【自心が問題となる】
聞くところによりますと、十四才という年頃は〈人生とか自分自身が問題になる〉最初の年齢だそうです。確かにそうだなあと思うのは、私が自分の心を問題にしはじめたのがこの頃でした。中学二年の頃はずいぶん勉強に励んだ時期で、成績もぐっと上がり、親も喜び自分も嬉しかったのでした。ところがいくら勉強しても、それ以上に成績優秀な生徒が当然いましたので、その子に対してねたみ心が起きたのです。
ところが、その子の存在がイヤだと思うよりも、自分の嫉妬心そのものが実にイヤでした。〈ねたみ心はなんてイヤな心だろう。この心はたとえ大人になっても起こるだろう。それなら一生、この心に悩まされ続けるだろう。このイヤな自分の心をなんとかしたい〉と思いました。
自分が自分の心に対して悩みはじめたのはそれが最初でした。この苦しみは高校になっても続きました。こうしている内に、もっと深刻な心の問題が起こりはじめました。それは自分の内心と外の世界とが分離されたような感じになっていったのです。自分と、世界や社会や人々との間が透明なガラスでさえぎられたような感じになり、その分離意識が一日中続いて、毎日がうっとうしくてたまらなくなりました。
【お念仏にあう】
そんな問題があって、宗教の本を読むようになり、高校一年の時にはキリスト教会にも通いました。その後仏教に触れて坐禅のまねごとなどをしていましたが、高校三年の時、真宗にひかれるようになりました。二学期の頃、金子大栄先生の本の中で、「念仏は苦悩を除く法である。苦しかったら念仏申せ。阿弥陀仏は〈我が名を称えよ〉と仰せられている」という趣旨の言葉にであい、初めて口にナムアミダブツと称えるようになりました。そうすると、何かホッと肩の荷がおりたように感じ、心が少し軽くなりました。これはいいぞと思い、さらに真宗の教えを学びたいと思って、親の反対を押し切って大谷大学に入りました。
こんなことから、生まれは寺の出身ではなかったのですが、次第に真宗の世界に入っていきました。その間もずっとお念仏を申すことは続きました。というのは、うっとうしい心だけではなく、さまざまな煩悩の心が起こって心がつまると、〈我が名を称えよ〉〈その心のまま称えるばかりでよい〉の仏語にうながされてお念仏を申していったのです。いつでもどこでもだれでも、心の状態のいかんにかかわらず、今ここで〈ナムアミダブツ〉と称えることができる、というお念仏の易しさにひかれてのことでした。もちろんお念仏の真意をいまだ了解してはいなかったのですが、苦しい心が起こってやまない私には「その心のまま今ここで称えるだけでよい」というお念仏の道は当時の私が歩めるただ一つの道でした。
こうして念仏を称えつつ、お念仏のいわれを聞いていきました。しかしうっとうしい心はずっと続きました。
【大悲心をいただく】
ところが三十八才の夏のことでした。当時、私は鹿児島県にある離島で住職代務をしていました。悶々とした日々が続いていた真夏の夕時、風呂から上がって、涼みながら何気なしに法話のテープを聴いていました。その法話の中で、〈凡夫の心はさびた鉄のようなもので、仏法を聴いてもちっとも信じない奴である〉と聴かされた時、まさにそれが私のことと感じた瞬間、〈そんなお前だから〉〈まるまる引き受ける〉との大慈大悲のお心が全身に響きました。不思議ですね。それからというものは真宗の教えが非常によく分かるようになっただけではなく、長年苦しんできた心の内外を分かつ分離感がとれて、外の自然の光景がリアルで美しく感じられるようになりました。
そして嫉妬心などの煩悩の心に大悲の心がひっついて下さり、今もなお盛んに起こる煩悩は、実にあさましくもうしわけないことですが、仏の大悲を喜ぶ種になって下さいます。だから煩悩がありながら、これに悩乱されることはなくなりました。
高校の時に、〈我が名を称えよ〉という仏語に接しましたが、その当時はその真意は分からず、〈称える〉行為に力点をおいていました。ところが〈称えよ〉は〈助ける〉〈引き受ける〉の大慈大悲の思し召しそのものでした。それが長いこと分からなかったのです。 けれども今思えば、自力の念仏であろうと称えてきたお念仏の中に、〈我が名を称えるばかりでよい〉とまで仰せ下さる広大な仏心大悲がこもっていたのですね。
その大悲心が時いたって私の心に流れ込んで、信心になって下さったのだと思います。宗祖の御和讃に「弥陀の名号称えつつ 信心まことにうるひとは」とありますが、実際その通りだと思います。