●名号説法を聞く
たまたま宗祖の『浄土論註・加點本』(親鸞聖人全集・加點篇二)を読んでいると、これまで気がつかなかったのだが、下巻の〈解義分・観察体相章〉の〈荘厳功徳成就〉の文中に、
「諸苦の衆生、阿弥陀如来の至徳の名号説法の音声を聞けば、上の如きの種々の口業・繋縛・皆解脱を得て如来の家に入りて畢竟じて平等の口業を得」
とあって、〈名号説法〉という言葉に非常に引き付けられた。 『論註』は何回か読んではいたが、気がつかなかったのである。改めてこの言葉に深い意味を感じるのである。
ところが、大谷派宗務所出版部の『解読・浄土論註』ではここの読みが,「諸苦の衆生、阿弥陀如来の至徳の名号、説法の音声を聞かば、上の如きの種々の口業繋縛皆解脱を得て如来の家に入りて畢竟じて平等の口業を得」 となっていて、〈名号説法〉が「名号、説法」という風に分けて読まれていた。宗祖の加點本での写真版も名号と説法の間は切れていない。なぜ切ったのか。それは大谷派出版部が〈凡例〉のところに、「その読み方ではどうしても意味が通らない場合に限り、通途の読み方に改めた」からであろう。
けれども「至徳の名号、説法の音声を聞けば」という読み方をするとむしろ宗祖の意から後退するのではないかと思うのである。私は『浄土論註』の〈名号説法〉という言葉を宗祖は大事にされたので、名号と説法を分けずに読まれたのだと思う。ということは、宗祖は阿弥陀仏の名号はそのまま阿弥陀仏の説法であると見ておられたのだと思う。このことは、宗祖が『教行証文類・行巻』のはじめに引用された『大経』(あるいは如来会)における重誓偈の第十七願意の引用の仕方にそれが顕著に示されている。 その引用文は、
「我仏道を成るに至りて名声十方に超えん。究竟して聞こゆるところなくは、誓う、正覚を成らじ、と。
衆のために宝蔵を開きて広く功徳の宝を施せん。常に大衆の中にして説法師子吼せん、と。抄要」 となっている。 ここで注目するのは、「我仏道を成るに至りて名声十方に超えん。究竟して聞こゆるところなくは、誓う、正覚を成らじ」 と、「衆のために宝蔵を開きて広く功徳の宝を施せん。常に大衆の中にして説法師子吼せん」 の句とは、重誓偈では元来離れているのであるが、宗祖はこの二文をくっつけて引用し、しかも、ことに大事な要の言葉という意味の〈抄要〉の語を添えておられる。これは何を意味しているのであろうか。
初めの文句は「名号を衆生に聞かしめたい」という誓いであり、もう一つの文句の内容は、功徳の宝を衆生に与えることと、〈阿弥陀仏ご自身が常に衆生に説法する〉ことである。 『行巻』のこの引用の仕方は続いて引用された『如来会』の重誓偈においても同様である。 ということは、名号を十方の衆生に聞かしめることは、仏の功徳を施し与えることであり、それはまた、阿弥陀仏ご自身の説法を聞かしめることである、とそう伺うことができる。
すると、この引用文は極めて重大な意味をもっている。
すなわち、聞かされる名号はそのまま阿弥陀仏の直説法である、ということになる。こういう意味を宗祖は重誓偈の文言の中に読み取られたのであろう。であれば、第十八願の成就文の「其の名号を聞いて、信心歓喜し乃至一念せん」の「其の名号を聞いて」の意味は、第十七願の因願からは、諸仏の名号讃嘆によって本願念佛のいわれを聞かせていただくという意味があるが、重誓偈の第十七願意からは名号を聞くことは弥陀の名声を聞くことであり、阿弥陀仏の説法獅子吼を聞くことであると了解することができる。
名号を聞くままが阿弥陀仏の説法を聞いているという意味になる。そしてそれを聞き受けたのが信心歓喜の一念であると、宗祖は領解されたのではなかろうか。
こういう『大経』の本願成就文の思し召しを読むとき、それはすでに曇鸞大師も注意せられていたことであり、それが『論註』の、 「諸苦の衆生、阿弥陀如来の至徳の名号説法の音声を聞けば、上の如きの種々の口業、繋縛、皆解脱を得て如来の家に入りて畢竟じて平等の口業を得」 といわれるような、名号説法の音声を聞くばかりで解脱を得るという大師の領解になったのではなかろうか。
●三つの説法
さて普通、説法といえば布教者の説法である。そして真宗の説法の源は釈迦如来の『大経』の説法から始まる。釈迦如来が弥陀の本願を説かれた『大経』の説法は七高僧や宗祖やその他の布教者の説法として連綿として続いて現在に至っている。
そこで真宗の説法と云う場合、釈迦如来の説法(浄土の経典)布教者における説法 である。この二つの説法に対して、〈名号説法〉という阿弥陀仏の直接の説法を加えて、これら三つの説法を検討してみたい。
まず布教者の説法はどうであろうか。真宗の布教者の説法は、釈迦如来の説かれた弥陀の本願をお取り次ぎすることである。弥陀の本願のお心を説くことによって、民衆は弥陀の本願を聞くことができる。ところで布教者の説法が、弥陀の本願を説かず、布教者自身の個人的な見解や感想を述べることに留まるなら、それは真宗の説法にはならない。しかもその個人的な見解が真宗の教法から逸脱している場合は返って聞法者を惑わせてしまう。
次に、真宗における釈迦如来の説法とは、弥陀の本願を説かれた浄土の経典ことに『仏説無量寿経』である。弥陀の本願による一切衆生の救済を説かれた浄土の経典を、私たちが拝読することは釈迦如来の説法(弥陀の本願)を聞くという意味になる。ただ、釈迦如来の説かれた経典の言葉は、説かれる時と、説かれる場所と、対告衆の機根、そして説法の機縁などの条件の下での説法であるから、その中には真実へと導く〈方便としての説法〉もあり、100%純粋で普遍的真実ばかりが説かれているとは言えない。
そして最後に〈名号説法〉の言葉である。これは名号がそのまま仏(阿弥陀仏)の純粋説法ということである。南無阿弥陀仏の名号は常住なる真実である阿弥陀仏の名のりであり、音声であり、喚びかけである。それゆえ名号は阿弥陀仏直々の説法であり、純粋で普遍的な真実そのものの言葉すなわち「摂取不捨の真言」(『総序』)である。
●名号説法の内容
こうして、南無阿弥陀仏は十方衆生への阿弥陀仏の直説法であるが、その説法はどういう内容であるかというと、いうまでもなく阿弥陀仏の本願である。阿弥陀仏の本願が私たちに働いていて下さっていることを全く知らなかった私たちに、人間の言葉で説き表して下さったのが釈迦如来であり、『仏説無量寿経』である。
その中で、弥陀の本願は四十八願として説かれ、その中心は第十八願の念仏往生の願である。すなわち第十八願は、十方の衆生に「乃至十念若不生者不取正覚」(十回なりとも念仏申すばかりで往生せしめん)の誓いを、「至心信楽欲生我国」で、信受せしめて救わんとの法蔵菩薩の願である。法蔵菩薩はこの念仏往生の誓いを成就し、「救いを告げる」本願の名号として衆生に称えしめ聞かしめて下さる。それゆえ名号を聞くは誓いを聞くのである。「乃至十念若不生者不取正覚」(称えるばかりで助ける)の誓いを聞くのである。
称える念佛において、「我が名を称えよ」の誓いを聞く衆生には、念仏往生の願は「助からぬ者をそのままなりで助ける」「助ける」の仰せとして感知される。お念仏において、第十八願は「助ける」の仰せとして聞こえてくる。それが「本願招喚の勅命」すなわち阿弥陀仏の喚び声であり、名号説法の端的な内容である。 〈名号説法〉を聞くとは、耳に聞こえる名号において、この私の救いを告げていて下さる、その仰せを聞くのである。
このことは弥陀の名声を聞くことであり、阿弥陀仏の説法獅子吼を聞くことであると了解することができる。名号を聞くままが阿弥陀仏の説法を聞いているという意味になる。そしてそれを聞き受けたのが信心歓喜の一念であると、宗祖は領解されたのではなかろうか。 こういう『大経』の本願成就文の思し召しを読むとき、それはすでに曇鸞大師も注意せられていたことであり、それが『論註』の、
「諸苦の衆生、阿弥陀如来の至徳の名号説法の音声を聞けば、上の如きの種々の口業、繋縛、皆解脱を得て如来の家に入りて畢竟じて平等の口業を得」
といわれるような、名号説法の音声を聞くばかりで解脱を得るという大師の領解になったのではなかろうか。
さて普通、説法といえば布教者の説法である。そして真宗の説法の源は釈迦如来の『大経』の説法から始まる。釈迦如来が弥陀の本願を説かれた『大経』の説法は七高僧や宗祖やその他の布教者の説法として連綿として続いて現在に至っている。そこで真宗の説法と云う場合、釈迦如来の説法(浄土の経典)布教者における説法 である。この二つの説法に対して、〈名号説法〉という阿弥陀仏の直接の説法を加えて、これら三つの説法を検討してみたい。
まず布教者の説法はどうであろうか。 真宗の布教者の説法は、釈迦如来の説かれた弥陀の本願をお取り次ぎすることである。弥陀の本願のお心を説くことによって、民衆は弥陀の本願を聞くことができる。 ところで布教者の説法が、弥陀の本願を説かず、布教者自身の個人的な見解や感想を述べることに留まるなら、それは真宗の説法にはならない。しかもその個人的な見解が真宗の教法から逸脱している場合は返って聞法者を惑わせてしまう。
次に、真宗における釈迦如来の説法とは、弥陀の本願を説かれた浄土の経典ことに『仏説無量寿経』である。弥陀の本願による一切衆生の救済を説かれた浄土の経典を、私たちが拝読することは釈迦如来の説法(弥陀の本願)を聞くという意味になる。 ただ、釈迦如来の説かれた経典の言葉は、説かれる時と、説かれる場所と、対告衆の機根、そして説法の機縁などの条件の下での説法であるから、その中には真実へと導く〈方便としての説法〉もあり、100%純粋で普遍的真実ばかりが説かれているとは言えない。
そして最後に〈名号説法〉の言葉である。これは名号がそのまま仏(阿弥陀仏)の純粋説法ということである。 南無阿弥陀仏の名号は常住なる真実である阿弥陀仏の名のりであり、音声であり、喚びかけである。それゆえ名号は阿弥陀仏直々の説法であり、純粋で普遍的な真実そのものの言葉すなわち「摂取不捨の真言」(『総序』)である。 こうして、南無阿弥陀仏は十方衆生への阿弥陀仏の直説法であるが、その説法はどういう内容であるかというと、いうまでもなく阿弥陀仏の本願である。
阿弥陀仏の本願が私たちに働いていて下さっていることを全く知らなかった私たちに、人間の言葉で説き表して下さったのが釈迦如来であり、『仏説無量寿経』である。 その中で、弥陀の本願は四十八願として説かれ、その中心は第十八願の念仏往生の願である。 すなわち第十八願は、十方の衆生に「乃至十念若不生者不取正覚」(十回なりとも念仏申すばかりで往生せしめん)の誓いを、「至心信楽欲生我国」で、信受せしめて救わんとの法蔵菩薩の願である。
法蔵菩薩はこの念仏往生の誓いを成就し、「救いを告げる」本願の名号として衆生に称えしめ聞かしめて下さる。 それゆえ名号を聞くは誓いを聞くのである。「乃至十念若不生者不取正覚」(称えるばかりで助ける)の誓いを聞くのである。称える念佛において、「我が名を称えよ」の誓いを聞く衆生には、念仏往生の願は「助からぬ者をそのままなりで助ける」「助ける」の仰せとして感知される。お念仏において、第十八願は「助ける」の仰せとして聞こえてくる。それが「本願招喚の勅命」すなわち阿弥陀仏の喚び声であり、名号説法の端的な内容である。
〈名号説法〉を聞くとは、耳に聞こえる名号において、この私の救いを告げていて下さる、その仰せを聞くのである。 耳に聞こえる名号とは、一番具体的には自身の口に称え現れる念佛の声としての南無阿弥陀仏の名号である。称える念仏の声を耳に聞くことが、阿弥陀仏の「助ける」「まるまる引き受ける」の説法を直づけに聞くことなのである。
●文字の言葉と音声の言葉
なお、経典の言葉やお聖教の言葉は書かれた文字の言葉である。この文字の言葉と、音声となった名号の言葉には違いがある。このことを指摘しているのが大峯顕師で、大峯師は『信心の伝統・下』の中で、次のように言っている。 「いったい、言葉というものの一番根源的で純粋な姿は、人間に対する真理の呼びかけです。呼ぶことと応えることとの対話が、およそ言葉の最も根源的なあり方です。
ところが、人類が文字を発明して以来、眼で見る文字になったものが言葉だという考えが習慣化してしまいました。書かれた文字が言葉だという考え方が一般的になってしまって、言葉の呼びかけというものを現代人は感じにくくなったわけです。 文字になった言葉は、私たちに直接呼びかけて来ません。聖教を読んだだけではなかなか信心が得られないのもそのためです。
書物は私たちに何かを説明している言葉になっても、私たちに呼びかける言葉になりにくい。言葉が水平面に寝てしまって、垂直的に立ち上がってこないわけです。文字とは、いわば横に寝た言葉であります。けれども、言語の根源的な姿は、あくまでも私たちに呼びかけ、語りかける言葉です。書かれた文字は第二次的なもので、語り、応えるという対話にこそ言語の根源的な姿があるという真理を、哲学者ハイデガーは正しく捉えています」と。ハイデガーがこういう言葉の考察をしているといわれている。
言葉の根源的な姿は「呼びかけ、応える」という音声の言葉であって、文字の言葉は第二義的であるといわれている。これは大事なことで、阿弥陀仏は言葉となって喚びかける、その言葉が阿弥陀仏の名号であり、耳に聞こえる音声としてのナムアミダブツの声である。 法蔵菩薩は一切衆生をいかにして救済すればよいかをご思案になって、その思案の結果、名号となって喚びかけることによって一切衆生を救済できると、確信されたのであろう。
阿弥陀仏は音声の言葉となって自らを表現し、それによって衆生をして大悲に目覚ましめようとされる。 お聖教や掛け軸の文字の南無阿弥陀仏は「寝ている」、いわば能動性が感じられない。しかるに耳に聞こえる念仏の声は私に対して喚びかける能動性があり、働きかけがある、いわば「立ち上がっている」のである。 それが喚び声としての名号であり、私たちはそこに「どこどこまでも助けずにはおかない」という能動的な大悲の願心を感じるのである。
阿弥陀仏の能動的な本願の喚びかけに感応する、そこに信心が生まれる。 書かれた文字にはそういう能動性(働きかけ)が弱いゆえ、お聖教や真宗の書物を読むだけでは信心が起こりにくいのである。
●弥陀は声であう
真実実在(阿弥陀仏)は私からは掴まえることはできない。逆に私は 真実実在によって掴まれている。真実実在(阿弥陀仏)は、私にいつでも今ここに働いているが、私の側からは掴むことはできない。阿弥陀仏はいつでも今ここに働いているが、私たちはこのことを知らない。知らない私たちに阿弥陀仏はご自身を知らせようとする。どのように知らせたもうか。それは誓いの御名となり、名声となって知らせたもう。阿弥陀仏は今の名声となって、今の私に臨在したもう。それが耳に聞こえる念仏の声であり、音である。この音声となって現れたもう名号は現在只今における仏心大悲の自己開示である。
音声というものは現れてはすぐ消える。掴むことはできない。南無阿弥陀仏の名号の音声も聞くことはできるが掴むことはできない。ただ今、聞くばかりである。聞くばかりで私は、阿弥陀仏にであい、逆に阿弥陀仏に掴まれていることを知る。
ところが書かれた文字は動かないから掴まえられる。文字は過去にも現在にも未来にも続きうる。文字の南無阿弥陀仏は掴まえうるが、しかしそれは真実の阿弥陀仏ではない。生きた阿弥陀仏は対象的に捉えることはできない。むしろ捉えんとする側にすでに来ている。 阿弥陀仏が今ここにましますことは、阿弥陀仏の名のりである名号を聞くことにおいて知らされる。こういう道理を顕すために音声の名号となって現れたもうのではないか。こうした事態を西田幾多郎博士は、
「絶対者と人間との何処までも逆対応的なる関係は、唯、名号的表現によるの外にない」(「場所の論理と宗教的世界観」)
「ミダの呼声というものの出で来ない浄土宗的世界観は浄土宗的世界観にはならないと思います。 あの人は場所ということを今でも観ずることと思っていると見ゆ。場所とは対象的に観ずるものでなく自己のいる場所ではないですか。 場所の自己限定は我々の個に対し偉大なる仏の表現、切なる救いの呼声です。 場所論理にては内在的即超越的なものからその自己表現として仏の御名というものが出てくるのです。故に我々は仏を信じ、その御名を唱うることによって救われるのです。仏を観ずるなどというのではありませぬ。観ずることのできないものだから唯の名号を唱えるのです」(「西田幾多郎随筆集」)
といわれている。 阿弥陀仏(場所)は私たちの側から、対象的に観じて捉えることのできないものであって、阿弥陀仏ご自身が名号となって称えられ、喚び声となって自己表現して下さることによって、私たちは知りえるのである、と博士は言われるのであろう。名号を聞くところに弥陀に遇う。それについて西脇善桂師は、
「真実の親に遇ふたと云ふは、盲人の、人に遇ふたと云ふやうなあひよふである。只向ふより言葉をかけられた丈、見たのでも訳ってからでもない、お聲をかけられたままで、遇ふたことになったのじゃ」(「信者めぐり」
といい、希有な念仏者松並松五郎さんは名号を、 「それそれ声が弥陀じゃぞや、弥陀が声と成ってお前を迎えに来た。あいに来た。連れに来た。弥陀直々の迎えでも物足らぬかや」 と体験的に感知された。また曽我量深師は、
「南無阿弥陀仏は生ける言葉の仏身なり」 といわれ、南無阿弥陀仏は言葉となられた生きた阿弥陀仏であると仰せられている。
●仏心は名声によって届く
この名号説法を聞くのは、名号を称えることによって現実化する。それゆえ諸仏善知識は「本願の名号がわれらの救いである、念仏申せ、念仏を聞け」とお勧め下さる。名号を称え、名号を聴き、名号のいわれ(大悲の願心)を聴聞する。そういう念仏聞法の中で如来の大悲心は凡心に届いて下さる。 ところで『大経』の嘆仏偈に、
「正覚の大音 響き十方に流る」
とあるが、仏の覚りから現わるる真実は、音となり響きとなって十方衆生に流れ入るとの仰せであろう。 なぜ真実のはたらきからの音なり響きなりが、十方の衆生に流れ入るのであろうか。 音とか響きとか声が、人の心に深い情感を伝達することは音楽経験によっても周く知られている。南無阿弥陀仏の音声の響きにおいて如来の大悲のみ心を聞く。南無阿弥陀仏は、大慈大悲の極まりなき情(なさけ)であるとともに、名のりであり、音であり、響きであり、声である。大悲のこの名声を称え聞くことによって、大悲のお心は人の心に浸透し心の深部に届くのではなかろうか。道綽禅師の『安楽集』に、
「ただ浄土の一門のみありて、情をもってねがいて趣入すべし」
とあるが、これは仏の大悲の心(情)をいただいて浄土門の救いに入れと、道綽禅師は仰せられているのであろう。如来大悲の音声を聞くことにおいて、人の心に仏心大悲の情は響き入り、凡心に届いて下さるのではなかろうか。けれどもそれは、阿弥陀仏に助けられる身になるために、お念仏を行ぜよというのではない。
むしろ、耳に聞かしめられるお念仏のお心をお聞かせいただくと、我が身に「救いなし」ということがいよいよ知られるのである。救われがたき身と知らされるのである。その救い無き身に、「助からぬ 身にしみわたる 御名の声」 (ある若き戦死せる兵士の歌)で、「まるまる助ける」という大悲心が身に浸みてはからずも届いて下さるのではなかろうか。
●弥陀の今現在説法を聞く
弥陀の本願は本願招喚の勅命となり、その喚び声が名号であるから、名号は弥陀の直説法である。 弥陀の本願力は光明・名号となって十方世界に響きわたり、それを感得された釈尊の説法は『仏説無量寿経』の説法となり、それが歴史的に展開して七高僧・宗祖の説法となり、身近な善知識方の説法となった。
今日、私たちは善知識の説法により、本願の内容を詳しくお聞かせていただくのである。 私たちがお聞きする本願の説法はもとをたどれば釈尊の説法であり、さらにその源は阿弥陀仏の説法である。 しかも阿弥陀仏は「今現在説法」(「小経」)で今も現に説法したもう。
その具体的にして端的な直説法が、お念佛となって称えられ耳に聞かしめられる名号説法である。であれば、身近な善知識の説法から本願の教法を聴聞させていただくと共に、十劫の昔から説法し続けておられる阿弥陀仏の名号説法を聞かせていただくことがまた重要である。
古来から「お念仏を称え、お念仏を聞きつつ、お念仏のいわれを聴聞せよ」とお勧めになるのは、お念仏を称え聞くことは阿弥陀仏の説法に今ここであわせていただくことになるからであろう。
お寺でお説教を聞いたり、真宗の書物を読むだけが聴聞ではない。日々お念仏を申し、お念仏を聞くことがすでに純粋なる直説法をお聞かせていただいていることになるのである。