物質でもなければ単なる意識でもない。不思議にも、物質的であると共に意識的である存在、いわば矛盾したものが自己に於て一つになっている存在( 矛盾的自己同一的) である。
しかも一瞬一瞬流動しつつ個物的存在である私たちが成り立つ場所が「今ここの場所」である。ここは悲喜苦楽を越え、善悪を越えていて、しかもそれらがここに於て生起する場所である。そしてこういう多数の〈今ここ〉という個物的存在のいるそれぞれの場所、それらの場所を成り立たしめている「場所の場所」とでもいうべきもの、それを西田は〈絶対無の場所〉〈歴史的世界〉〈歴史的実在〉であるという。西田の歴史的世界とは普遍的にして実在的であり、万物の存在を成立せしめている根源であるといえる。
西田は言う。
「我々が歴史的世界から生まれ、歴史的世界に於て働き、歴史的世界へ死に行く、歴史的実在であるかぎり、我々は宗教的実在でなければならない。我々の自己の成立の根柢に於て、爾云ふことができる」(十一巻四四七)
ここでいう歴史的世界というのは、歴史的事件とか歴史的事象というような所謂〈歴史〉ではなくて、そういう人間の全歴史を含め、実人生の、或いは万物の営みの、一切がそこで成り立ち得る真の実在的な場所、実在的世界をいうのである。
◇その実在界と私たちの関係について、
「本当の実在界は我々が中にいる世界でなくてはならぬ。自分を包んでいる世界でなくてはならぬ。自分がその中にいる世界とは自分の知識の対象界ではなく、自分がその世界に生まれ、働き、死んで行くものでなくてはならぬ。それが本当の実在界と考えることの出来るものである」(一四巻一七七)
と西田はいう。私たちは実在界を外に、対象的に見てしまいがちだが、実は私たちはその実在の働きそのものの〈中にいる〉のである。「考える」というのも、「行為する」というのも、その中に於てできるのである。
ここでいう「自分がその中にいる世界」ということは意味深長である。「私は実在界の中にいる」ということを考えて( 分別) 知ろうとするなら、それはなお実在を対象的に外に見ようとしているのである。私たちは真の実在の中にあり、実在に於てあり、実在に包まれている、それが私たちと実在との関係である。
そして、
「我々の自覚の本質は、我を超越したもの、我を包むものが我自身であるということがなければならぬ」(四巻一二七)
あるいは、
「それは絶対に他なると共に私をして私たらしめる意味を有ったものでなければならぬ」(六巻四一四)
といい、私を越えて私を包み私たらしめている実在こそ「真実の自己」であるという。
○ 実在の働きは寿命無量
ではそういう内在的超越的である普遍的な実在の働きを、従来の真宗教学の中ではどう説かれているのであろうか。この問題についてはまだ統一した見解は出ていない。
しかし如来浄土の本質を『教行証文類』では「光明無量」「寿命無量」と示され、親鸞聖人の弟子慶信をして、
「寿命無量を体として、光明無量の徳用はなれたまわざれば」(『御消息』聖典五八三頁)
と表現せしめたように、如来浄土は寿命無量を本体とし、光明無量はそこからの救済的な用きと理解されていたといえよう。であれば、如来浄土の本体は寿命無量といえる。いわばはかりなきいのち( アミダ) である。
はかりなきいのちであるアミダこそ、私のいのちをして私たらしめ、私のいのちはアミダのはかりなきいのちの働きの中に生まれ、生き、死んでいく、真の実在的な働きといえるのではなかろうか。そのアミダを清沢は、
「無能の私をして私たらしむる能力の根本本体」(『清沢文集』岩波文庫、九九頁)
という。私たちはアミダのいのちの働きに於て、私たらしめられるのである。
○ 迷いとは
では、なぜ私たちは生死流転を繰り返す( 輪廻) のであろうか。それは〈迷い〉があるからである。
迷いについて西田は、
「唯、我々は、対象論理的に、我々の自己を対象的存在と見る所から、何処までも生死するのである。無限に輪廻するのである。そこに永遠の迷がある。私は対象論理を迷の論理と云ふのではない。場所が矛盾的自己同一的に、自己に於て自己を限定すると云ふ時、それは対象論理的でなければならない。(乃至)唯、対象論理的に限定せられたもの、考えられたものを、実在として之に執着する所に迷があるのである」(十一巻四二一)
「佛教に於ては、すべて人間の根本は迷にあると考へられて居ると思ふ。迷は罪悪の根源である。 而して迷と云ふことは、我々が対象化せられた自己を自己と考えるから起こるのである。迷の根源は、自己の対象論理的見方に由るのである」(十一巻四一一)
という。
ここを竹村牧男は『西田幾多郎と仏教』(大東出版社、一一九頁)の中で、
「対象論理は、対象を分別するのみで、その分別する側の主体については撥無する。しかし問題が特に自己の場合、むしろ対象を分別する側の主体の方に、より本来の自己がいるであろうことは、容易に察しがつく。
にもかかわらず、我々はこの本来主体的であるべき対象をも対象化して、その対象化された自己を真の自己と見なし、対象化する主体の側の自己、あるいはむしろ本来の自己を亡失してしまう」
と分かりやすく説明している。対象化された自己を真の自己とするのを迷いという。それを極く日常的な事柄に於ていえば、鏡に向かう場合、対象的に鏡に映っている、自分( 肉体) を真の自己と見なして執着している。そこに迷いの身近な姿がある。
本来の自己は対象化できない。対象的に本来の自己をつかまえることも認識することも、触れることもできない。様々なものを見ることができる目は目それ自身を見ることができないように。さまざまな物をつかむ手は手それ自身をつかむことができないように。自己は自己自身を対象的につかむことはできない。
インドの聖賢がしばしば言うように「(対象的に)知られたものは知るもの(真実主体)ではない」のである。
竹村が「むしろ対象を分別する側の主体の方に、より本来の自己がいる」といっているように、真実の自己は自己にとってあまりにも近すぎて、かえってあいがたいのである。
西田は次のようにいう。
「我々はいつも之に向はんと欲すれば背く絶対に面して居るのである、否之に於てあるのである」( 九巻一四五)
「絶対とは我々が之に近づくと云ふことができないのみならず、之に向ふとすら云ふことのできないものでなければならない。人間より神に行く途はない」(九巻一四五)
○ アミダは名号で人を救う
そして、
「斯く自己が自己の根源に徹することが、宗教的入信である。而してそれは対象論理的に考えられた自己の立場からは不可能であって、絶対者そのものの自己限定として神の力と云はざるを得ない。信仰は恩寵である。我々の自己の根源に、かかる神の呼声があるのである」(十一巻四二一)
「我々の自己は、何処までも唯一の自己として、一歩一歩逆限定的に、絶対者に接するのである」(十一巻四三一)
といって、真実の自己を対象的に考えて捉えようとしても捉えられない。むしろ自己を越えて自己成立の源となっているアミダ( 絶対者) からの喚び声によって、自己成立の根源にかえらしめられる。そのことによって真実の自己を知るのである。
アミダと私は向かい合っているのではなくて、私の背後において接しているといえる。いわば逆接的に接しているのであって、アミダと私は逆対応的である。故に、私の方から修行してアミダに向かっていけばアミダは私に応じて下さる、というわけにいかない。
私の側からアミダへはかかる橋はない。にもかかわらず、どこまでもアミダを求めつかまえようとして「自力かなわで流転せり」(正像末和讃)なのである。
○ 助からぬ者に届く救い
むしろそういう私( 自我) たちに、真実をつかまえようとする私たちの計らいを絶対的に否定する形でアミダは私たちにあいたもうのである。アミダの方から、アミダに背く私へ来たりたもうことを西田は次のように言う。
「絶対者は何処までも我々の自己を包むものであるのである。何処までも背く我々の自己を、逃げる我々の自己を、何処までも追ひ、之を包むものである、即ち無限の慈悲であるのである」(十一巻四三四)
そして、
「絶対者と人間との何処までも逆対応的なる関係は、唯、名号的表現によるの外にない」(十一巻四四二)
「ミダの呼声というものの出で来ない浄土宗的世界観は浄土宗的世界観にはならないと思
います。あの人は場所ということを今でも観ずることと思っていると見ゆ。場所とは対象的に観じるものでなく自己のいる場所ではないですか。
場所の自己限定は我々の個に対し偉大なる仏の表現、切なる救の呼声です。
場所論理にては内在的超越なものからその自己表現として仏の御名というものが出てくるのです」( 十九巻三六四、務台理作宛書簡)
と西田はいう。アミダはご自身を限定し言葉となって、アミダに背を向けている私たちに喚び続けられるのである。アミダは名号として私たちに喚びかけ、アミダに帰せしめようとされる。それがアミダの大悲の願である。
更に、
「我々の自己は個人的意志の尖端に於て絶対者に対するのである。神も亦絶対意志的に我々の自己に臨むのである」(十一巻四四二)
「入信は研ぎ澄ました意志の尖端からでなければならない。宗教は単なる感情からではない。自己を尽くし切って、始めて信に入るのである。真宗に於ての二河白道の喩の如く、何にしても二者択一の途を通らなければならない」(十一巻四二八)
という。人間は一つの個物であるが単なる物体ではない。心があり意志的欲求的である。この自己の欲求的意志のつづまるところの願いは「永遠の真実なるいのちを得たい」「まことの平安がほしい」などといえよう。
しかし、その欲求に従って〈外に〉、どれほど求めてもそれは得られない、考えても得られない、修行しても得られない、仏に祈願しても得られない。そうしてこの自己は「救われがたき我が身をいかんせん」という意志に先鋭化してくる。
それが西田がここでいう〈個人的意志の尖端〉という意味ではなかろうか。
しかるにそういう私たちにアミダは、絶対救済の大慈大悲の意志として、名号でもって人に喚びかけて下さる。
自我でつかもうとする計らいを「助からぬ汝」と全面的に否定し、「そんな汝を引き受ける」と、南無阿弥陀仏となって喚びかけて下さる。
しかして私たちはアミダの名号の喚び声( 仰せ) にしたがうか、拒絶するかの二者択一の場に無意識裡に立たしめられるのである(二河譬)。
どこまでも〈助からぬ〉という個人的意志の尖端( 行き詰まり) と、どこまでも〈助ける〉というアミダの大悲の絶対意志とは、逆対応したままで、不思議にも仏心大悲がその人に届くのである。
先述したようにアミダは対象的につかむことはできない。それゆえアミダの方から、救済意志を表現した言葉いわゆる本願の名号で喚びかけたもう。その名号を聞く一念にアミダにであうのである。〈聞其名号〉に於てアミダにであう(信心歓喜)のである。助からぬ煩悩具足の凡夫のままで不思議にもお助けにあうのである。
そこに光寿無量のアミダに経験的にであい、アミダと離れない自己を知る。すなわち摂取不捨の利益にあずかるのである。
そしてこのアミダと人との摂取不捨の原関係、それに順って生きるか否か、そこにそのつど、人の行為の是非善悪が問われてくるのである。
( 了)