浄土真宗は「弥陀の本願を信じ、念仏もうさば正定聚に住し仏になる」教えであるが、一体〈何が〉本願を信じ念仏申すのか。また何が仏になるのであろうか。
それは〈私〉であり〈機〉であるに違いない。ではその私(機)〉とは一体何なのか。これが明らかでないと「一体何が阿弥陀仏に助けられるのか、助けられるとはどういうことか」がハッキリしなくなる。 弥陀の本願に助けられるのは〈私〉であるが、その私とは先ずは肉体と心の統合体であるといえよう。
原始仏教でも〈私〉の存在を五蘊と説き、色蘊は肉体的要素、受・想・行・識の四蘊は心的要素と分析している。そのように、仏教ではもともと〈私〉を肉体と心とに分析して考察していた。
では、肉体と心の統合体が私であるとするなら、どちらがより主体的なものであるかといえば、言うまでもなく心である。〈私〉とは物事を感知し、判断し、選択し、決定する主体を指示する言葉であるから、私の本質は肉体ではなく心であるといえよう。実際、行為する主体は心であって、肉体が行為を決定するのではない。
こうして、心こそさまざまな行為の主(あるじ)である。 原始経典である『ダンマパダ』の最初には
「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される」
と説かれている。 心こそ私の内的主体であるが、内的主体を真宗のお聖教に求むれば、『観経疏』に
「すでに身を受けんと欲するに、みづからの業識をもつて内因となし、父母の精血をもつて外縁となして、因縁和合するがゆえにこの身あり」
とある〈業識〉という言葉に注意せざるを得ない。さまざまな行為すなわち業のもとになるものは識(心)であるから、行為と行為の主体をあわせて〈業識〉といわれるのであろう。それが輪廻転生する内因であり、これが父母などの諸縁と合して身となると『観経疏』では説かれている。業識とは重い内容を含んだ言葉だと思う。業識は行為(業)の主としての識であるから、未来に対してはさまざまな行為を決定する主体でもある。
また、現在の生まで生まれ変わり死に変わりする中で、さまざまなものとの関わりの中で行ってきた過去の業の結果の集積が現在の業識の中に蓄積されているという意味も含んでいよう。このことは現在の識(心)を少しなりとも内観すれば、心の中に煩悩が深く染みついていることを感知することによって、うなづくことができる。私の心は人に生まれてから初めて形成されてきたような底の浅いものでは到底ないと感じざるを得ない。
インドの聖賢たちは深い禅定体験による智慧によって心を内観し続け、その結果阿頼耶識とか蔵識などという言葉で業識を表した。そのように業識は蔵識という言葉で表されるように、さまざまな過去の善悪業の結果を蔵にためこむように納めている。
しかも業識はどこまでも識(心)であって、「識知する」を本質としている。いわゆる知る働きである。
そして知る働きは知られるものと離れていない。知られるもののない「知る」は成立しない。知る働きは知られるものと一体不二であって、分けることができない。目の前の他者も机も樹木も月も、知られるものはすべて「知る」働きを離れて経験できないし、存在しえないといえよう。いわゆる世界と、世界を知る心は切り離せない。
そういう意味で知る働きである業識は同時に世界と一体不離である。敢えて言えば、人間世界は人間の業識の経験している内容であり、ネコの世界はネコの業識が経験している内容であるといえよう。
ところで業識は輪廻転生の体という意味を持つが、輪廻の体といえばとかく世界から切り離された限定的な塊を連想しやすい。それゆえ世間で言ういわゆる〈霊魂〉と解されやすい。霊魂というと、限定された塊、世界と分離されたある空間的な個物として表象されてしまう。
それに、現に業識である私(心)が今の心を霊魂というようななんらかの実体的な塊であるとは、思いもしないし感じてもいない。
業識は自己同一を保ちながら一瞬一瞬変わりつつ連続しているといわれ、実体的固定的な存在ではない。いわゆる非連続の連続である。それを、フランス人でチベット仏教者のマチウ・リカール師は「意識の連続体」と表現している。
さて話を真宗の教えに戻すと、業識に相当する言葉を『大経』に求むれば 「魂神精識、自然にこれに趣く」とか 「寿終わり神逝きて」 とある。これが輪廻転生の体と説かれている。神とは精神であり、魂神精識とは魂であり精神であり識である。
また『教行信証』では、元照律師が
「無辺の聖徳、識心に攬入す」
「凡人の臨終は識神、主なし。善悪の業種、発現せざることなし」 (『弥陀経義』)
といい、法琳師の
「仏経に言わく、識体、六趣に輪回す」(『弁正論』)
との言葉が載せられている。識心とか識神とか識体が業識に相当するであろう。
さて 宗祖は『教行信証』において
「信心の業識にあらずは光明土に到ることなし。真実信の業識、これすなわち内因とす」
と言われ、〈信心の業識〉と述べておられる。ここでの業識は普通、信心が仏に成る〈因〉である譬喩として解釈されているが、しかし単に信心の譬喩にとどまらない内容があろう。 すなわち、先述のように業識が「私」という主体の相であれば、ここでの〈業識〉は弥陀の本願に救われる当体を表されていると言わねばならない。
さて、「信心の業識にあらずは光明土に到ることなし、真実信の業識、すなわち内因とす」とは、信心の業識は光明名号の外縁に対して浄土に至る内因と言われる。いわゆる仏に成る正因とされる。何故であろうか。 一般に〈業識〉は智ではなく識であるから、その本質は迷いの心である。無明を内質とする心である。無明は闇の心であって、さまざまな幻想を生み出し、貪欲と瞋恚を引き起こす煩悩の本である。
そのような業識に阿弥陀仏の摂取の心光がとどいて真実の信心となる。摂取の光明が無明の識心である業識に入りたもう。いわゆる「無辺の聖徳、識心に攬入す」るのである。 光明が闇に入ると、どちらが強いかというと当然光明である。これは物質的な自然界でも同じである。千年間、暗闇でありつづけた部屋であっても窓が開いて外の光が入ると、即座に闇は破れて部屋は明るくなる。闇は光には抵抗できない。光が闇に入ると光は自ずから闇を破る。
弥陀の光明は真実であり無碍光であって、無明の心の闇はどれほど深く長くても真実の光明には抵抗できない。光明は真実であり無明の闇は所詮虚妄であるから、光明は無明の闇を破る。この事は『浄土論註』に既に明らかにされている。
ひとたび仏心である信心が私の業識にとどくと、信心は業識を離れない。離れないどころか、無明によって自我が主体であるかのように妄執している業識は、とどいた信心の働きによって主体を信心にゆずり、煩悩は客観化する。いわゆる主客が転換する。それが信心をいただいたということであり、摂取不捨の利益に預かったということであろう。
こうして聖人が「信心の業識」といわれたのは、業識そのものである〈私〉に信心が至りとどいて離れなくなった状態の業識のことで、いわゆる摂取不捨の利益にあずかった信心の人の内実を表された言葉だと思う。実に分かりやすい言葉である。
そして肉体のいのちが終わるのを縁として煩悩は信心(仏心)の徳に滅ぼされ、仏心である信心の正因は果を結び「仏心そのもの」いわゆる「仏に成る」といわれるのであろう。仏心は仏智であり、仏智は智境一如の智慧であるから仏土を純粋かつ十全に感知する、それを〈浄土に生まれる〉と言われるのではないであろうか。
阿弥陀仏に救われるとは、どういうことか。一体何が本願を信じ念仏申すのか。また何が正定聚に住し、何が仏になるのであろうか。こうした問いが「信心の業識」という言葉で答えられていると言えよう。
またもし信心がなくただの業識だけなら、「識体、六趣に輪回す」で、流転をまぬがれない。流転するのも業識なら、弥陀に助けられるのも業識である。そして信心が業識の主体に転じた業識いわゆる「信心の業識」は「光明土に到る」のであろう。
弥陀に助けられるということは「弥陀の光明に照らされ、導かれることである」とか「阿弥陀仏に呼び覚まされて生きることである」とか「阿弥陀仏に生かされて生きることである」というような話では非常にあいまいである。
弥陀に助けられるとは、大悲の仏心が信心として業識の中枢に至りとどき、真実の主体となる、ということであろう。これが弥陀に摂取されたということであろう。
なお、輪廻する当体であり、また覚りを開く基体を玉城康四郎博士は〈業熟体〉と表現し、覚り体験を「ダンマが業熟体に露わとなる」ことであると強調された。
これを信経験で表せば、仏心の回向成就が信心であるから、仏心(ダンマ)が業識に露わとなる経験であるといえよう。
そこで業識を業熟体になずらえていえば〈業識体〉ということができよう。なぜなら業識は単なる心というにとどまらず、業感として身体を(能感している)のであるから。 しかれば、何が弥陀の本願に助けられる当体であるか。それは〈業識体〉であると言い表してもいいのではなかろうか。
(了)