浄土とは「生の依る処、死の帰する処である」と先人によって表現されてから久しいが、伝統教学では「死の帰する処」としての浄土が主軸となり、浄土に生まれ往く法として本願の行信が説かれてきた。この教相の宗教的意味内容は甚だ深くしかも大変有り難いものである。
ただ現代人にとっての宗教的関心は「死後どうなるか」という問題よりも「何を現在の生の拠り処とするか」という問題意識により重く比重がかかっている。
そこで、近代になって浄土を「現在の生の拠り処」という点から聖人の教学をとらえ直す作業がなされてきたが、その場合、大谷派では清沢満之師の「絶対無限の妙用に落在せるもの」という人間存在の根源的事実の自覚表現を導きの糸として如来(浄土)をとらえる教学的思惟が行われてきた。
しかしながら満之師の「絶対無限の妙用」を、伝統教学における弥陀の本願力(如来浄土)と直ちに一致統合されえるものかどうか、そこが未だ解明されているとはいえない。 であれば「人の生の拠り処」として浄土をとらえる視点を聖人ご自身の教学そのものの上に見出すことが先決でなかろうか。
以下は、先人によってすでに指摘されてきたとは思うが、敢えて聖人のお言葉の中にこの問題への切り口を求めてみたささやかな試論である。 (なお聖人において、真仏(如来)と真仏土(浄土)とは本質的に一なるものであることは真仏土巻に表されている)
* さて、尽十方無碍光如来にたいする聖人の釈に、
「尽十方無碍光如来ともうすは、すなわち阿弥陀如来なり。この如来は光明なり。尽十方というは、尽はつくすという、ことごとくという。十方世界をつくして、ことごとくみちたまえるなり」(尊号真像銘文)
「この如来は智慧のかたちなり。十方微塵刹土にみちたまえるなりとしるべしとなり」(尊号真像銘文)
「この如来、十方微塵世界にみちみちたまえるがゆえに、無辺光仏ともうす。しかれば、世親菩薩は、尽十方無碍光如来となづけたてまつりたまえり」(一念多念文意)
「この如来、微塵世界にみちみちたまえり。すなわち、一切群生海の心なり」(唯信鈔文意)
「この如来、微塵世界にみちみちてまします。すなわち、一切群生海の心にみちたまえるなり。草木国土ことごとくみな成仏すととけり」(唯信鈔文意・異本)
とあり、これによると、如来浄土の働きは世界に充ち満ちており、それゆえ一切の人々の心に充ちている。だからこそ、誰でもが成仏することができるのだといわれている。 このことは人間とはどういう存在であるかという問題において、聖人は〈人は如来浄土と一体不可分である〉と見ておられたと伺うことが出来る。このことは聖人の次の和讃からも読みとることが出来る。(岩波『親鸞和讃集』より引用)
「罪業もとより所有なし
妄想顛倒よりおこる
心性みなもときよければ
衆生すなわち仏なり」(三一〇頁)
「
無明法性ことなれど
心はすなわちひとつなり
この心すなわち涅槃なり
この心すなわち如来なり」(三一〇頁)
「罪業もとよりかたちなし
妄想顛倒のなせるなり
心性もとよりきよけれど
この世はまことのひとぞなき」(二〇七頁)
* このように衆生(人)と仏(浄土)は一体不可分である。しかしながら「心性もとよりきよけれど、この世はまことのひとぞなき」であって、人はそのまま現実的には仏ではない。それどころか現実は、 「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし」(正像末和讃) であって、人は反真実、反仏的な存在である。すなわち罪業深重の凡夫である。したがって人は仏ではない。いわば人と仏は不可同である。
* これを要するに如来浄土と人とは一体的に不可分であり、同時に人は罪悪深重の凡夫であって仏ではない。すなわち仏と人は不可分不可同の関係にある。これが人間の原事実であり、人間の原点であるといえる。であれば、人間は罪悪深重の反仏的存在であるままで、仏と離れがたく一つであるというこの原事実を、聖人の「摂取不捨の真理」(浄土文類聚鈔)というお言葉の内実として見ることができるのではなかろうか。
* なお、禅や密教などでは人と仏の一体性に教学の視座をおいて「衆生本来仏なり」と、強調される。
なるほど原理的には仏と人は本来的には一体であろうが、現実は、人は仏を見失い、仏に背き、自我を「われ」とし、自我を立場に生きている。
このように、自我を「われ」とし自我に執着している煩悩具足の凡夫の座をどこまでも離れないのが真宗の立場である。そうすると凡夫の心理的表象にとって仏は「まことの自己」ではなくて、超越的摂取者としての他者(彼の仏)である。
* 人と不可分・不可同なる如来浄土が、仏を見失い、仏を無視して流転を重ねている私どもに、仏ご自身から仏と人の原関係(摂取不捨の真理)に気づかせて救いたいと発願し、表現し、働きだされたのが弥陀の本願である。それゆえに第十八願を「摂取不捨の願」ともいわれる。 この本願力の不可思議な働きを釈尊は感得されて、それをお説きくださったのが『佛説無量寿経』である。
* 弥陀の本願は仏との関係を見失っている衆生に、名号となって「かたちをあらわし、御なをしめして衆生にしらしめたま」(一念多念文意)い、その名号を「聞其名号」せしめ信心歓喜する時、「至心に廻向したまえり」(大経)で、如来の無上功徳が与えられ、人は正定聚の位に入れしめられるのである。いわば「摂取不捨の利益にあずけしめたもう」(歎異鈔)のである。
こうして、人が気がつくか否かに関係なく人に即している摂取不捨の真理が、時いたって人の上に自覚化される、いわば信心として人に発起する。その時に摂取不捨の真理は人に無上の功徳となって与えられる。いわば信心において、如来浄土が人の上に初めて活性化しだすのである。
それまでも人は如来浄土に離れがたく包まれていたが、そのことに気がつかぬゆえ活性化されず、ただ自我を自己自身とし、この世のさまざまな価値でもって自我を支えようと、貪欲・瞋恚の煩悩に振り回されてきたのである。
そういう状態にあるわれらを憐れみたまいて、如来浄土は本願名号としてわれらに働きかけ、時いたって弥陀の願心が凡夫に信心として成就するのである。
* 以上のように、如来浄土と人の不可分・不可同の原関係において、如来浄土を人の「現在の生の立脚地」として見るという視座を、先にあげた宗祖の言葉の上に確認することができるのではなかろうか。
では、前出した宗祖の、 「この如来、微塵世界にみちみちたまえり。すなわち、一切群生海の心なり」 「この如来、微塵世界にみちみちてまします。
すなわち、一切群生海の心にみちたまえるなり。草木国土ことごとくみな成仏すととけり」 などの言葉は何を文献的な典拠として宗祖は表現されたのであろうか。それについてすぐに思い当たるのは善導の『観経疏』《玄義分》である。
その中に 「真如体量、量性、蠢々の心を出でず。法性無辺なり。辺体すなはちもとよりこのかた動ぜず。無塵の法界は凡聖斉しく円かに、両垢の如々すなはちあまねく含識を該ね、恒沙の功徳寂用湛然なり。ただ垢障覆ふこと深きをもつて、浄体顕照するに由なし。ゆゑに大悲をもつて西化を隠し、驚きて火宅の門に入り、甘露を灑ぎて群萌を潤す」 と ある。ここには、如来浄土と人との不可分・不可同の原関係とともにそれが衆生救済の出てくる根源であることがすでに宗祖に先立つ七高僧の上に明示されていることがわかる。
* そうするとこうした観点から言えば、
「この信楽をうるとき、かならず摂取してすてたまわざれば、すなわち正定聚のくらいにさだまるなり」(唯信鈔文意)
ということも、〈信楽が発起しない間は、人と仏は離ればなれであるが、信心を得る時、初めて仏が来たりて人を摂め取る〉という意味ではない。人と仏は本来的に離れがたく一つであるが、ただその関係を見失っている人に、摂取不捨の真理が衆生救済の願心となって人に廻向成就(真実信心)される時、摂取不捨の真理は人の上に活性化して摂取不捨の利益なり、人間の根本的究極的な救いとなる。すなわち「摂取不捨の利益にて 無上覚をばさとるなり」(夢告和讃)となるのである。
* 以上、浄土を〈死の帰する処〉という視点はどこまでも堅持しつつ、人間存在の原事実の場においても浄土をとらえ、そこから本願力廻向の教行信証が展開されるなら、《浄土真宗》は今日的意味をより深めることになるのではなかろうか。
(了)