「教卷」に「(大経は)如来の本願を説きて、経の宗致とす。すなわち、仏の名号をもって、経の体とするなり」と宗祖はご自釈されている。
宗も致もムネということで、ムネとは根本ということ。しかも宗は崇に通じるゆえ、根本として尊びあがめられるべきものという意と理解されるから、「経の宗致とす」とは、如来の本願をあがめるべき尊い根本精神として説かれた経典が『大経』であるという意味であろう。
さて、『大経』の体は仏の名号であるといわれるが、体には多様な、重層的な意味が含まれていると思われる。これに関して二・三の考察をしたい。
◇ 仏教教義学のテクニカルタームに体・相・用というのがある。体は「全体を〈何か〉として押さえた言葉ないしは本体」といわれ、相とは実際のすがた・かたち、用とは働きといわれている。そうすると、例えば、体は〈ウチワ〉なら、相は紙と材木、用は風を起こすこと、となろう。
あるいは体を〈家〉とすると、壁や柱や窓ガラスは相となり、住まうのを用ということができる。そうすると『大経』の内容の全体を押さえると南無阿弥陀仏の名号であり、この名号に『大経』の内容が全て収まるという、そういう意義があって、仏の名号を『大経』の体といわれるのであろう。
この〈体・相・用〉を試みに『大経』に当てはめると、相は浄土や仏菩薩の功徳、往生人の功徳などを説くさまざまな教説であり、用は全体が衆生救済の働きといえる。そうして体は名号とされる。 壁の美しさをほめたり柱の頑丈さをほめたり床の安全さをほめたりするのは〈相〉をほめているし、住み心地のよさをほめるのは〈用〉をほめるのだが、その全体が体としての〈家〉をほめていることになる。
その如く、『大経』で浄土の徳や阿弥陀仏の徳という相を讃嘆することも、衆生救済の働きという用を讃嘆することも、総じて体としての名号讃嘆であるといえる。
◇ このことは、釈尊が出世し『大経』を説かれたことは「諸仏に我が名を称(たた)えられたい」という阿弥陀仏の第十七願に応えて弥陀の名号を称(たた)えることなのである。だから『大経』の説法の全体は阿弥陀の名号を称揚されたことといえる。
古来『大経』は浄土・仏・菩薩の三種荘厳の讃嘆とされるが、その全体が名号の讃嘆であるといえよう。 それについて「行卷」の最初に、
「この行は、すなわちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり」
といわれ、名号は真如の徳が海のように無量であると讃えられているが、このことは名号の徳は阿弥陀の徳の一部ではなくて、阿弥陀の徳の全体あるいは三種荘厳全体の徳を摂していることを表されている。すなわち『大経』の説法の全体は弥陀の名号の徳に統合されているのである。
◇ なおこの点に関連して金子先生は、
「大経の体は名号といわれる、その体は本体のことであるが、体は肉体を想像せしめる」といわれ、
「あたかも肉体を肉体たらしめるものは精神であり、精神がなければ肉体はたんなる生ける屍であって、生命あるものとはいえない。本願がなければ名号は意味をもたず、名号がなければ、本願も現実的なはたらきをもつことにならない」(『教行信證総説』八五頁)
といわれている。 なるほど心はからだ(体)に於いてのみ現実にあるのであって、体を離れた心は観念的に抽象化されたものである。名号というからだを離れて弥陀の本願を考えるなら、本願は抽象的な観念あるいは思想でしかない。
また逆に、名号というからだ(体)はあっても、本願という心がなければ、名号の内容は空疎となる。それゆえお念仏を称えても、本願のこころを頂いていない念仏ならば自力の念仏となろう。
このような「名号がなければ本願は現実的な働きをなしえない」という先人の教示は、お念仏の声が希薄になっている我が教団における真宗が、思想化し観念化して、宗教的経験的に血肉化していかない現状と重なりあうように思われる。 (了)