『展開する本願』①
浄土真宗の教えのキーワードは「摂取不捨」という言葉ではないでしょうか。例えば、アミダ仏の本願は「摂取不捨の誓願」といわれ、名号は「摂取不捨の真言」といわれ、アミダ仏は「摂取してすてざれば阿弥陀となづけたてまつる」といわれ、信心は「信心うたがいなきそうろうは摂取せられまいらすゆえとみえてそうろう」といわれ、「摂取不捨の利益にさだまるを正定聚(しょうじょうじゅ)となづけ」られるのであります。アミダ仏も本願も名号も信心も正定聚も「摂取不捨」で語られるのです。
その「摂取不捨」の用きを宗祖は『浄土文類聚抄』の中で、
「ああ、弘誓(ぐぜい)の強縁(ごうえん)、多(た)生(しょう)にも値い(あ)難く、真実の浄信、億劫にも獲(え)?(かた)し。遇(たまたま)信心を獲(え)ば遠く宿縁を慶べ、もしまたこのたび疑網に覆蔽(ふへい)せられなば、更(かえ)って必ず曠劫(こうごう)多生を径歴(きょうりゃく)せん。摂取不捨の真理、超捷(せつ)易(い)往の教勅、聞思して遅慮(ちりょ)することなかれ。」(聖典。四〇九頁)
といわれ、ここで「摂取不捨の真理」と押さえられています。「真理」という言葉は、アミダ仏の摂取不捨の真理は普遍的な用きであることが示(し)唆(さ)されていると思います。
ここでは摂取不捨の真理を説かれた本願の教法は〈超捷(せつ)易往(いおう)の教勅〉であって、横っ飛びに素早く救われる法(超捷(せつ))であるから、本願を「聞思して遅慮(ちりょ)することなかれ」とここでお勧めになっています。本願の教勅をぐずぐずせずにそのまま聞き受けよといわれるのです。 この摂取不捨の真理は「教勅」すなわち南無阿弥陀仏の「勅命」となって十方衆生に喚び続けておられます。
この勅命とは絶対的な仰せということで、アミダ仏の私たちに対する仰せです。南無阿弥陀仏の〈南無〉とは「マカセヨ」であり、〈阿弥陀仏〉は「摂め取って捨てない」すなわち「引き受ける」の仰せです。「マカセヨ」といわれるのは、私たちが人生に破綻し、行き詰まり、困窮している状態にあることを知り抜いて、この私たちをあるべき安らかな状態へ至らしめんと計らい喚びかけたもう仰せです。
また「摂(おさ)め取って捨てない」とは私の悪業煩悩の罪深く行き場のない者を受け取り、ひきいて仏にならしめんとの仰せです。 ただ私たちは、アミダ仏が見ておられるような救いのない状態にあることを知らず、「自分は助けてもらう必要はない」と思って、いつまでもアミダ仏の仰せをはねつけてしまっているのです。
さてこの摂取不捨の真理とは、アミダ仏(光寿無量)と人(諸物)との普遍的な関係です。絶対無限なるアミダ仏と相対有限の人とは別々でありながら、離れがたく一つであってアミダ仏を離れて人は成立しないという真理です。 この真理は人の姿や行いの善し悪しを超えており、人のいかなる悪業煩悩によって一指だにできないゆるぎない仏と人との関係であります。私たちの煩悩悪業にもかかわらず、私たちはアミダ仏の大悲のいのちに抱き取られているという真理です。
しかしながら人はこの真理を知らず無視し、自我を先立てて、自我の欲求を満足しようとばかりに生きています。そこに不満と焦燥、それに様々な悪がそこから跋(ばっ)扈(こ)してくるのであります。そしてこの自我中心の生き方を、生まれ変わり死に変わり続けて流転してきたといわれるのであります。このことをインドの仏教学者のチャンドラキールティ(600~650)は、
『諸々の煩悩とわざわい(禍)は残らず有身見(うしんけん)から起こる。諸煩悩とは貪欲など。諸わざわいとは、生老病死と愁いなどである。 有身見(うしんけん)とは、「私」や「私のもの」と思うそのような形式で働く煩悩意識。』(瓜生津隆真訳『入中論』二一五頁。起心書房)
といっています。「私」という自我を中心にして、身体を「私のもの」と見(有身見)、そしてさまざまな物を外に貪欲しています。ここからもろもろの煩悩や愁いが起るといわれるのです。
実際は、アミダ仏のはかりないいのちを離れては私たちは一息もすることができず、一思いも思うことができません。生きることも死ぬることもできません。私の存在が今ここにあるという、そういうことが成り立つ場がアミダ仏のいのちの用きであります。
人の存在がそこで成立しているアミダのいのちの場は人の行いの善悪を超えています。そこでは人の行いの善悪は一切断たれ、大悲のいのちが無償に与えられています。この恵まれたいのちの場に人は生かされていて、ここを離れて私のいのちもないということです。
これを無視するところに迷いがあり、苦しみが起こり、邪悪が発生してくるのであります。
しかるに人はこの大悲を含んだいのちの場を無視して、自我だけで生きようし、「我と我が身」の安全の確保と拡大を図って、その思いを中心に是非善悪、利害損得を計らって生きようとしています。それを煩悩具足の凡夫と申します。
このように摂取不捨の真理に背いて流転している衆生に摂取不捨の真理それ自らが衆生にはたらきかけてこの真理に目覚ましめようとはたらいてくださるのであります。それがアミダ仏の光明無量のはたらきです。この光明はアミダの本願としてはたらいていることを説いてくださったのが釈尊であり、その教えが『佛説無量寿経』であります。宗祖は、
「大無量寿経言といふは、如来の四十八願を説きたまへる経なり。」(『尊号真像銘文』)
と仰せられ、アミダ仏の四十八通りの誓いとその成就を説かれました。就中、第十八願に一切衆生をしてアミダの摂取不捨の救いにあずからしめてくださる大悲のお心を説かれました。
第十八願のお心は南無阿弥陀仏の名号として衆生に称えしめられ、聞かしめてくださいます。その名号を私たちに与え聞かせてくださるのは第十七願のはたらきによってです。
この十八願の思し召しは、摂取不捨の真理から「罪はいかほどあろうとも我は汝を抱いている。我をタノメ」と仰せくださっています。「そのままなりで引き受ける」「助ける」の勅命であります。
この本願の勅命によって易く浄土に生まれ往(ゆ)くことができますので「易往の教勅」といわれます。そういう摂取不捨の真理は「タスケルで我をタノメ」の勅命となって私たちに喚び続けておられます。それが一声のお念仏のお心です。
そして「遅慮(ちりょ)することなかれ」と仰せられるのは、アミダ仏の仰せを聞いて、自分の頭に相談せずに、そのまま受け入れてくれよのご親切であります。
私たちは摂取不捨の真理が摂取不捨の真言(まことの言葉)である〈南無阿弥陀仏〉のみ言葉となって喚びかけてくださる仰せ、その仰せに喚びさまされて、「ああ、このような私を引き受けてくださるアミダ様よ」と気がつかせていただくのであります。
そうすると私はアミダ仏と離れない身であり、アミダ仏の大悲のいのちの場に置かれていることを知り、アミダ仏に摂取されていることを知るのであります。これが〈摂取不捨の利益〉であり、人生全体の救いとなってくださいます。 アミダ仏に現在只今から離れない身であることを知らされますから、死してアミダ仏の領域である浄土に往くことに疑いがなくなってきます。そこで浄土に生まれることが定まったともがらを「正定聚(しょうじょうじゅ)の位に入る」といわれるのです。
このようにアミダ仏に摂取されるのが信心であり救いです。宗祖は摂取するアミダ仏をアミダ仏の心光、あるいは摂取の心光ともいわれました。摂取するのはアミダ仏の摂取のお心であり、助けられるのはこの摂取のお心に凡心が摂め取られるからだといわれています。このようにアミダ仏の摂取のはたらきを心のはたらき、仏心のはたらきで宗祖は示しておられます。
なぜアミダ仏の救いのはたらきを心光という心のはたらきで表されるかというと、私たちがこの真理に気がつくのも知るのも心に於てです。真理を真理と気づくのは心の領域のことがらです。ですから救われるのも心に於てですから、救いたもうアミダ仏のはたらきも心のはたらきで示されるのではないでしょうか。 (続)