「人はみな死ぬと阿弥陀のいのちに帰る」という話が、今日では〈真宗の法話〉としてよくなされています。
このような話をする人もそれを聴く人も、何となく分かったような感じがし、従来のような「真実信心の人は正定聚に住す。正定聚に住すれば必ず滅度(浄土)に至る。信の無き人は正定聚に住しないから、涅槃の浄土に生まれずなお流転をかさねるのである」というお説教よりも、説く人も聴く人もすんなりと受け入れやすいのはなぜでしょうか。
* その一つの原因は私たちが学校教育で習った科学教育にその理由の一端があるように私には思われます。
長年の学校教育で習ったことは知らず知らず私たちの考えのベースになっています。それで「人は死ぬとどうなるか」について、私たちが習った科学教育では、物理学的素養からは、人の体も元は原子なり分子である、だから死ぬというのも原子や分子の結合や配列の変化である、と理解するでありましょう。
また生物学的素養では人間の体は細胞の集まりであり、それが有機的に結合した個体的生命として人はさまざまな機能をもつ。心のはたらきも大脳の脳細胞の働きである、だから死ぬというのは人としての個体的生命が機能を停止したことであり、死んだ体は焼けば元素的な要素に還元する。だから死ぬと人間生命は要素的に分解して、姿も働きも心もなくなってしまい私は消滅する、というような理解になりましょう。
死ねば人としての生命体は活動を停止し、焼けば元素的な要素に還元する。それを「人が生まれるのも死ぬるのも大いなる自然の働きの中である」と表現できるでしょうし、もう少し詩的に言えば「人間死んだら大自然のいのちの中に帰る」と言いえるでしょう。 これは、今日の科学教育を受けた人にとって受け入れやすいお話ではないでしょうか。そうすると〈生まれるのも死ぬるのも大いなる自然のいのちのいとなみの中である〉というこの言葉は「人間死んだらみな阿弥陀のいのちに帰る」という話とは紙一重の表現だと言えないでしょうか。しかも、〈阿弥陀〉とは「はかりないいのち」という言語上の意味もありますので、そこから説明すれば、「大自然のいのちのいとなみ」を阿弥陀と言いかえてもほとんど抵抗はないと思います。
そうなると「人間死んだら大自然の生命活動のいとなみに収まっていく」という科学的物質的な生命観と「人間はみな死んだら阿弥陀のいのちに帰る」というのがほぼ重なってきます。
そうすると「人間死んだらみな阿弥陀のいのちに帰る」と言う言葉がよく普及し、多くの聞法者にそう抵抗なく受け入れられてきたのは、私たちが仏教的生命観をもっているからではなくて、敢えて言えば公教育で長年習った科学的・物質的生命観がベースになっているからではないでしょうか。
だから「人間死んだらみな阿弥陀のいのちに帰る」を聴いて、「人間死んだらみな大自然に帰るんだ」とうなずき、ひいては「要するに私は死んだら無になって大自然の中に消えていく」と了解するとすれば、それは科学的・物質的な生命観からではないでしょうか。
* 〈阿弥陀のいのち〉が大自然の物質的な生命と同じなのかそれとも別なものなのか私にはまだよく分かりません。
たとえ「自然の生命活動と阿弥陀の寿命とは一つである」のが本当であっても、自他一如・生死一如と悟りきった仏様の智慧でおっしゃる「同じ」と凡夫の私が「同じ」というのとは違うと思います。
* もし「阿弥陀のいのちイコール大自然のいのち」と私たちが了解して聴聞するなら、仏の教えを聴聞してもなお、科学的物質的な生命観の枠組みの中で仏法を聴く場合が多いことになり、私たちの考えは必ずしも仏教化するとはいえないと思います。
しかも〈阿弥陀のいのちに帰る〉という話は、従来の教義でいわれてきた「阿弥陀仏の浄土に生まれて仏になる」と同じ意味なのかどうか、また信心獲得のことはいっさい問われずに「だれでも死んだら同じように阿弥陀のいのちに帰える」のかという、これらの点が曖昧なままに使われています。このことはもっと検討すべきことでありましょう。
ただ今回はこの話がこれほど普及した背景を考えてみたことです。
(了)
*丹山順芸著「称名信楽二願希決」は金子大栄校訂『宗典研究』(文栄堂)に収録されており、引用文は一七〇頁。