私たちの人生生活は大小さまざまな問題や課題が山積みされ続けるものである。 身近には病気や貧困、家族や勤務先などでの人間関係、さらには教育や犯罪、憲法や原発などの問題、騒音や大気汚染などの公害問題、また世界には地域紛争や南北問題など、数えるにいとまはない。大谷派では近年、同和問題、靖国問題あるいはハンセン病問題などを大事な真宗門徒の課題としている。
これらの問題に私たちがどれくらい主体的にかかわっているかの違いはあっても、それらの問題の中で私たちは生きているのであり、生きる外はないのである。
*真宗はこの世を救う教えか
さてこのような問題状況の中に生きる私たちにとって、真宗の教法は何を意味するのであろうか。 というのは、真宗の教法は、こうした個人的ないしは社会上のさまざまな問題を「直接に解決するための方法や行動原理や思想」なのであろうか。いわば真宗は、この世の中の個人的社会的な諸問題を解決するための教え、ないしは救いなのであろうか。 真宗がこうした諸問題に深く関わる教えであることはいうまでもない。しかし今までの真宗教化の歴史を見ても、真宗が広まり、念仏者が増えても、たとえばこれら歴史的社会的な問題が解決したとか少なくなったといういう話はあまり聞かない。
それゆえ、教化活動をしても目に見える形での現実的な効果が現れないとなると、ややもすると「真宗は無力である」「真宗は現代社会にたいして役に立たない」という失望感や無力感が起こりかねない。ことに、真宗にこれらの問題にたいする解決の方法的・原理的手段として期待する人たちは、真宗の存在価値に自信を失ったり疑問視するに至る。実際、仏教ないしは真宗に対する世間やマスコミの評価は「仏教は現代社会にたいして役に立っていない」という見方をしているように思われる
。 けれども「真宗は現代社会に役に立っていないから、社会的な存在価値は乏しい」との見方は、真宗を直接「この世と人生の諸問題を救う教え」だと理解しているからではなかろうか。
しかもこういうさまざまな個人的社会的な問題が解決するところにはじめて「私の救い」があるのなら、私の救いはいつまでも無いといわねばならない。なぜなら問題や課題は尽きることがないからである。
*真宗はこの世から人を救う教え
はたして真宗はこの世の中での自己内外に起きる「様々な問題や課題を直接解決するための教法」なのであろうか。そうではあるまい。真宗は「この世を救う教え」ではなくして、真宗によって「問題だらけのこの世から人が救われる教え」であろう。「問題や課題だらけのこの世から私が救われる」、ここに真宗における救いの中心がある。本願といい念仏というも、「この世(あるいは生死の世界)からの救い」に焦点を当てている。 しかも真宗は、人がこの世から救われて〈この世を救うていく〉、いわば世の中のご用に立たせていただこうと欲する生へと人を変換せしめていく、そういう教えではなかろうか この世から救われて「この世の中のさまざまな問題や課題に善処していく」ことへと人を向かわしめる教法であろう。
摂取不捨の利益にあずかる では「動乱せるこの世から私が救われる」ことは可能なのであろうか。可能である。それは人が「弥陀の摂取不捨の利益にあずけしめられる」ことによってであり、しかもそれは現在ただ今可能である。
その「弥陀の摂取不捨の救い」は万人に平等に働き続けてくださっている弥陀大悲の誓願力であり、それは今の私たちに「汝をおさめ取って捨てない。そのままなりで引き受ける」と喚びかけておられる。この弥陀大悲の喚び声によび覚まされるとき、私は阿弥陀仏に摂取せられ、もはやなにものも阿弥陀仏と私をひき離すことはできない。病気であろうと、貧乏であろうと、非難攻撃であろうと、迫害であろうと、戦争であろうと、あるいは内にもえさかる貪欲や瞋恚の煩悩も、阿弥陀仏と私との摂取不捨の関係をこぼつことはできない。死すらも私を阿弥陀仏から切り離すことはできない。できないどころか死は阿弥陀仏の功徳と一つとなる機縁でさえある。
しかもこの摂取不捨の関係は一切の人に、今ここに平等に与えられている原事実である。この阿弥陀仏と人の奇しき摂取の関係こそ、私たちにとって動乱せる人生への安定の基礎であり、尽きぬ喜びの因であり、苦悩の癒される泉であり、問題だらけの人生を生きる勇気の源であり、自己が浄化される元である。
ただしかし人は、この仏と人の摂取不捨の原関係・原事実に気がつかない。気がつかない故にこの関係の功徳が活性化しないのである。
凡夫の生は己の迷妄によって阿弥陀仏とは〈内面的に切り離され〉、不安定で空虚なバラバラの個となっている。こうした根源的に不安定な状況は真の安定を求めざるを得ない。ーー宗教心が人に存する所以であるーーしかしながら人は、あらぬ方向に安定を求め、財や名声や権力などの世間的相対的なものの獲得によって安定を計ろうとする。しかし安定を外にのみ求めるかぎり、それは貪欲となり、返って不満とむなしさを生み出している。
こうした私たちが南無阿弥陀仏の名号によってよび覚まされるとき、仏と人の関係は活性化し「摂取不捨の利益」となって、人はそれによって根本的に支えられるのである。すなわち、この利益はこの世の動乱の中にあって、安定した支えとなり、人生に意味と方向を与え、問題だらけのこの世に善処して生きようとする力となり智慧となる。
* 真宗の眼目
この摂取不捨の利益について聖人は、 「如来の誓願を信ずる心のさだまる時と申すは、摂取不捨の利益にあずかるゆえに、不退の位にさだまると御こころえ候うべし。真実信心さだまると申すも、金剛信心のさだまると申すも、摂取不捨のゆえに申すなり」(ご消息) と申され、金剛の信心が定まるのも、現生不退の位に定まるのも、「摂取不捨のゆえ」であると仰せられている。この摂取不捨の利益によってやがて無上涅槃の果が成就されるのである。このことは、聖人が感激をもって感得された『夢告和讚』
弥陀の本願信ずべし
本願信ずるひとはみな
摂取不捨の利益にて
無上覚をばさとるなり
にも明かであり、ここに真宗救済の眼目があることを示されている。
*真宗教団衰退の要因
私において、問題だらけのこの世から救われるのは阿弥陀仏の摂取不捨の利益にあずかるからであり、そこに課題だらけの世と人生でありながら、無礙の一道が与えられる。しかもこの救いは普遍的に万人のところに今すでに来ているのである。一人一人の処にすでに来ている摂取不捨の恵みを万人に告げしらせたもう「摂取不捨の真言」が本願名号(念仏)である。この念仏の恵みを見失うから「念仏を称えても現実はちっと変わらない、念仏は無力である」という、真宗念仏に対する自信を喪失するのであり、お念仏を自らも称え、人にもお勧めしようという情熱が起こらないのである。そこに真宗教団衰退の要因があると思う。
*閉じられた人から開かれた人へ
このようにして摂取不捨の利益をいただいた者は、『大経』には 「それ衆生ありて、この光に遇えば、三垢消滅し、身意柔軟にして、歓喜踊躍し善心をここに生ず」 と説かれ、この世と人生の問題や課題に善処し、「少しでもお役に立ちたい」という願い(善心)が起こる。いわばこの世から救われたがゆえに「この世が救われるための役に立ちたい」と願う心がおのずから湧いてくる。それまで自分と自分の家族の幸せを得ようとして、心が自己中心的にばかり向いていたのが、弥陀大悲の光明にふれることによって、世の人びとの幸せと世界の安寧を心から願い、日々にであう人に対しては善意をもって接しようとする、いわば「閉じられた人間から開かれた人間」へと転換が始まるのである。
『大経』には、自己中心的に閉じられている凡夫のありさまを 「心中閉塞して意開解せず」 「恩好を思想して情欲を離れず。昏曚閉塞して愚惑に覆われたり」 「身愚かに神闇く、心塞り意閉じて」 と教示され、凡夫は愚痴と情欲によって心が覆われ閉塞していると表されている。
一方、人が仏法にあうなら、 「仏、慈愍して大道を顕示したまうに、耳目開明して長く度脱を得つ」 「無量寿仏の声を聞きて歓喜せざるものなし。心開明することを得つ」 で、心は開放されて明るくなると説かれ、また 「神を開き体を悦ばしむ」 と説かれて、仏法は精神を世界に開かしめる功徳のあることが示されている。
これらの経文は、仏法にあわなければ、愚惑に覆われ、情欲(貪欲)を離れず、心中閉塞して、閉じられた人間のままであるが、仏法にあえば「神を開き体を悦ばしむ」で、精神は世界に開かれ、身心に喜びが生じて、開かれた人間に変換されてくることを説示されていると言えよう。
こうした展開は清沢満之師の『朧扇記』の言葉にもうかがうことができる。 「絶対は吾人に満足を与え、反対は吾人に不満を与う。ゆえに満足を生ずるものは善なり。不満を生ずるものは悪なり。満足あれば無欲心あり、無欲心あればーーー和合心あり。和合心あれば社交心あり。社交心あれば同情心あり。同情心あれば慈悲心あり」
人間は絶対の仏にあうことによって真の満足を得、満足から善が現れてくる。満足心は無欲心すなわち貪欲を離れ、和合心すなわち他の人々との平和を求め、社交心いわば社会的無関心を離れ、同情心つまり慈悲心となって利他的に生きようとする。こうして他に「開かれた人間」となされてくる。
一方、絶対(仏)にあわなければ、「反対は吾人に不満を与う」で、人生そのものに対して不満が生じる。不足不満は欲求不満となり、貪欲となる。こうして「情欲を離れず。昏曚閉塞して」、いわゆる「閉じられた人間」のままである。
*宿業因縁に制限せられる人間
ただしかし、信心をいただいても、人の身は煩悩具足の罪の身である。この身があるかぎり、我執我愛の煩悩は絶えず起こり、煩悩的なふるまいをしばしばなしてしまう。しかも、人が具体的にどういう生き方をし、どういう行動をするかは、いただいた信心の浸透の度合いにもよるが、ことに人それぞれの宿業性(気質や能力など)の制限を受ける。加えて、時代社会や受けた教育(なかでも広義の社会科学)の影響も当然こうむるのである。
それゆえ、「真宗信者は倫理的に必ずこういう実践行為をするべきだ」とか「念仏者は社会にたいしてこういう行動を取らねばならぬ」というような一定の枠をはめることはできない。「こうあることは願わしい」「こうあって欲しい」とはいえても、「こうでなければならぬ」とはいえない。真宗は、人間における個々人の宿業因縁を深く見ているからである。こうした人間の宿業性について 法然聖人は 「先の世のしわざによりて、今生の身をば受けたることなれば、この世にては えなおし改めぬことなり」 と申されている。 『歎異抄』には、宗祖聖人の言葉として 「さるべき業縁のもよおせばいかなるふるまいもすべし」 と記され、また『口伝鈔』には 「宿善あつきひとは、今生に善をこのみ、悪をおそる、宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ、善にうとし。ただ、善悪のふたつをば、過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて」 と示されて、真宗では、人間は宿業的存在であることを深く見据えている。
それゆえ、信不信にかぎらず、宿業の因と諸縁によって、真宗門徒の現実の行動やふるまいはさまざまである。
このことは人それぞれの倫理的行動において、政治的な運動や社会活動に献身するような行動がとれる人もあれば、そうしたことには後ろからぼつぼつついていく人もあろうし、あるいは身近な周りの人たちへの善意に生きる人もあろう。また一生病床の中で過ごし、周りの人のお世話になりながら感謝しつつ送るような人もあり、その行為的表現はさまざまであろう。
*結び
このように宿業因縁によって人のふるまいは多様であるが、弥陀の本願によって、人は問題だらけのこの世から救われ、おのずから他者と社会に心が開かれ、世界と人生上の諸問題に善処し、分を尽くさせていただこうと志向する、これだけは確かではなかろうか。
(了)