変重んじてきたことと無関係ではないであろう。
そういう戦後の教育を受けてきた私たちは個人の自己主張が重んぜられることは当然のことであった。
このような個人の考えの尊重は、真宗を学ぶものにとって、ともすると弥陀の本願とは何であり、経典の釈尊は私どもに何を教え、宗祖はどう私たちに語っているかに全身をあげて謙虚に誤り無く聞き入ろうとする、そのことよりも「自分は今何を考え」「現在私は何を思い」「私は今何を個人的に経験しているか」というような私個人の考えや思想や感性などに重きが置かれてくる。
このことがそのまま間違いというのでは勿論ない。しかし、もともと煩悩具足で邪見慢の心に振り回されやすい私たちにとって、自分の想いや考えを尊重することは、ともするとお聖教の言葉を軽視してしまうのである。そのことは敢えて言えば、お聖教の言葉の真実性に信頼することなく、またお聖教の真意をろくろく伺うこともなく、〈自見の覚悟〉に捕捉されてそこから出られなくなるのである。
そうなると、寺院でのご門徒への教化は仏法を語ることにならず、私たち銘々の〈思い〉を発表する場となりかねない。そのことは僧俗ともに仏陀に教化される場としての真宗寺院の本来性が失われることを意味する。
◇ 私たち朋友学舎の聞法研修の場は、苦悩の有情たる自己の問題と無関係に真宗教義を学ぶことにも陥らず、かといって真宗仏祖の教言をさしおいて個人の主観性に根拠をおく学びにも堕さず、清沢満之師のいわゆる自己本位の姿勢を通しつつ、謙虚に教法からの〈語りかけ〉に耳を傾けて学ぶ、そういう学びの場でありたいと思う。